僕の父が、今年一月に亡くなりました。約二年間のガンとの闘病のすえ、あと一ヶ月すれば七十二歳の誕生日というところでした。
とくに病気が発見されてから、昔の思い出のようなものをメモに書くようにお願いをしていました。生来、何かを書き記したり、記録・保管したりすることは好きなほうでしたので、それほどの分量ではありませんが、いくつか、書いてくれました。
そのうちの一つを紹介します。この一編だけは個人的な内容ではなく、とても一般的な内容です。ここに掲載することも意味があるかもしれません。とくに一番最後の段落は、これからの日本を生きる人達へのメッセージとなっています。
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私の生まれたのは昭和21年2月。終戦から約半年のち。終戦後は人々の緊張も解けた一方、社会は混乱・混沌とした最悪の状況だった時代。それからの戦後の日本の歩みを生きてきたことになる。昭和25年、朝鮮戦争が勃発し、日本は特需景気でよみがえったといわれる。昭和34年、皇太子(現天皇)の御成婚(結婚式)で、白黒テレビが急速に各家庭に普及した。我が家も同様。昭和36年(高校入学の年)、池田勇人内閣が所得倍増計画を発表。昭和39年(大学入学の年)、東京オリンピック開催(10月10日)、新幹線開通(10月1日)、名神高速道路開通で世界にも戦後復興を宣言した。昭和43年(大学卒業の頃)に不景気(景気減退)にみまわれ、昭和45年(大学院終了の年)、大阪万博(日本万国博)がひらかれて「進歩と調和」がテーマとされた。背景には急速な経済発展による公害などの社会問題(国際的にはベトナム戦争、東西対立等)が無視できなくなってきたことがある。その後オイルショック、第二次オイルショックを経験し、低成長(安定成長)時代が続いている。当然、我が家の暮らしも大きく変わってしまった。小学校のとき母に言われたのは、「我が家は貧乏やから」「(ものがほしいと)上をみたらキリがない。我慢しなさい」だったように思う。小学校の給食は脱脂粉乳(だっしふんにゅう:米軍からの援助品)のミルクだったが、こどもの栄養問題から我が家でも牛乳をとることになった。毎日一本届けてもらい、こども三人で三分の一ずつ分けて飲んだ。当時は卵も貴重品で、卵焼きはごちそうだった。ご飯は麦飯で(割合は不明)、中学に入って給食がなくなり弁当をもっていくようになった時も麦飯だった。これが恥ずかしかった。ということは、他の人は麦飯でない人が多かったのだろう。麦飯は栄養を考えてのことではなく、やはり「節約」という母の強い考えだった。ぜいたくは禁物だ。小学校の社会科で教えられた重要なことでいつまでも心に残っているのは、《日本は資源のない国。だから原材料を輸入し加工して(付加価値をつけて)輸出してお金をかせぐという加工貿易の国である》ということ。これは基本的には今も変わっていない。同じことを今は「日本は技術立国」と言い換えている。これは日本の技術が優れていると自慢しているのだと受け取られる風があるが、真の意味は、「(加工の、付加価値をつける)技術がなければ日本は生きていけない」という意味なのだ。ところが、技術は日本人だけにあるものではなく、だれでも修得できる。後進国と言われる国も同じ立場で技術修得に必死になっている。日本は今後はどういう方向で日本の基盤を成り立たせるのか求められている。日本の今の繁栄の根拠が序々に薄れていっているのだ。(中田智 2016年11月28日記す)