815ビール

もう二〇年前になりますが、韓国ソウルへライブをしに行ったんですね、そうして厚くおもてなしくださり、夜にご馳走いただきました。
そのときのビールがたしか、「815ビール」という名前でした。
ビールの瓶に、そのように書いてあるわけです。
「中田さん、このビールの意味わかりますか」とニコニコと訊ねてくれた。
「何でしょう、わかりません・・・」
「そうですか、815というのは僕たちにとって独立記念日です」
ぱっと分からなかった。
恥ずかしい話ですが本当です。
とても友好的な会食のなかで、こういう話をしてくれたわけです。
それは、しないといけない話だからです。
韓国の人たちは、戦後何十年間も、日本との凄惨な過去をのりこえて、なんとか仲良くしようと努力している。
機会があればその話をして、しっかり乗り越えなければ友達になることも出来ません。
そんなの、常識なんです。

ところが、一部の日本のひとたち(これはほんの一部です)がそれを台無しにしているとしか言いようがありません。
一所懸命にすごろくを進めているのに、あとからやってきて、ふりだしに戻すんです。
おじいさんが大失敗をおかして、孫の代になって仲直りしようとしているのに、悪いおじいさんの肩を持つのです。
自分の罪ではないことを、あさはかにも自分の罪だと勘違いして、恥ずかしさを消すために、韓国のことを悪く言うのです。
あれは大日本帝国のおかした罪です。ぼくたちのおじいさんたちが犯した罪です。
(同時に、僕のおじいさんも、大日本帝国というものに蹂躙された被害者であることは言うまでもありません。)
そして、僕らの世代は、国として、それを引き継いで、もうぜったいにやりません、と誓うことが求められています。
ぜったいにやらない、と誓うからには、どうしたらそれをふせぐことが出来るのか、を考える責任があります。
言うなれば、「それだけ」なんじゃないかと思います。
それだけのことを一所懸命やらないといけないのに、また、韓国のことを悪く言う人がたくさん居る。
それで、歴史のすごろくが、ふりだしに戻ってしまう。

「水に流す」という言葉があります。
過ちがあっても、すぎさった昔のこととしてお互いに忘れる、という意味です。
ちょっと、僕はこの「言葉」が諸悪の根源のような気がしています。
つまり、過去の間違いを正して仲直りするためには、忘れるしか方法がない、それが美徳であるというような、ヘンな教えを日本文化に根付かせているように思います。
やられたほうは一生忘れることはありませんから、仲直りする方法はたった一つで、間違っていたことを認め、可能なかぎりの修復を行う。そして、もうやらないという姿勢を永久に持つ。
これは、それほど難しいことではないと思うのです。


2024年6月

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