映画『ソウル・パワー』劇場公開パンフレット



 「幻の」という形容詞はまさにこの音楽祭のためにあるような気がする。長い間待たされた本作をようやく見終えたいま、 〝ザイール’74〟 のことを(アメリカの)ソウル・ミュージックの音楽祭だとばかり思い込んでいた自分をとても恥ずかしく思っている。僕はウッドストックやワイト島、もしくは 〝ソウル・トゥ・ソウル〟 や 〝ワッツタックス〟 または 〝Save The Children〟 の二番煎じと侮っていたのだ。
 まったく違う。このフェスティバルの総出演者は31組。そのうちザイール(現・コンゴ民主共和国)からは17組、国外からは14組。ソウルはもちろんのことラテン・ミュージックを含むアメリカ合衆国、そしてアフリカ大陸の各地から著名なアーティストを集結させた音楽祭。アフリカ大陸の最大の音楽都市といってもよいかもしれない、キンシャサで開催された、後にも先にもなく大規模な〝世界のブラック・ミュージックの祭典〟だったのだ!
 僕はラテン・ミュージックもアフリカ音楽も初心者だ。タブ・レイ・ロシュローの音楽を聴いたとき、これがカリビアン音楽なのか、アフリカのものなのか、はたまたアメリカの音楽か判らなかった。コンゴをはじめとするアフリカの大衆音楽がこれほどキューバ音楽やアメリカのジャズの影響を受けた(もしくは与えた)ものだったことに恥ずかしながら驚愕させられた。アフリカ大陸の子孫の人々による世界の黒人音楽はとくに1930年代からずっとのあいだキューバやパリやニューヨークを経由して相互に影響を与え続けていたのだ。
 そういった深い絆をも浮き彫りにするべくスチュワート・レヴィンが見事に企画した音楽祭。これは〝ワールド・ミュージック〟 というような言葉さえまだないこの時代にアメリカやヨーロッパの音楽市場の目をアフリカの大衆音楽に向けさせるという夢のフェスティバルだったのだ。
 いや、「目を向けさせるはずだった」と言うべきだ。この世紀の音楽祭は興行的には見事な失敗に終わり、結果として映画化は『モハメド・アリ かけがえのない日々』までが22年、本作までは実に35年以上の月日が必要になってしまったのだ。なぜ「幻」となってしまったのか。それについて僕の見方を書こう。

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 本タイトルは『ソウル・パワー』となっている。言うまでもなく映画冒頭で演奏されるジェイムズ・ブラウンの1971年のヒット曲からとっている。そしてそれは 〝ブラック・パワー〟 という60年代後半にストークリー・カーマイケル(本編にも登場する)らによって広められたスローガンを音楽界向けに変形させた言葉だった。しかし、本編の中で語られるアリの合衆国批判や 〝アフリカ回帰〟 といったコンセプトは60年代後半に大いに盛り上がりを見せたものであって1974年当時にはすでに目新しいものではなかった。
 本ドキュメンタリの中でドン・キングが披露する思想は「黒人社会に投資させよう」「黒人所有の企業を成長させよう」というものだ。これがこの時代の寵児にとってのブラック・パワーであり、60年代の「団結して我々のための政治を」という精神からはシフトしている。
 本編中におけるジェイムズ・ブラウンにもその時代感は如実に現れている。彼がヒゲを生やしてステージに立つようになったのも1974年だった。これは非常に重要な意味をもつ。ヒゲは「大人の男」を意味し、60年代には米黒人のエンターテイナーにとっては容易なことではなかったからだ。それと時を同じくして逆に髪型は69-73年当時のアフロ・ヘアではなくストレートに戻っている。
かの 〝ブラック&プラウド〟 が発表されたのは1968年だった。この曲はあまりに反響が大きかったためすぐにライブのレパートリから外された。60年代末はそれほど一触即発の時代だったのでブラウンの歌手生命に危機を与えかねなかったのだ。だから本編のブラウンのショーでフィナーレに演奏されるこの曲はこのアフリカ・ツアーのために特別に再演したのであって、つっこんで言えば、この時期この土地でリフレイン部だけならば演奏しても「よくなっていた」のである。
 映画を締めくくるメッセージ「 〝Damn right, I am somebody.〟 」からも読み取ってほしいことがある。ザ・JBズによる1974年発表の同名アルバムがある。1971年のジェシー・ジャクソン師の有名な “I am somebody.〟 (私は尊敬されるべきひとりの人間だ)というスローガンに、 〝Damn right,〟 (「当たりめえよ」というスラング)を付加している。つまり、この頃には意識改革はすでに普及していたので、ストリート向けに更にポジティヴにブラウン流につくりなおしたというわけ。(60年代の 〝We need Black Power.〟 では主語が「We」だったが、いまや個人レベルの思考に変わっている。)加えてフレッド・ウェスリーのラップが披露されるエンドロールの〝Same Beat〟という曲名も、同じく 〝Some-body〟 をもじっている。(「アメリカの地で400年にわたる分断の歴史を経てもなおアフリカと 〝同じビート〟 を刻んでいるのだ」と言っているように聞こえる。)

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 音楽評論家の吉岡正晴さんは、1972年の5月にビルボードのPOPチャート上位10曲中8曲がソウルの曲になったことをエポックメイキングな事象として挙げている。「黒人音楽はカネを生む」と気付いたCBSやポリドールなどの大手の資本が1971-72年ごろ参入してきたのだ。さらに数年を経た1974年にはソウル・ミュージックはすでに世界的な商品(つまり「毒」のないもの)になっていた時期だった。
 より大きな娯楽産業である映画界にもそれは色濃く反映されていた。1973-74年はいわゆる 〝ブラクスプロイテーション〟 という黒人映画が量産された時期。同じく「毒」抜きで似非革命・反革命的な映画群。 『ペイバック』もそういった映画のためにつくられたアルバムだった。(この音楽祭もそのマーケットに当て込んで映画化しようとしたことは容易に想像できる。そして是非ともそうするべきだったのだが…。)
〝ザイール ‘74〟 も同じ様相を呈している。スタックス社の〝ワッツタックス〟や、モータウン社とジェシー・ジャクソン師の〝Save The Children〟のように、黒人所有の独立系会社が(ある程度のスポンサーシップはあったにせよ)ブラック・パワーを音楽イベントで表現しようとした市民レベルではなく、大きなスポンサーの援助ありきで全世界の市場に向けたイベントだということ。1974年のソウル・ミュージック界を、家電会社や映画会社や銀行、果ては独裁国家からの資金提供を受けた 〝黒人音楽バブル〟 と表現すると言い過ぎだろうか?
 僕は批判的な意味だけで「バブル」といっているのではない。興行屋なんて便乗したらいいに決まっている。これだけの資金を投入して「第三世界」の音楽祭を全世界に向けて実現(特に映画化)させようとしたことは、大きな夢だったと讃えたい。

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 そしてバブルは容易にはじける。ジョージ・フォアマンの軽傷により肝心の試合が6週間延期されることになったので見込んでいたツアー客が激減した。「キンシャサのホテルでの食事はすべて主催者側負担」と誰かが言ったおかげで、ホテルからの請求額はなんと20万ドルを超えたという。ジェイムズ・ブラウンはアメリカから13トンもの自前の機材を持ち込み、経由地のマドリッドでは滑走路ちかくに生えていた木々に機体が擦れるほどだった。
 1974年9月24日の早朝6時、 〝ザイール ‘74〟 は終了した。動員は記録では8万人とされているけれど実際はその10分の1だったという説もある。入場者売上は目も当てられないものだったはずだ。(ザイール国民の平均年収はたったの100ドルだった。) 〝キンシャサの奇跡〟 と呼ばれるアリの奇跡的なカムバックは世界の話題をさらったが、余計に皆は音楽祭のことを忘れてしまったのだろう。音楽祭の主催をつとめるロイド・プライスへは、幼馴染みだったはずのドン・キングからは契約の履行を拒否され、ボクシングの収益金から音楽祭への援助はいっさい断られたという。125時間におよぶフィルムを現像・編集するための資金はショートし、当初予定された映画化は宙に浮いてしまったのだった。

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 この音楽祭は、その真の意義 〝世界のブラック・ミュージックの祭典〟 という意味では、明らかに時代の先を行き過ぎていた(そして今もまだ追いついていない)。資金の使い方は度を超していた。その反面、「3日間の音楽祭」というスタイルそのものは古くさかったし、「米黒人がアフリカに帰る」のも目新しくなかった。
 かくしてこのフェスティバルは幻となってしまった。しかし、そういった興行的な観点と演奏された音楽そのものには何の関係もない。16mmフィルムに美しく記録された映像や当時最新の2インチ16トラックに録音された音楽テープに触れるかぎりそのパフォーマンスに一点の曇りもないことは本編を観た者なら誰でも同意してくれるだろう。
 想像できるだろうか。誰でも〝ウッドストック〟は知っている。1972年生まれの若輩者の僕でも〝ワッツタックス〟はVHSテープが絡まってしまうまで観た。 〝ソウル・トゥ・ソウル〟 も同じく古典だ。それらと同等またはそれ以上に 〝ザイール ‘74〟 が当時に長編映画として成功してアフリカの音楽が世界に紹介されていたら? アフリカとアメリカの絆にインスパイアされて現代の音楽状況は今ごろどうなっていただろう? 〝キンシャサの奇跡〟 の世界的影響力も合わせて考えるなら本当にその可能性は十分すぎるほどあったのだ。そこに想いを馳せることにこそこのドキュメンタリの真価があるのではないかと思っている。
 幸か不幸か2010年には独裁者がボクシングや音楽祭を宣伝道具に利用することはなくなった。「ロック・フェスティバル」は戦争を始めたり止めたりするほどの力を持ち合わせていない(戦争は今も続いているが)。ここに瞬間的な頂点を極めたアフリカとアメリカの音楽の交流も途絶えてしまったようだ。それでもなお、だからこそ、遅れてきたこの公開をひとつの救いのようなものと僕は考えている。

 

2009年、日本劇場公開パンフレットより

(ホームページ掲載にあたり部分的に修正を加えてあります。)