マーサ・ハイ物語(第二回)
さて、前回(第一回)でも書いたように、マーサは1945年生まれワシントンDCで育ちました。
さて、前回(第一回)でも書いたように、マーサは1945年生まれワシントンDCで育ちました。
ワシントンDCというのは、ご存知のようにアメリカ東海岸の真ん中あたりにあります。ニューヨークから車で4時間ほどですから、東京から名古屋くらいでしょうか。(そんな説明は要らんか・・・。)言うまでもなくアメリカ合衆国の首都で、議会議事堂やホワイトハウスがあるところ。「政治の街」として知られるところです。
しかし、ワシントンDCは、それとはまったく別の顔をもっているのです。それは、黒人の人口比率が50%を超えるところで、FUNKファンの間では〈チョコレートシティー〉として知られるところなのです。
ダニーハザウェイとロバータフラッグが通い、そして出会った、あのハワード大学のある街。
デュークエリントンの出身地であり、あのハワード劇場がそびえる街。
「ゴーゴー」という新しいFUNK(っていうのかな?)を産んだ、ひときわ音楽の盛んな街。
これから、お話しするマーサハイの物語のなかにも、お馴染みのR&Bスターが何人も登場すると思います。
(1940年代:デュークエリントン楽団、ハワード劇場にて)
マーサは、そんなワシントンDCの「O(オー)ストリート」というところにあるアパートで幼少時代を過ごしました。一般的にはフッド(ゲットー)と言われている地域です。彼女自身は、「私は、貧困や差別を味わったことは無い」と言います。ちょっと話はそれるかもしれませんが、そういえばマーヴァホイットニーも同じようなことを言っていました。こういう発言をする人はたくさん居るのです。そういえば、ちょっと話は飛びますが、マイルズデイヴィスもよく言っていました。「オレの父親は歯医者だし、母親は、お前のガールフレンドより美人だったぞ。黒人がゆえの苦労なんてしたことがない」と。
マーサは1940年代から50年代にかけて育ったわけですから、差別を体験していないはずはありません。この時代には、ワシントンDCでも、白人と同じレストランや公衆便所を使うことさえ許されていませんでした。黒人がバスに乗るときは後ろの専用席に座ったのです。ただ、そういった〈隔離〉が当たり前の時代だったので、子供のころは疑問を抱かずに育ったということです。それに、「中流」ということは決して無かったのでしょうが、黒人のステレオタイプとして思われるような貧困のなかに育ったのではない、ということを言っているのだと思います。
話を元に戻します。中学生から高校生のころは、母親のレコードを聴くのが楽しみだったそうです。グロリアリン、エタジョーンズの「Don't Go To Strangers」などをよく聴いたそうです。それから、ラムゼイルイスやアーマッドジャマルのピアノのレコードも大好きだったそうです。特に、アーマッドジャマルの「ポインシアナ」が一番の愛聴盤だったそうです。
それから、当時もっとも人気のあった歌手は、ベイビーワシントンやマクシンブラウン。憧れの的だったそうです。
高校一年生のころ、グロリアリンの歌をうたっているうちに、初恋の相手だった男の子に歌が上手だと言われて、自分の才能に気がついたそうです。いい話ですね。
マーサには二人のお兄さんがいて、両親と五人家族でした。お父さんはワシントン国立公文書館での仕事と、副業として掃除業もやっていました。お母さんは総菜屋さんで働いていたので、両方からの収入があり、それほどまでに貧乏ではなかったと言います。生まれたのは三階建てのアパートでしたが、九歳のときにお父さんが昇進したのをきっかけに、ワシントンDC北西地区のヴァーナム通りにある一戸建ての家に引っ越しました。アパートが立ち並ぶOストリートから北西地区への引っ越したことは、本当に嬉しかった良い思い出だったそうです。
わけあって高校三年生を二回やることになったマーサでしたが、そのルーズベルト高校で、高校三年生のとき「ゼオラ ゲイ」という友達ができました。さらに彼女の友達のイヴォンヌとも知り合いました。その三人でボーカルグループを結成しました。そのゼオラは、何を隠そう、のちに有名になるマーヴィンゲイの妹でした。ゼオラはやはり歌がうまかったそうです。
彼女たちは、ワシントンでは有名な「チボリ劇場」というところの中のリハーサル室でよく練習したそうです。同じ部屋を使っていた人達に、「シンシアリー」や「恋の十戒」で知られるボーカルグループ・ハーヴェイ&ムーングロウズや、「I DO LOVE YOU」等で知られる歌手・ビリースチュアート、そしてジュエルズが居たそうです。マーサは、後にこのジュエルズに加入することになり、その後の音楽人生が大きく開かれたのでした。
マーサは1940年代から50年代にかけて育ったわけですから、差別を体験していないはずはありません。この時代には、ワシントンDCでも、白人と同じレストランや公衆便所を使うことさえ許されていませんでした。黒人がバスに乗るときは後ろの専用席に座ったのです。ただ、そういった〈隔離〉が当たり前の時代だったので、子供のころは疑問を抱かずに育ったということです。それに、「中流」ということは決して無かったのでしょうが、黒人のステレオタイプとして思われるような貧困のなかに育ったのではない、ということを言っているのだと思います。
話を元に戻します。中学生から高校生のころは、母親のレコードを聴くのが楽しみだったそうです。グロリアリン、エタジョーンズの「Don't Go To Strangers」などをよく聴いたそうです。それから、ラムゼイルイスやアーマッドジャマルのピアノのレコードも大好きだったそうです。特に、アーマッドジャマルの「ポインシアナ」が一番の愛聴盤だったそうです。
それから、当時もっとも人気のあった歌手は、ベイビーワシントンやマクシンブラウン。憧れの的だったそうです。
高校一年生のころ、グロリアリンの歌をうたっているうちに、初恋の相手だった男の子に歌が上手だと言われて、自分の才能に気がついたそうです。いい話ですね。
マーサには二人のお兄さんがいて、両親と五人家族でした。お父さんはワシントン国立公文書館での仕事と、副業として掃除業もやっていました。お母さんは総菜屋さんで働いていたので、両方からの収入があり、それほどまでに貧乏ではなかったと言います。生まれたのは三階建てのアパートでしたが、九歳のときにお父さんが昇進したのをきっかけに、ワシントンDC北西地区のヴァーナム通りにある一戸建ての家に引っ越しました。アパートが立ち並ぶOストリートから北西地区への引っ越したことは、本当に嬉しかった良い思い出だったそうです。
わけあって高校三年生を二回やることになったマーサでしたが、そのルーズベルト高校で、高校三年生のとき「ゼオラ ゲイ」という友達ができました。さらに彼女の友達のイヴォンヌとも知り合いました。その三人でボーカルグループを結成しました。そのゼオラは、何を隠そう、のちに有名になるマーヴィンゲイの妹でした。ゼオラはやはり歌がうまかったそうです。
彼女たちは、ワシントンでは有名な「チボリ劇場」というところの中のリハーサル室でよく練習したそうです。同じ部屋を使っていた人達に、「シンシアリー」や「恋の十戒」で知られるボーカルグループ・ハーヴェイ&ムーングロウズや、「I DO LOVE YOU」等で知られる歌手・ビリースチュアート、そしてジュエルズが居たそうです。マーサは、後にこのジュエルズに加入することになり、その後の音楽人生が大きく開かれたのでした。
(改修された現在のチボリ劇場)
そのチボリ劇場で出会った人物から、「ボディドリーの自宅スタジオに遊びに来なよ」と言われました。ワシントンDCに住んでいた、R&B界の巨人・ボディドリーは、地元の才能あるミュージシャンや歌手の手助けをするのが常だったそうです。マーサたちは、これはスゴいことになるかも、と期待に胸をふくらませたそうです。