たった二十歳で、中学生から今までの人生を断罪せざるを得なくなったという若者。
そして手にして回したカメラ。
本編全体はあっけないほど簡素で、ほとんどの人が映画を観て拍子抜けしたのではないでしょうか。僕はそうでした。
でも、そのシンプルさにこそ、このドキュメンタリの最大のメッセージがある、隠されているような気がします。
ある事件を機にアイドルのファンをやめた自分。おなじ経験をした人たちを訪ね歩き、彼女たちの怒りの声を紹介するのが本作です。他方、ファンをやめずにつづけている人は画面に一人として登場しません。そういった人たちも一定数いるはずですが、意図的にそちらへ取材は行わないのです。
二次加害を避けるためにそうしたのだ、と監督はインタビューで答えています。しかし、よく考えてみれば、そこには、二次被害を避ける(=ファンをふたたび傷つけてしまう)の意味もふくまれているはずです。
それをあらわすかのように、秀逸な場面が挿入されています。パク・クネ元大統領の政界復帰を願う団体に遭遇するシーンです。しかも監督は彼らの勢いにおされてパク・クネに宛てたファンレターを書かされてしまう。事件後も当該アイドルのファンを信奉することをやめない人たち(その多くは未成年だろう)とそっくりな大人がそこにいた。流されてしまう監督。本編のなかではそのシーンが鋭く、際立って光っていた。「自分から半径3メートル」だけを描くようにみえる本作が、とつぜん「世界」を描く。そのあとまた、元ファンたちのいわば素直な怒りのコメントの紹介にかえってゆきます。
本編ではその「事件」についての紹介・解説もされませんし、当事者をとりまいていた事情、事件に対する反応、その背後にあった世相についても一切言及がありません。凡百のドキュメンタリたることを拒否している。自分のために撮っている。ただひたすらに数名のファンの生の声(それはだいたいにおいて複雑で静かな怒り)が表されるだけで、監督は、「もうその話はしたくない、知っている人は知っている。知らない人には知ってもらう必要がない」と言っているのだろう。
延々と自分の気持ちや友人の気持ちだけに焦点を当てるだけの本作をみて、遠くのところから眺める観客、つまり僕なんぞは、そんな監督を気の毒に思うくらいが関の山であり、「自分は加害に手を貸してしまったのではないか」とまで悩む彼女たちに、「ちがうよ、本当の巨悪は子供の囲い込みにあけくれる娯楽産業のほうだよ」なんて慰めてあげたくなる。
しかし、マンスプはまったく不要で、監督がそんな搾取構造に気づかずにこの映画をつくっているわけがない。そんな助言(を装った批判)は不要どころか、それこそが大人による子供に対する別種の二次加害であると位置付けていることが見て取れるのです。
たかだか20歳かそこらの男の子を歌わせ踊らせ、そうやって商品として売り出し、子供たちを熱狂させる、その影でうまい汁を吸っている大人たちのことを批判せずに、なぜ熱狂する子供たちのほうを批判するのか、と大人にむけて厳しく問う場面があってもよかったと思う。それが僕の考え。(そのような問いかけがあったのかもしれない、僕が見落としていただけかもしれない。)
僕はいま五十をすこし過ぎたところ。僕の世代にとっては、この映画は、自分の娘が悩みながら成長する過程を描いているような、そんな作品としてうつる。
この映画は、ファンを批判することはしない。アイドル産業全体を批判する言葉もない。でもやっぱり、この映画は猛烈に社会の何かに対して批評をおこなっているように見える。「おかしいよ」と訴えているように見える。それは何か? 結局のところ、考えれば考えるほど、多くを語る必要さえないという結論にいきついてしまう。だから本編はとても短い。あの事件(とその背後にひそむ何か)を、遠回しに遠回しに、そしてものすごく直接的に、厳しく批判することが彼女の本分だと感じたからカメラを手にしたのだと思う。それをこの作品は大声で叫んでいるのだ。
そして手にして回したカメラ。
本編全体はあっけないほど簡素で、ほとんどの人が映画を観て拍子抜けしたのではないでしょうか。僕はそうでした。
でも、そのシンプルさにこそ、このドキュメンタリの最大のメッセージがある、隠されているような気がします。
ある事件を機にアイドルのファンをやめた自分。おなじ経験をした人たちを訪ね歩き、彼女たちの怒りの声を紹介するのが本作です。他方、ファンをやめずにつづけている人は画面に一人として登場しません。そういった人たちも一定数いるはずですが、意図的にそちらへ取材は行わないのです。
二次加害を避けるためにそうしたのだ、と監督はインタビューで答えています。しかし、よく考えてみれば、そこには、二次被害を避ける(=ファンをふたたび傷つけてしまう)の意味もふくまれているはずです。
それをあらわすかのように、秀逸な場面が挿入されています。パク・クネ元大統領の政界復帰を願う団体に遭遇するシーンです。しかも監督は彼らの勢いにおされてパク・クネに宛てたファンレターを書かされてしまう。事件後も当該アイドルのファンを信奉することをやめない人たち(その多くは未成年だろう)とそっくりな大人がそこにいた。流されてしまう監督。本編のなかではそのシーンが鋭く、際立って光っていた。「自分から半径3メートル」だけを描くようにみえる本作が、とつぜん「世界」を描く。そのあとまた、元ファンたちのいわば素直な怒りのコメントの紹介にかえってゆきます。
本編ではその「事件」についての紹介・解説もされませんし、当事者をとりまいていた事情、事件に対する反応、その背後にあった世相についても一切言及がありません。凡百のドキュメンタリたることを拒否している。自分のために撮っている。ただひたすらに数名のファンの生の声(それはだいたいにおいて複雑で静かな怒り)が表されるだけで、監督は、「もうその話はしたくない、知っている人は知っている。知らない人には知ってもらう必要がない」と言っているのだろう。
延々と自分の気持ちや友人の気持ちだけに焦点を当てるだけの本作をみて、遠くのところから眺める観客、つまり僕なんぞは、そんな監督を気の毒に思うくらいが関の山であり、「自分は加害に手を貸してしまったのではないか」とまで悩む彼女たちに、「ちがうよ、本当の巨悪は子供の囲い込みにあけくれる娯楽産業のほうだよ」なんて慰めてあげたくなる。
しかし、マンスプはまったく不要で、監督がそんな搾取構造に気づかずにこの映画をつくっているわけがない。そんな助言(を装った批判)は不要どころか、それこそが大人による子供に対する別種の二次加害であると位置付けていることが見て取れるのです。
たかだか20歳かそこらの男の子を歌わせ踊らせ、そうやって商品として売り出し、子供たちを熱狂させる、その影でうまい汁を吸っている大人たちのことを批判せずに、なぜ熱狂する子供たちのほうを批判するのか、と大人にむけて厳しく問う場面があってもよかったと思う。それが僕の考え。(そのような問いかけがあったのかもしれない、僕が見落としていただけかもしれない。)
僕はいま五十をすこし過ぎたところ。僕の世代にとっては、この映画は、自分の娘が悩みながら成長する過程を描いているような、そんな作品としてうつる。
この映画は、ファンを批判することはしない。アイドル産業全体を批判する言葉もない。でもやっぱり、この映画は猛烈に社会の何かに対して批評をおこなっているように見える。「おかしいよ」と訴えているように見える。それは何か? 結局のところ、考えれば考えるほど、多くを語る必要さえないという結論にいきついてしまう。だから本編はとても短い。あの事件(とその背後にひそむ何か)を、遠回しに遠回しに、そしてものすごく直接的に、厳しく批判することが彼女の本分だと感じたからカメラを手にしたのだと思う。それをこの作品は大声で叫んでいるのだ。

