毎回恒例の、僕はどこに投票するか、です。
僕は神奈川県民なのですが、東京都知事選のことを書きます。
いうまでもないことですが、都民1200万人の命と暮らしをあずかる行政首長の選挙であり、国全体にも大きく関係することです。
過去最多の22人のひとが立候補しているのだそうです。
都知事選というのは、毎回ヘンなのが立候補するのが常ですが、今回はとくに、さながら地獄絵図です。
選挙公報:
https://2020tochijisen.tokyo/public/files/senkyokouhou_all.pdf
ブログで書くべきことがあまりに無くてヤバいのですが、あらためて同じことを書きます。
選挙というのは、僕たちのものです。政治家のものではない。それは右の人も左の人も同じです。だから、僕たちは、選挙に向き合うため、みんなの〈常識〉というのをつくらないとアカンと思います。新聞もテレビも文化人も芸能人も、「投票にいきましょう!」とか、そんな東京ディズニーランドのようなことばかり言うていては、おさきは真っ暗です。というか、真っ暗です。光がみえません。光はどこにあるかというと、きっと、誰に投票するかをみんなで「話し合う」というところにあるはずです。それが民主主義のはずです。ジャーナリズムも言論もデモも、すべてその一環のはずです。
そういうわけで、その常識というのは、三つくらいではないかと思います。
一つ目は 誰に投票したらいいか、隠すのではなくてみんなで話し合わなくてはいけない。報道にしても、井戸端でしゃべるにしてもケンカにならない術を、大人は身につけよう。音楽家とか文化人とかは、誰に投票するか発表したほうがいいと思う。それが「話し合い」につながるから。(じっさいに誰に投票したかは言う必要はない。)
二つ目は、サンタクロースが存在しないのと同様、救世主はこの世にいない。だから選挙というのは「よりマシ」を選ばなくてはいけない。それで世をすこしずつ良くしていくしかない。
三つ目は、政治というのは基本的には〈政党政治〉でなりたっている。だから、政党でえらぶ。一番マシと思える政党を、選挙期間だけでなく常日頃から、きびしく叱りながらはげしく応援するしかない。政党っていうのはそもそも、そういうものだったはず。
よーするに、この三つを駆使して、リベラリズムというのか、ソーシャルデモクラシーというのか、むずかしい言葉は知りませんが、そういう、自由とか人権とか民主主義とか言いながら、弱い人の側を大事にする政治をつくっていくしかない、ということなんじゃないの。
前置きが長くなってしまいました。東京都知事選です。
前回は小池百合子は290万票をとりました。そのときは自民が180万票、立憲共産社民の鳥越が130万票でした。やはり、今回も小池百合子が当選するといわれています。
主な候補者はつぎのとおりです。
小池百合子(無所属、現職、元防衛大臣)
宇都宮健児(無所属、元日本弁護士連合会会長)
山本太郎(れいわ新撰組、元参議院議員)
小野泰輔(日本維新の会、元熊本県副知事)
立花孝志(ホリエモン新党、元参議院議員)
ひっくりかえしても、ヨコから見ても、ナナメから見ても、宇都宮健児しかいません。「貧しい人の力になりたい」と言って弁護士になった人であり、その志を貫いていることはあらゆる実績があらわしています。今回は、立憲民主党や共産党や社民党も、ちゃんと宇都宮を応援することにしています。
そのときどきで、うまい話にのったり、うまそうな話をつくったりして、なんとか時流に乗って延命をはかる政治家や政党は、いずれ根負けして居なくなってしまいます。そういうのは歴史を後退させる者だと思う。いまの日本の死屍累々たるありさまは、こういう政治を良しとした結果じゃないでしょうか。
誰が勝つかということではなく、宇都宮健児が何票をとるかということが重要だと思います。日本をすこしずつ良いところにするのは、何十年とか何百年の話だからです。
僕が東京都民であったら、都知事選では宇都宮健児に投票します。