なんとかするための方法

 
平和をまもっていく方法、戦争をなくす方法、経済格差や貧困をなくす方法。若い命をまもったり、誰でも何もおそれることなく生きていけるような社会にする方法。
いったい、そんな方法は、あるでしょうか。

それは、僕はあると思うようになりました。

そのための、もっとも簡単で、もっとも優れている方法とは、「ひとが集まること」であろうと思われます。
唯一の方法、といってもいいかもしれない。

大規模がよいかもしれないけれど、小規模でも良いのです。
たった一人や二人であってもいいのです。
数十人や数百人の集まりもよいでしょう。

数千人や数万人なら、国家的に何かが変わる可能性が生まれると思います。さらに、数十万人なら、確実に国家をうごかす力が生じます。
しかし、数千人や数万人が集まらなければ何も変わらない(または、何もまもれない)と言ってしまうのはオカシイと思います。
それは自分一人の力を棄ててしまっているからです。
自分一人の力を棄ててしまうと、ガラガラと平和はくずれさり、弱いものから順番にひどい目に合わされる世の中がやってきます。

ひとが集まること。これ以外に方法論は無いといっていいんじゃないかと僕は考えています。
これが僕が、「どうしたらいいんだろう」と浅知恵でかんがえて、この数年間(たったの数年間なのですが)で、たどりついている結論です。
言うまでもありませんが、こんなことは、数十年、いや数百年前や数千年前から、すでに得られている答えですし、日本中や世界中で膨大な数の人たちがすでにそのように行動しています。

でも、ちがうかもしれません。
僕は、つい最近に、見たり聞いたり読んだりして考えただけのことです。
ただ、どうやらほんとうに、たくさんの人が実践していますから、僕は確信は増すばかりです。(それこそが、「人が集まる」ということの意味だと思うのですが。)

どう思われますか。

災害と表現

 
今年はとんでもない年となった。
記録的な猛暑、中国四国地方の豪雨、大阪の地震、大阪の台風、そして北海道の地震。
被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。

時期は良くないかもしれないのですが、「災害と表現」ということについて書いてみたいと思います。
僕は、あの、七年前の東日本大震災の、すぐ後のことをよく思い出すのです。
映画監督・宮崎駿が、『コクリコ坂から』の完成にともなって記者会見を開きました。2011年3月28日のことでした。

僕はそのとき、「えっ、よりによって宮崎駿が・・・。一体どんな顔をして登壇するのだろう?」と思いました。

ご存知のように、宮崎駿はずっと自分の作品で「洪水」や「溺れる」や「街が海に沈む」ということを何度も何度もメインテーマとして扱っているからです。
『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』『未来少年コナン』『パンダコパンダ』『雨降りサーカス』『カリオストロの城』など。他にもありますかね。(すべての作品を観ているわけではないので。)『天空の城ラピュタ』も原作は海に沈んだ世界の話だったはずです。『となりのトトロ』でも、メイちゃんが池で溺死したのではないかと疑われます。(実際には無事でした。)

じつは僕は、宮崎駿が、なんらかのかたちで反省の意を表明するかもしれないと思いました。
人が溺れたり、街が水の底に沈むことを、娯楽映画のなかで描きすぎた。いくらかは明るい情景として。
ところが実際は逆でした。そのとき彼はもっと意義のある説明をしました。

《私たちの島は、繰り返し繰り返し、地震と火山と台風と津波に襲われてきた島です。それでも実はこの島は、非常に自然の豊かな恵まれた国だと思います。多くの困難や苦しみがあっても、もう一度、もっとより美しい島にしていく努力の甲斐のある土地だと思います。今は本当に、埋葬されない人をいっぱい抱えながら、あまり立派なことは言いたくありませんが、この自然現象の中で国を作ってきたわけですから、そのこと自体を僕らは絶望したりする必要はない。(中略)今、僕は文明論的に高所からいろんなことは語りたくない。死者を悼むところにいたいと思います。》

つまり、日本人というものは、ここに住むかぎりは、つねに水難と向き合わなければならない。しかし日本列島は、その苦労に見合うだけの、山の幸、海の幸、川の幸のある素晴らしい土地であって、私たちの祖先はここに住みつづけようと、何百年か何千年かけて決心したのだ、と言っています。
これを聞いて僕は、宮崎駿によくよくの考えがあって、わざわざ水難を描いてきたのだと驚嘆しました。なんらかの個人的体験のみにもとづいてあのような作品をつくっているのだと思っていた僕はあさはかでした。
いうなれば、「千尋」が川で溺れた恐怖体験を乗り越えて大人になることや、「宗介」の家族が大波と闘いながらも海と共存していること、「コパンダ」が川に流されて父親に救われること、「コナン」が文明が海に沈んでしまった世界で生きること、これらはすべて、日本という列島にはつねに水難がつきまとうこと、そして日本人がその苦難と闘っている様子をあらわしているのだと言い切っても過言ではないのでしょう。

   *   *   *   

ところで、宮崎駿の映画は「震災前」の作品です。東日本大震災のあとに津波と原発事故を描いた映画といえば、『君の名は。』というのがありました。(よく引き合いにだされる『シン・ゴジラ』は僕は観ていません。)
じつは、僕は、こんな恐ろしい作品がはずかしげもなく映画館で上映されたこと自体、僕はいまだに信じられないのです。
この映画は、東日本大震災を「ひっくり返して描く」ということをやっているようです。「海」は「空」に、恐ろしい津波は美しい彗星に、海岸は山に、冬は夏に、空前の規模の原発事故は意図的な小さな変電所の火事に。そして男と女(これは東京と東北を表している)、過去と未来、が「ひっくり返る」ことによって、すべてがうやむやになり、最後は「助からなかった人たち」が「助かった」という、それこそ「ひっくり返し」がおきます。なんのメッセージも意味も持ち得ない作品です。ふざけているとしか思えません。
言いたいことは分かります。「東京と東北は深い〈絆〉で結ばれている。けれども、お互いのことを良く知らない。そして、このたびも、救いの手を差し伸べることも出来なかった。いつかは出会える日がきますように。」ということです。
最大の問題は、いうまでもなくエンディングです。家族などの大事な人を失った方々にむけて、「あなたの愛する人たちは、もう一つのパラレルワールドでは元気に生きているかも」・・・なんて、どんな神経の持ち主が言うのでしょうか。
商業作品だから、最後はハッピーエンドにすることが求められたのでしょう。それならば震災なんて扱わなければ良かったのに。だからこそ、この映画は決定的にダメです。あまり人を批判することはしたくありませんが、やはり、「ふざけるな!」と言いたい。

そしてこの映画は大ヒットしました。理由は簡単です。「もしあの震災で人々が助かっていたら・・・」なんて、日本人全員が望んでいるに決まっています。その願望を、ぼんやりと、あやふやにして映像化したからです。
こんな映画を許していいのでしょうか。

*     *     *

どうしたらいいのか。僕の思っていることを書きます。 
それは、僕たちは、表現の際には、表現を受けとる際には、問題の「中心」に向かうことが必要なんだと思います。 
雰囲気、空気、なんとなく、ふちどり、周り、その辺り、見た目、外側、包装、ビジュアル、には意味がないのだ。そんなものだけでやりすごしてこれた時代は終わったと思う。
この『君の名は。』でいうならば、「雲の絵がキレイ」とか「音楽が感動的」とか「女の子と男の子がワー」とか「時間と空間がワー」とかいくら言ったって、問題の中心が描かれていない以上、何の意味もないことなのだ。

外側を飾りたてて、周辺でお茶を濁していても絶対にたどりつけない。
表現とは、どうにかして、その中心を描かなければいけないと思う。

"PEOPLE GET READY" by The Impressions, 1965



みなさまご準備ください
列車がまいります
荷物は要りませんので
ご乗車ください

信仰をお持ちの方だけに
ディーゼルエンジンの音がきこえます
切符も必要ありません
神に感謝するだけで良いのです

みなさまご準備ください
終着駅はヨルダンでございます
大陸を横断して
停車駅でみなさまを拾って参ります

信仰がカギとなっております
ゲートを開けてご乗車ください
神から愛されている人すべてに
希望をご用意してございます

のぞみがない罪人には
座席はございません
例えば自分のためならば
人を傷つけるような方

席が見つけられない方は
誠にお気の毒でございます
かの王国に到着しましても
隠れ場所はございません

みなさまご準備ください
列車がまいります
荷物は要りませんから
ご乗車ください

信仰をお持ちの方だけに
ディーゼルエンジンの音がきこえます
切符も必要ありません
神に感謝するだけで良いのです



People get ready
There's a train a-coming
You don't need no baggage
You just get on board.
All you need is faith
To hear the diesels humming
Don't need no ticket
You just thank the Lord.

People, get ready
For the train to Jordan
Picking up passengers
Coast to coast.
Faith is the key
Open the doors and board them
There's hope for all
Amongst the loved the most.

There ain't no room
For the hopeless sinner
Who would hurt all mankind
Just to save his own.
Have pity on those
Whose chances grow thinner
'Cause there's no hiding place
Against the kingdom's throne.

So people get ready
For the train a-comin'
You don't need no baggage
You just get on board.
All you need is faith
To hear the diesels humming
Don't need no ticket
You just thank the Lord.




インプレッションズの初来日(そして最後の来日)を記念して、
公民権運動讃歌である1967年のこの名曲を紹介します。

"WE'RE A WINNER" by The Impressions, 1967




私たちは勝者の民。
"黒ん坊、お前には無理だ" なんて
絶対に誰にも言わせてはいけない
そんな言葉が
私たちの能力を紡いできた

もう泣くことはない
溜めこんでいた涙はついに拭き取られた

 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)
 おお神よ力を
 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)

ここに居るのは目覚めし者
あの黒い土から学んできた

私たちは勝者の民。
誰しも知っている
そしてこれからも闘いつづけるのです
指導者たちもそう説いている

ついに祝福の日は来た
ここに居る者全員でよろこびましょう

 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)
 おお神よ力を
 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)

 [間奏]

 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)
 おお神よ力を
 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)

何事も恐れないと示すためなら
この世の命など惜しくはない

私たちは勝者の民。
誰しも知っている
そしてこれからも闘いつづけるのです
指導者たちもそう説いている

ついに祝福の日は来た
ここに居る者全員でよろこびましょう

 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)
 おお神よ力を
 上へ進んでいくんだ
(上へ進んでいくんだ)

 これからも闘いつづけるのです
 私たちは勝者の民
 さあみんな
 上へ進んでいきましょう



We're a winner.
And never let anybody say,
"Boy, you can't make it."
Because a feeble mind is in your way.
No more tears do we cry
And we have finally dried our eyes.

 We're moving on up
(We're moving on up)
 Lord have mercy
 We're moving on up
(We're moving on up)

We're living proof in alls alert
That we're true from the good black dirt.
And we're a winner.
And everybody knows it too
We'll just keep on pushin'
Like your leaders tell you to.

At last that blessed day has come
I don't care where you come from.

 We're moving on up
(We're moving on up)
 Lord have mercy
 We're moving on up
(We're moving on up)

I don't mind leaving here
To show the world we have no fear
Because we're a winner.
And everybody knows it too
We'll just keep on pushin'
Like your leaders tell you to.

At last that blessed day has come
I don't care where you come from.

 We're moving on up
(We're moving on up)
 Lord have mercy
 We're moving on up
(We're moving on up)

We'll just keep on pushin'
We're a winner.



オレの、ザ・たこさんベスト10曲!

 

ザ・たこさん、結成25周年おめでとうございます!
そして、初のベスト盤『名曲アルバム』発売おめでとうございます!

不肖わたくしも、ザ・たこさんへの愛を書き記すべく、勝手な思い入れで、ザ・たこさんの数々の素晴らしい楽曲のなかから、オレのベスト10曲を選んでみました。


第10位  「カッコイイから大丈夫」
(アルバム『カイロプラクティックファンクNo.1』収録)

いきなり代表曲なのですが10位にランクインです。
なんべんも心のなかでツッコんでしまう。「カッコイイから大丈夫」・・・って、それが歌のタイトル、何じゃそりゃ!
でもこれ、本質を突いている。
カッコ良くないと他人から思われている。
カッコ良くないと自分で思っている。
でも、きっと大丈夫!と自分に言い聞かせる。
そして最後の最後は、いくら取り繕ってもムダ。
あきらめて、開き直って、
自分の努力を恥ずかしく思ったり誇りに思ったりするしかない。

ザ・たこさんが皆を励ましているのか、
それとも自分たちを慰めているのか、
とても不思議な歌だけど、やっぱり、両方だろう。
だから、イイ曲なのだ!


第9位 「KAMINUMA」
(アルバム『タコスペース』収録)

何回聴いても大笑いしてしまう・・・とくに中間のところ。
ドリフの全員集合コント(違うねんけど)的な展開になって、てんやわんやになって上沼恵美子が増殖してるみたいで。
ほんとは一位にしたかったくらい。
でも、これが一位だと、拍子抜けなので9位にしときました。

野暮で解説しますけれど、この面白さって、重層構造になってるからなんですよね。
安藤さんが笑福亭仁鶴のマネをする歌なんですが、
実際の歌詞は「上沼(恵美子)!」っていう歌なわけです。
しかも、《生活笑百科》のパロディをやっているんですが、それは説明が無いわけです。
しかも、途中からストーリーが発展して、
「いかがお考えでしょうかあ」といいながら、
仁鶴師匠の顔つっこみ芸が再現されるんですね
はあ、面白い。

でも、この曲が完成したとき、僕は安藤さんにこう言ったのです。
「〈生活笑百科〉は、大阪の人は誰でも知ってるけど、全国だと知らないんとちゃいますか。全国放送しているとはいえ誰も見てませんから、このストーリーは分かりませんよ。」
しかし安藤さんは言いました。
「ええ、わからなくても、全然大丈夫です。」

そうか・・・わからなくてもいいのか!
そりゃあ強いよな。


第8位 「チャンヂャ & キムチ、or DIE!!!」

なにがあったのかはサッパリわからないけれど、
チャンヂャとキムチがなければ生きてゆけないカラダになってしまったという不幸な(幸せな?)女の人の話。

これは名曲。
しょっちゅう口ずさんでしまう。
「チャンヂャとキムチがあればいいっ! グッテイ!」

この曲は、ノリノリ。
「グッテイ!」っていうのは、グッドテイスト!ってことね。
ちなみに、誤解のないように言うておくのですが、この曲は、大ヒットを目論んでつくられた曲だそうです。


第7位 「突撃! となりの女風呂(On A Blow)」

性に目覚めてしまった中学生の主人公が、銭湯の女風呂に突入してみたいと妄想しているという青春を描いた傑作。

ご存知、この数年はライブの最後の曲。
ちなみに、「お豆ポンポンポン」とかはランクインしない。
それは下ネタ!!!


第6位 「夫婦茶碗」「続・夫婦茶碗」


老夫婦の永遠の愛をうたった、大阪弁ファンクの傑作。
水屋(みずや。食器棚のこと。たぶん大阪弁。)のまえで、夫婦茶碗を眺めながら、
もう愛することができなくなった妻への想いを爆発させる歌。

僕は、この曲を初めて聴いたとき、「えー何これー! 誰これー!」となった。
大阪にこんなすごいグループが居たのだ。
まったく知らなかった。

ライブでやっていた時期には、ライブで聴くたびに、腹をかかえて笑った。
「これを使いなヨ。キッチンハイター、ピンクのキャップや。」
やっぱりこの曲のテーマは大阪弁ということやと思う。

「あたまが、ぶっ壊れる、頭蓋骨、まるだし。」
ナニこの一行? 大阪弁の音程で。
それと、「株主筆頭」ってなんなん?
「筆頭株主」なら分かるけど・・・。
完全に狂ってるこの人たち!

ザ・たこさんって、大阪弁と東京弁をいろんなところで使い分けているんですよね。
猪木のセリフのところは標準語っぽいし、「これを使いなよ」っていうのはいきなり大阪弁じゃなくなるんですよ。そこが面白いところ。

ほんで、ダシが効いてるこのドラムがいいねんなー。
・・・書きたいことありすぎるので、とばします。次の曲いきます。


第5位  「中之島公園、16時。」
(アルバム『ナイスミドル』収録)

「缶コーヒーとタバコ! 今日も独りで座ってる。

冬の中之島公園、夕暮れ時に、いく当てもなく缶コーヒーを飲みながらタバコをふかすおじさん(おじいさん)の歌。
中之島公園というのは、大阪のど真ん中にあるとても大きな公園で、東京でいうと日比谷公園みたいなところ。
でも、川があるのが特徴。
大阪は水の町やから。

この歌の中で、破壊的に素晴らしい一行があるんです。
それは2番の2段落、
「夕暮れどき、クシャミをひとつ。街路樹にイ、ル、ミ、ネーション!」
僕はこれを聴いたときぶっ飛びました。
寒くてクシャミをしたら、おもわず鼻水がとびちったんですね。
そうしたら電灯のひかりがぶわっと反射して、とても綺麗だった。
うわ、イルミネーションやん。
こんないい一行ありますかね。

それで、安藤さんにこの一行のことを尋ねたら、
「・・・いや、べつに、そういう意味ではないです。本当にイルミネーションがあっただけです」
とのことです。
僕は信じていないんですが。


第4位 「我が人生、最良の日。」
(アルバム『フォンク兄弟』収録)

仲間と飲みに行って、酔ったいきおいで言い争いをすこしやって、
そのあと、いっしょに店を出て、坂をのぼって、空を見上げたら、星が美しかった・・・という歌。

ザ・たこさんファンなら誰でも大好きな、奇跡の傑作。
もちろん一位にしても良かったのだけれど、それだと予想通りなので一位にしなかった。


第3位 「猪木はそういうけれど。」
(アルバム『たこつぼ』収録)

 うーん、最近、調子が、悪いのだ。
 思ったとおりに、いかなくて・・・。
 「感じだしたら動き出せ!
  世間に風穴をあけろ!」
 猪木はそう言うけれど、
 いまはそんな余裕もなし。

 アントニオ猪木に憧れているけど、あんな風にはなれないし、
彼の言う人生訓も、ちっとも参考にならないや、と嘆いている男の歌。

 「最近」調子が悪いだけで、本来ならもっといいはずなのだ。
 「いまは」「いまの俺には」余裕が無いだけで、本来ならもっと出来るはずなのだ。
 この歌、ほんとに、しょっちゅう思い出してしまう。電車にのってるときとか、道をあるいているとき。
 たぶん、歌いだしの「うーん、最近・・・」っていうのが、なんだか頭にささってるのだろう。
 
 この「うーん、最近」っていうのは、グラディスナイトの「夜汽車よ!ジョージアへ」の冒頭の、「Ummmm, L.A.」からきてるのだ。
 こんなふうに変身をとげてしまうなんて!

 昔、安藤さんに「もっと《猪木》をライブで演ってくださいよ」と言ったことがある。そうしたら、
「どうしたもんでしょう、いま、当の猪木が、調子ええことないですからねえ」
と予想外の答えがかえってきました。
 僕は「猪木」はアイコンだと思っていた。
 この歌でうたわれている「猪木」は、本当の、今も人々に勇気を与えつづける猪木、すくなくとも、与えてつづけなければいけない、猪木だったのだ。僕は甘かったのだ。

 でも、結局のところ、ザ・たこさんの「猪木はそういうけれど」が、僕やたくさんの人の「猪木」になってる。逆転現象。最高。


第2位  「いつからこんなに」
(アルバム『タコスペース』収録)

この歌はほんま名曲。

 笑うことも 泣くことも
 すっかり減っちまって
 酔っ払って吠えてるだけ。
 笑いころげたい。
 おなかが痛くなるまで
 もうやめて、なんて言いながら。

誰か、この曲カバーしてください。


第1位  「オナラ '98」
(アルバム『たこつぼ』収録)

栄えある第一位は・・・オナラ'98です!
この曲、記念すべきファーストアルバムの一曲目なんですよね。
そのタイトルが「オナラ」って・・・さすがザ・たこさんです。

せまい部屋でもんもんとしている青年についてうたった歌。

でっかい夢があるような、無いような。
好きな女の子に電話しても居留守をつかわれた。
しかたないので、家の外にでてみた。
やることもないので環状線に乗る。
それでもやっぱりオナラしか出ない、という。

ながい歌で、ずうっと「同じこと何回言うねん!」とツッコミつづけながら、CDを聴く。
しまいに、どんどん面白くなってくる。
そして、しまいに寂しくなってくる。
おもろうて、やがて悲しき。
僕もこの気持ちはすごく分かる。90年代前半、僕は、四畳(四畳半でさえもない)の部屋で、ノミと闘っていた。
唯一の救いは、拾ってきたVHSデッキとテレビだった。
これで昔の映画をたくさん観た。
でも途中でビデオテープがからまって最後まで観れなかったり。
僕は食べることにあまり執着がないほうなので、オナラはそれほど出ませんでしたが。
それでも、この歌は、わかる。こういうのは、わかる人には分かる。


ザ・たこさんは名曲ばかり。
10曲だけ選べるはずがない。
「サバ」いれたかった。他にも「ドブ川」「バラ色」「ダニエルさん」「初期のRC」「うつぼ公園」「あんたはギビトゥミ」「殺し屋」「いいちこ」・・・いっぱいありすぎです。
そういうわけで、みなさん、ともに、われらがザ・たこさんの結成25周年を祝おうではないか、オーーーーッ!!!



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『名曲アルバム~ザ・たこさん傑作選~』
SHOUT-283 価格:3,000円(税別)
発売日:2018年8月22日 POS:4571225532837
[DISC-1]「傑作選」 01. 猪木はそう言うけれど 02. ドブ川の向こうに何がある? 03. 夫婦茶碗 04. 我が人生、最良の日。 05. 漂流記 06. ナイスミドルのテーマ 07. バラ色の世界 08. タング・ヤウン 09. いつからこんなに 10. モ・ベターライフ 11. サヨナラ生活 12. 突撃!となりの女風呂(On A Blow) 13. お豆ポンポンポン 14. カッコイイから大丈夫
[DISC-2]「ライヴ・アット・味園ユニバース」 01. ネギ畑 02. ロクシマのテーマ 03. あんたはギビトゥミ 04. ザ・たこさんのテーマ 05. ジ・オールドマン・アップ・ザ・ロード 06. ダニエルさんはペンキ塗り 07. バラ色の世界 08. イサホイ=シティ 09. 肩腰、背中 10. KAMINUMA 11. タング・ヤウン 12. 豆騒動 13. お豆ポンポンポン 14. 初期のRCサクセションを聴きながら 15. 我が人生、最良の日。 16. カッコイイから大丈夫 17. 突撃!となりの女風呂(On A Blow)


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★ザ・タコサンアワー〜結成25周年記念ワンマン〜★
2018年8月25日(土) 新宿レッドクロス - red cloth 15th ANNIVERSARY - 
時間:OPEN 18:30 / START 19:00 一般 3,000円 / 当日 3,500円(D別)
※25歳以下無料、65歳以上も入場無料
・ローソンチケット http://l-tike.com/ TEL 0570-084-005(Lコード:71538)
・レッドクロス店頭 ・メール予約 info@the-takosan.com

原監督への質問(メモ)

 
8月22日に、原一男監督とトークショーをやらせていただくことになりました。

あの憧れの原一男氏!
やっぱり『ゆきゆきて』には並々ならぬ思い入れがあります。
トークショーといっても、僕が原氏に質問をする、という形しかありえないと思いますので、当日をむかえるまえに、僕の考えたことや、質問したいことをメモしてみました。
すべて質問できると思えませんし、まったく違う話になるかもしれませんけれど。


極私的エロスの感想
・心に残る名作。
・やっぱり武田さんの魅力かな。(理想、いらだち、とまどい)
・沖縄の黒人兵は、(おそらくみなさんが思っているほどは)イケてない、というのが僕の印象。
・黒人側からでなく黒人を捉えている映像を久しぶりに観た。
・〈被写体に自己表現させる〉という手法に納得
・やはり、1968年革命の尾びれの青春群像ということか。

質問その1 60年代について

「政治の季節(1968年の革命)に青春を過ごした経験」から、「勇ましい進撃に最後尾から付いていきたい」とをおっしゃっている。
それが映画をつくる原動力になっている、と発言されている。
僕・中田は、1972年生まれであるが、いくらか共感しています。
アメリカ音楽は、ベトナム反戦運動や公民権運動やブラックパワー運動と並行して、とても活気があった。
僕はその活気に憧れている。ずいぶん長いあいだ「自分は活気のない時代に生きている」という認識があった。
ところで、いま、「1960年代がまたやってきた」というのは、多くの人が発言しているところ。
人種差別の再燃(アメリカでも日本でも欧州でも)。三度目の安保闘争。基地問題。
原監督にはそのような「60年代がふたたび」という感覚はありますか。
あるとしたら新作とどのように関係づけられるか。


質問その2 70年代について

70年代前半、本格的にシラケていく前の、「1968-9年のシッポ」的に、「さようならCP」「極私的エロス」が存在していると思います。
それは、タブーに挑戦しよう、反体制的であればあるほど良い、というような感覚。
それは1970年(万博など)を境として、学園紛争の敗北、資本主義の勝利、というメインストリームへのアンチテーゼであったと思います。
ですので、作品の力強さの反面、「社会を変えよう」というような目的が希薄であるように感じられる。
そこが「表現者を撮る」という監督のテーマと連動するように思えます。
「監督である原氏は表現者では無い」と言っているようにもとれる。
「極私的」というタイトルにもそれが現れているように思われる。
この概観は合っているか、それともピントハズレか。どのように総括されているか。


質問その3 極私的エロスについて

・武田氏はなぜ沖縄に行ったのか。→武田氏が恋心をいだいた活動家を追いかけて沖縄へ行ったとのこと。
・武田氏は「演技している」と思われるが、それでよいか。
・武田氏の自己表現としての「(彼女なりの)フェミニズム活動」と考えるが、それでよいか。
・武田氏の自己表現は、作品とどのように関連づけられるか。彼女の自己表現を捉えたのが映画なのか、映画が彼女の自己表現なのか。
・やはり、「ゆきゆきて」と非常に似ている。本質的に違うところはどこか。
・最近、荒木経惟という写真家が、彼の被写体を務めた人物から告発されるということがあった。そのことについて感想はありますか。
・それほど「極私的」「エロス」という印象はうけません。僕には武田さんの自己表現にみえる。その点について。


質問その4 80年代について

奥崎謙三なるものとは、あの凄惨をきわめた日中戦争・太平洋戦争の傷跡である。『ゆきゆきて』は、日本の戦後が終わっていないことをえぐり出した。
1980年代とは、日本が世界一の金持ちの国になってしまった時代。
戦争とは何か、戦争責任はどこにあるのかという重苦しいテーマを、逆手にとったような不思議なポップさを帯びていた。
その点において秀逸であった。
ただし、同時に、『ゆきゆきて』は、ポップなものとして(つまり面白いものとして)成功し、消費されていった。
戦争とは何だったのかという問いさえもおカネ(映画作品という商品)におきかえて飲み込んでしまうというところに、80年代の凄さ、恐ろしさがあった。(また、それは残念ながら現代の日本にも受け継がれているだろう。)

これは作品において、コインの表裏、左右の車輪のように機能している。
「面白いドキュメンタリーを撮りたい」と考える映画人ならば当然なのかもしれないが。
これを、いまどのように総括されているか。
たとえば、「まったく面白味に欠けているが、ずばり本質をついた映画をつくる」という行為はやはり意味がないのか。


質問その5 現代と原監督について

「現代なら奥崎のような生き方は成り立たないと思う」と発言されている。
僕はそれは逆ではないかと思う。
奥崎謙三は笑われて消費された。(ただしそれは表層だったので、いまでも映画は語り継がれているから消費され尽くしたあとに大事なものは姿を表していると思う。)
奥崎氏を笑うことのできた「余裕」は、日本がお金持ちだったから。
いま奥崎謙三は必要とされていない。
必要とされているのは、もっと現実的な英雄であったり、もっと実効的なデモ運動だと考える。


質問その6

私見ながら、1960年代から70年代、80年代を経て、いま時代は大きく、元にもどってきているように思う。
2018年に、映画や音楽に求められているのは、抽象的な「表現の爆弾」ではなく、直接的な抗議ではないか。
もっと直接的に政治を正していくような力が求められているのではないか。
映画や音楽も良いのだけれども、もっと、デモをしたりとか具体的な抗議をしたりとか。
平和な戦後が終わって、新たな戦前に向かっている。
(奥崎氏のようなテロリズムやアナーキズムというのは、僕には「平和な戦後」における極左運動のようにみえたので。)
それは原監督の題材のシフト(表現者から生活者へ)と符合しているように思われる。この解釈は合っているか。

(・・・質問が大雑把すぎる。もうすこし考える!)

 ギルスコットヘロンの論じている革命は「黒人革命」(すくなくとも狭い意味では)でしょう。ときは、1970年。歴史的には、進歩的であった「公民権運運動」が勢いを落としてしまい、そのあと1960年代後半の急進的な「ブラックパワー運動」が手詰まりとなった直後です。こういった運動の全体が、見直しを迫られていた時期といっていいでしょう。その文脈としては、武装闘争、つまり警察や軍隊を相手にドンパチするようなものではないということです。
 ここでは、「武器をとれ」とか「組織をつくれ」とか、そういったことは一切いっていません。「ブラックパンサーを支持しろ」とか「ストークリーカーマイケルを応援しろ」も言っていません。「キューバ革命を見習え」とか「フランス革命を見習え」というような、革命の最終的な段階のことは言っていません。

 ギルが伝えていることは、〈革命というのは段階的なものである〉ということなのです。彼はその最初の段階だけを描いています。明確に理解されているのが最初の段階だけだからです。最初の段階とは、一人ひとりが目を覚ますことです。目を覚ました者は、テレビのスイッチを消す。テレビのブラウン管(いまならば液晶画面だけれども)の向こうにあるものは、企業や政府などのアンチ革命的な者たちがつくりあげるイメージの世界だから。そのイメージによる束縛から自由になり、現実の自分、現実の社会に目をむけるということ。広告の魔の手から逃れて本当の自分と向き合うということ。それをしなければ、自分より強くて大きいものである企業や政府に簡単に釣り出されてしまい、自分たち(自分や仲間)の暮らしを良くすることはできない。人間ひとりひとりの尊厳は、いつまでたっても勝ち取ることができない。

 革命の次の段階は何でしょう。テレビを消したあとは、どうするのでしょうか。それは第六段落とつぎの最終段落で語られています。僕たちは、テレビを消したあと、外にでなければいけないのです。何のために? 仲間に「みんな、テレビのスイッチを消すんだ! そして外に出よう!」と伝えるために。本当に大切なことを仲間と共有するために。目のまえでなければ、本当に大切なことは共有できないのです(第二段落)。

 革命とは、劇的な武装闘争である必要はまったくありません。かならずしも、即座に憲法や国家体制が一変するようなものである必要もないのです。なぜなら、革命は段階的なものだからです。言うまでもなく、革命のもっとも身近な成功例は、公民権運動(およそ1955-1965)であったでしょう。それは、バスのボイコット、ワシントン大行進、セルマ行進などの、非暴力主義を掲げた行進・ボイコット・座り込みなどでした。
 チリのアジェンデ社会主義政権の誕生は1970年の暮れですから、この歌と直接的なつながりは薄いのかもしれません。けれども、むしろ「同時性」のことは考える必要があると思われます。また、いわゆる「アメリカ性革命」(女性解放運動、性表現の自由化、LGBTの権利運動)も、革命の一端というでしょう。
 八十年代には、おとなり韓国での全斗煥大統領に対する民主化運動、中国での天安門闘争がありました。記憶にあたらしいものは、エジプトのムバラク大統領政権を崩壊させた革命(2011年)がありましたが、残念ながらそのあとふたたび軍事政権になっているようです。2017年に韓国でおきた朴槿恵大統領にたいする大規模な弾劾要求デモは記憶にあたらしいところです。
 これらの革命はすべて、デモ・集会をひらくこと、によっておこっているのです。それ以外に方法論は無いのです。だから、ギルは必然的に外に出なければならないと言っているのです。

 ギルは革命の初期のプロセスのみを描いています。目覚めて外へ出ることです。そのあとどうなるのでしょうか。この詩では、「目が覚めれば、広告や麻薬や酒などが自分の敵であるとはっきり認識できる。そして目覚めを共有するために家の外へ出る。そこまでは分かる。それ以上のところはまだ分からない」と言っているように僕には思えます。
 そうです、そんなことは分からなくたって、よいのです。ギルも私たちも、いち市民であって、運動家でも政治家でもないし、ましてや占い師ではないのです。とにかく半世紀前のギルは僕たちに警告を発してくれています。「分かるところまで」を僕たちに教えてくれています。僕たちは「分かるところまで」の知識を共有していかなくてはいけないのです。
 もちろん僕も、そのつづきはハッキリとは分かりません。ただ、きっと、目覚めて外に出たあとは、そこに居合わせる人たちどうしで連鎖反応的に目覚めを加速させるべきだと思います。だから、そのような集会をひらくのがもっとも良いと思うのです。
 つまり、みんなに知らせるために外にでる。外にでたみんなで集会をおこなう。集会の目的はみんなに知らせることである。知らされた人たちは、おなじく外にでる。みんなに知らせるために。  いずれにせよ、革命とは外に出ることなのです。

(最終段落)
The revolution will not be televised, will not be televised, will not be televised, will not be televised. The revolution will be no re-run, brothers. The revolution will be live.

革命はテレビ中継されない。革命はテレビ放送されない。もちろん再放送もできない。なあ兄弟よ、革命が起きるときはーーー目の前で起きるのだ。

 革命が起きるとき、それはライヴ(目の前)で起こる。ブラウン管やスマホによって目覚めが訪れるのではないのです。テレビ放送局やインターネット企業はすべて広告に乗っ取られているからです。
 目覚めとは、「本当に有るものを見られるようになる。」ということです。寝ぼけている者は、無いものを見ています。無いものを見ている人は有るものを正しく見ることができません。本当に存在しているものだけを見れば、自分は誰か、自分の仲間が誰か、がわかります。その暮らしを本当に良くするために何が必要か、おのずから答えがでてきます。それが革命です。
 目覚めのあと、僕たちは何人かで(または何万人かで)道のうえにいるのです。
 革命は、段階的なものです。目覚めも、集会も、運動も、それぞれに段階的なものだと思われます。先に述べたようなことで、どのレベルでも発生するし、それを革命と呼ぶと僕は思います。


(おわり)


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