神奈川県川崎市の多摩区というところは、すこしふるい郊外です。川崎の「工業地帯」という知られるイメージとはちがって、北のほうですので随分とのんびりしたところです。
むかし、向ヶ丘遊園という遊園地があって、もう廃園になってしまいましたが、その脇のところに、〈藤子・F・不二雄ミュージアム〉というものがおよそ十年前にできました。F先生の自宅はこの辺りにあるのです。
F先生にまつわるいろんなものが展示されています。ドラえもんやキテレツ大百科やエスパー魔美の原画をはじめ貴重なものがたくさん。ここは子供向けの施設なのですが、じつは、おとずれた中年男性には不意に大号泣してしまう人が少なくないらしい。
ここには、F先生の仕事場を再現した展示などもあります。どういったものからアイデアを得て創作されていたかを知ることができます。そういったものは中年男性の興味をひく。
しかし大号泣するとは何事でしょう。そんな愛用されていた文房具や図書をみただけで泣いてしまうのではないだろう。
実物大のタイムマシンやどこでもドアを見るのは、大人であってもわくわくすると思いますが、まさかそんなことで泣いてしまうのではないでしょう。
憧れのF先生の仕事机に置いてあったアイテムをみれば気持ちは高まるかもしれない。でも、それだけで泣いてしまうのではないだろう。
なぜ泣いてしまうかというと、何十年も前、自分が子供のころ大好きだったドラえもんやオバケのQ太郎に久しぶりに出会うから・・・ではない。それよりもっと重要なこと。本当のところ、生まれてはじめて〈藤子不二雄〉という人と「再会」するからなのだ。
F先生が漫画にこめていたメッセージを、四十年ちかく経ってからようやく自分の頭で理解することができるのです。
子供のころには分からなかったことがある。
なぜ、のび太とジャイアンはいつも遊んでいるのか? (あんなにイジメられているのに。
なぜ、のび太はしずかちゃんと結婚することができるのか? (あんなにのび太はダメな男なのに。)
なぜ、ドラえもんはさじを投げることなくのび太を救おうとするのか?
そもそも、なぜ、のび太なんていう取り柄の無いキャラクターが主人公なのか?
なぜ、劇場用映画のときだけ、のび太が勇敢になったりジャイアンが優しくなったりするのか?
そういった、長い間ほとんど無意識にぼんやりと抱いていた疑問が、一気に氷解する。
それが本当の藤子不二雄に出会うということだと思う。
藤子不二雄は、読者である子供たちに大切なメッセージを届けようとして必死に漫画を描いてくれた。そしてF先生は62歳の若さで亡くなってしまったのだ。
まるで、幼稚園や小学校時代の、一番やさしかった先生に再会するようなことだろうか。または、一度もじっくり話しをしたことのなかった父の日記を読むようなことだろうか。
ここでは子供と一緒に来場する大人も、大人であると同時に「むかし子供だったひと」として迎えられているのだ。そこにちょっとマジックがある。
大人がいだく子供時代への郷愁というのは現代の子供たちにとっての悪害になりうる。だから、このミュージアムは、僕のような世代の者にとっては、懐かしむところではなく、お父さんというものが子供に何をあたえるべきか考えるための場所になるべきだと思う。もちろん、いくら憧れてもF先生のようになれないけれども。
よい天気だが、マクドナルドの脇で、自転車を停めて、地べたに少年が眠っているのである。
人通り多い商店街で、昼間からスヤスヤと。疲れているのだろう。
マクドナルドの壁面にもたれかかり、道の脇に座り込んで、片手にスマホを握ったまま。よく眠っているが、なぜかスマホが落ちない。
眠りながら、黒い大きめの箱を、少年は両足で挟んでいる。箱に「UBER EATS」と書いてある。
* * *
いま、新型コロナというウイルスが世界を襲っていて、僕たちは出来るかぎり外出や人との接触をさけて生活しています。それが約1ヶ月つづいたところ。さんざん云われている言葉は、「自粛」「自粛要請」「緊急事態宣言」「不要不急(であるかどうか)」「ステイホーム」など。
このブログを、数ヶ月後や数年後に読み返したとき、なにを思うのでしょう? 「あのときは大変だったな」「みんなで乗り越えたよね」であってほしい。とくに家にいる子供たちは大人になってから「あのときいっぱい遊んだよね」「懐かしいね」と言ってほしい。
でも、そういうわけにはいかないと多くが報じています。じっさいに命を落とす人があらわれ、これからもっと増えてゆくのかもしれません。そして、ひきおこされる「コロナショック」は壮大なものになると云われる。IMFは2020年の世界の経済成長がマイナス3パーセントになるだろうと予測を発表しました。これは1929年の大恐慌以来の数字なのだそうです。
大恐慌といえば、数年で各国のGDPが数十パーセントも下がるという凄まじいものです。
もちろん、マスコミというのものは往々にして大げさに書きたてて人の恐怖をあおる。
予測がはずれることを祈ります。しかし、いまは分かりません。
かつての世界恐慌は、すぐにヒトラーの台頭を生み、それは十年弱で世界第二次世界大戦へ突入した。
日本でも、都市に失業者があふれ、農村部にしわよせが行った。そこから兵隊がとられて中国へ行った。
政治が無策であったがため、人々は軍部を信じた。「日本は戦争は強いのだ。外国で暴れれば、農村の貧困を救うことになるのだ。」そういう物語を信じてしまった。
それでは、次に登場するヒトラーは、誰なのだ、どの国から登場するのだろう、という話になる。
次に登場する関東軍やら東条英機やらは、誰なのだ、どの組織から登場するのだ、という話になる。
でも、歴史は繰り返さない、と云われる。あれと同じことは起きない。ああいった、爆撃機が空をとんだり、戦車が野をかけるような、戦争はたぶん起きないのだろう。
しかし、人は失敗を繰り返す、と云われる。あのときと同じ間違いをおかす。でも、その間違が一体なにだったのか、それが分かりません。未来の予想は難しいことです。けれど、考えていかなくてはいけません。もしかしたら止めることは出来ないかもしれない。でも、考えたり行動したりすることは、やめてはいけないと思います。
短期的に何が発生するかは、容易にわかります。
さらなる不況がやってきて、いまの格差社会に拍車をかけるということです。
インターネットというモンスターが、非正規雇用を加速させています。
弱いものにはとことん厳しい世の中、強いものはどんどん太る世の中になってゆくのでしょう。
インターネットは、それこそ「双方向」です。
UBER EATSが便利だ、なんて言ったらダメだと思う。なぜならUBER EATSにとっては配達員さんが「便利」なのだから。
つまり、僕たちも配達員さんになるのです、もうすぐ。
アマゾンが便利だ、なんて言ったらダメだと思う。なぜ価格が安いのか、送料が無料なのか。
つまり、この前の記事でも書いたけれど、アマゾンの倉庫係さんや配達員さんたち、非正規雇用構造を出来る限り見えなくしているという見せかけの「便利」だからです。
スマホが便利だ、なんて言ったらオカシイと思う。スマホは、世界を操縦するリモコンスイッチのように見える(『鉄人28号』みたいな)
けれど、それは逆で、スマホで企業からのリモートコントロール指令をうけているのは僕たちのほうなのだ。
グーグルが便利だ、なんて言ったらダメだと思う。なぜならグーグルは誰にとっても便利な存在なのだから、僕の敵にとってもグーグルは便利なはずだ。つまり、強い者はもっと強くなり、弱い者は相対的にもっと弱くなる。
それって、グーグルは強い者の味方であるということだ。つまり弱い者の敵ということになる。
何より、グーグルにとって僕たちこそ「便利」なのだ。
それなのに、インターネット企業は、弱い者の味方の顔をしている。
不況時代の救世主のように見せかけて、じつは格差社会をうんでいる張本人なのでしょう。
よーするに、不況下のドイツの救世主か、どこかの国の暴走する軍部そのもののようにしか見えません。
出前の配送指令をまつ少年には、家に帰って寝たほうがいいよ、と言うほかありません。
でも、もちろん、そんな事を言ったって・・・という話です。
『パラサイト』は、なかなか良かったと思いました。
星は三つ半くらいでしょうか。いや、三つくらいでしょうか。
面白かったと思うのですが、アカデミー賞作品賞などといって大フィーバーするほどのことでも・・・と思うのですが。そこが問題です。
ジョーダンピールの『US』や『ゲット・アウト』に類して、寓話的というか、よーするに「世にも奇妙な物語」みたいな。
それもよいのですが、それだけだったらテレビで30分くらいで描けてしまうやん、となります。したがって、本編のさいごで、豪雨がやってきて貧民街のほうへ水が流れおちてゆくシーンなどが重要になってくる。迫力がありました。あの水はなんだろう・・・。逆トリクルダウン。「うえから落ちてくるのは、泥水ばかり」。
そういえば、もう七、八年前になるけれど、NHKスペシャルでこんなのをやっていました。
日本人のIT長者がシンガポールに住んでいる。税金がすくないから。フェラーリに乗って朝食を食いにいく。朝飯のために1時間も車をとばして隣のマレーシアまで行く。そこで一杯数百円のラーメンを食べる。
核心をついたレポートでした。
富はうえから落ちてこない。
企業が潤えば国全体が潤う、というのは、政府も一緒になってまき散らした大嘘なのだ。
そんなこと最初から分かっていたのに!
『パラサイト』も『ジョーカー』も『US』もいいけれど(僕は『万引き家族』観ていません・・・。観ます!)、そんな、フェラーリで数百円の朝飯を食いにいく鬼畜の映画をつくってもいいんじゃないでしょうか。
さて、映画で一番印象に残っているのは、ソンガンホ演ずるお父さんがリビングルームから脱出するシーン。社長と社長夫人が寝ている傍のテーブルの下に隠れていて、そこから匍匐前進(ほふくぜんしん)で、逃げる。
ハラハラさせられる。
なぜか分からないけど、ひさしぶりに映画を観てハラハラドキドキさせられた。子供のころには、映画とはそういうものだった気がするのだが、最近は少ない。僕が大人になってしまったからだ。
このシーンで、監督から「ほらね、映画ってこんなに楽しいものでしょう? こういう要素もなければ映画っぽくないよね」と優しく語りかけられているような気がして、とても有り難い気分になった。
ただただ居間で中年男が身体をひきずりながら前に進んでいるだけのシーンなのに、何億円もかかっている戦争映画のような大スペクタクルを連想させる。
きっと、わざと、そうしてるんだろう。娯楽映画というものを斜に構えて皮肉をまじえて提示しているのだろう。そんな気がしました。
ピザの箱を組み立てている貧困家庭。IT長者の富裕家庭。さらに一番下の、見えない階層にいる夫婦。みんな同じく「家族」なのに、収入が極端に違う。階層が違う。階層は固定化している。
さいごのホームパーティでの惨劇はよくできていた。
クライマックスで、ついに登場人物が全員、一同に介する。映画あるある。
僕がひっかかっていることを書きます。
それは「アメリカ」です。それから、子供が気に入っている「アメリカ製のインディアンのおもちゃ」です。
この映画は、徹頭徹尾、アメリカを賛美している。もちろん、これはアメリカを批判する映画です。でも、ほめ殺しというのか、とにかく持ち上げている。
友人がアメリカに留学する。兄は英語の家庭教師。妹はシカゴ大学の研究者を偽る。富裕家族はカタコトの英語をしゃべっている。
この三家族が示している階層の、そのまた上にアメリカ合衆国という資本主義(狭義には新自由主義経済)の親玉が控えていることを示している。
僕が納得のいかないのは、そのアメリカを悪玉として提示していないじゃないか、ということです。
この映画ではアメリカは善とも悪とも定められていない。
不気味に、姿をあらわさないが、すべてを支配している全能者として映画の基調を成している。
だから、この映画をアメリカ人がみたら、悪い気分はしないと思うのです。
必要もないのにアジア人が日常で英語をつかっている。やはり、立身出世して特権階級に居続けるには英語だ。
「アメリカに行くことになりました」とか「アメリカから来ました」というだけで、人々がひれ伏す世界を描いている。
やっぱり、アメリカ人がみたら、胸くそが悪くなる映画をつくらなくてはいけなかったのじゃないのか? もちろんそれは監督のセンスです。でも、そういう批判もあってしかるべきだと思います。
そしてこの映画はなんとアカデミー賞を獲得しました。
そんな間の抜けた、恥ずかしい話があるか、と思う。
アジア人がアメリカを賛美している映画をつくって嬉々として賞を受け取る。
(どちらとも言っていないが、どちらとも言っていないならこの場合、「賛美」と誹られても言い訳できないでしょう。)
いや、もしかしたら(たぶん)、アカデミー賞を狙って製作されたのが本作なのではないか。
映画業界のことなんて分からないけれど、製作会社だってアカデミーだって、みんなボンクラじゃないのだ。僕はそのように訝しく思います。
それならば、こんな恥ずかしい映画があるか、ということになる。
いや、ちがった。そんな映画しかアカデミー賞をとることが出来ないということでしょう。
肝心の「インディアン」の話をします。
この映画では、富豪の息子がキーパーソンになっていますが、彼は、二つの貧困家庭を見ることができる、目に映るという存在です。両親は、成功した大人なので世の格差社会に目をつぶっていますが、子供はそのような悪いしぐさが身についていないのでしょう。
その彼が「インディアンごっこ」をします。それは何を表しているのでしょう。
まずオカシイと感じるのは、やはり、インディアン(アメリカ先住民)がステレオタイプで描かれていることです。羽飾り、テント、弓矢など。現代のインディアンの視点が抜け落ちている、侮辱的ともいえるものです。これは、差別や格差社会をとりあげている映画としてまったくふさわしくない。
監督や製作者は、アメリカで成功しているアタマのいい人たちなのですから、そんなことは十分承知しているでしょう。つまり、わざと、でしょう。それは何故か?
この作品が、富か階級というものによって人間の価値や命のゆくえが決まってしまうことを批判している映画なのであれば、インディアンは一体何を示しているのか。
侵略される者のメタファー・・・? アメリカ資本主義に蹂躙される韓国をあらわしている・・・? 誰だって、まずはそれを疑うでしょう。でも、そんな単純な風にも見えません。もしそうなら、がっかりもいいところです。
インディアンごっこをする息子は、なにかしら両親に対して、反抗・反逆ののろしをあげている様子です。
しかし、彼は富豪夫婦の子供なのですから、結局なにも出来ませんし、しません。
しかも「アメリカ製のおもちゃ」という但し付きです。なんじゃそりゃ。馬鹿にされたような気がします。
上記を重ね合わせて思えば、このインディアンのおもちゃは、この映画そのものを表しているという気はします。
つまり「アメリカ製のおもちゃ」が「アメリカを批判する」けれど「もちろん歯もたたない」。そもそも、「戦う気があるのかどうかも分からない」。なにせアカデミー賞狙いの本作です。
だからこそ、つまり、わざわざステレオタイプでトンチンカンな、批判するほうも腰が砕けるような、自嘲のメタファーになっているのではないか。
なんだか、『ブラック・クランズマン』のときと同じ、「映画はアカン」みたいな話になってきた。どうなんだろう。