マーサ・ハイ物語(番外編)


今回は〈番外編〉として、僕の独断で選ぶ、マーサハイを知ってもらうための動画集をお送りします。

50年以上に及ぶ、マーサの輝かしい音楽活動で、どの時期がもっとも充実していたでしょう・・・それは、70歳を超えた「今」だろうと僕は思います。
ジェイムズブラウンやメイシオパーカーの楽団員として、本当に素晴らしい活躍をしてきた彼女でしたが、21世紀にはいってから、ソロ活動がますます充実している今が一番輝いていると思います。


*****マーサハイ、ソロステージ傑作選!*****

"FIRE SHUT UP IN MY BONES"
2017年3月、仏サンテティエンヌ市でのライブ。バックを務めているのは、2016年のマーサのアルバム『SINGING FOR THE GOODTIMES』のプロデュースを手がけたイタリアのグループ〈Italian Royal Family〉です。



次に紹介するのは、2011年の映像。メイシオパーカーのバンドメンバーとして世界中を飛び回っていたころのマーサです。(2000-2015年在籍。)トロント公演の「THINK (ABOUT IT)」です。



1979年、マーサの初ソロアルバム『MARTHA HIGH』(JBプロデュース Salsoul)から、イチ押しトラック「Showdown」を演奏する貴重な映像です。
演奏はもちろん、JBズ(当時は「JB'sインターナショナル」と呼ばれていました)です!


このビデオは、1989年、JBバンドのメンバーや元メンバーが行った再会コンサート(独TV)に出演したときのマーサです。(この頃はメイシオもまだブレイクしていなかった!)



もうひとつ、最近の、2016年の映像をどうぞ。
ジェイムズブラウンの死後、バンドメンバーたちが再結集してヨーロッパを中心に廻っています。最近はフレッドウェズリーが正式に公認したので「The JB's」という名前でライブをしています。みなさん、これからもお元気で!



次は、つい去年の2016年にリリースされたPV。
最近のイチ押し曲、「Hardest Woking Woman In Town」です。



いかがでしたか? まあ、Youtubeですので、伝わらないもんも大きいですが・・・。 でも、最近のマーサハイの映像を観ていただいて、これからのマーサハイを応援していただけたらと思っています。

それでは、現場でお会いしましょう!
(「マーサ・ハイ物語」はまだまだ続きます。)
マーサのパワフルなステージを楽しみにしていてください!

楽しみましょう!!!


マーサ・ハイ MARTHA HIGH
『TRIBUTE TO MY SOUL SISTERS』発売記念 JAPANツアー
 with オーサカ=モノレール
 10月4日(水曜日)大阪梅田・シャングリラ
 10月5日(木曜日)代官山・UNIT
  オープニングアクト:BOOGIE TRAIN feat. MARU & Hiro-a-key
 10月7日(土曜日)朝霧高原・ASAGIRI JAMs
 10月8日(祝前日)"IN BUSINESS" CLUB ASIA(渋谷)
  出演:黒田大介、DJ JIN、MURO、Ultimate 4th、Black Belt Jones、ドミンゴ企画




マーサ・ハイ物語(第四回)


 マーサがフォージュエルズのメンバーとなって、最初の大きなコンサートは、かのハワード劇場でした。ジェリーバトラー&インプレッションズとセオラ キルゴアが一週間出演していたので、そのオープニングアクトを務めたのです。1962年のことです。
 ところが、ちょうどその週は、高校の卒業式と、その予行演習をおこなう週でした。マーサは、卒業式に出席して卒業証書の授与をうけることができなかったそうです。
 それでも、マーサに気持ちに迷いはありませんでした。これから、音楽の道を歩むことを固く決心していました。

 フォージュエルズは、まもなく〈ジュエルズ The Jewels〉に改名し、地元で人気の女性ボーカルグループとして、キャバレーやナイトクラブ、それから大学のパーティにひっきりなしに出演しました。北西地区14丁目にあった〈バードランド〉が一番有名なクラブでした。

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The Jewels:中央上マーサ、右 グレース ラフィン、左 サンドラ ベアーズ

 そしてもっと大きな場所、ワシントンDCのハワード劇場、バルチモア市のローヤル劇場、フィラデルフィア市のアップタウン劇場が、主な活動場所になってゆきました。
 この時代のどのアーティストでもそうですが、全国区で有名になる前には、自分の地元にやってくる数々の有名アーティストのオープニングアクトを担当するのです。
 オープニングをやったアーティストをあげるときりがないそうです。グラディスナイト&ピップス、テンプテーションズ、リトルアンソニー&インペリアルズ、ドリフターズ、キャデラックズ、ルビー&ロマンティックス、ジーンチャンドラー、ベイビーワシントン、マクシーンブラウン、フリップウィルソン、メイジャーランス・・・などのショーのオープニングをやりました。

 マーサ達は、こういったアーティストのショーを見たり、仲良くなったりして、ショーや音楽のワザ、人生訓を学んでいきました。とくに仲の良かったのは、ドリフターズのジョニームーア、グラディスナイト&ピップスの各メンバー、そしてテンプテーションズのポールウイリアムズでした。

 そんななか、当時はとても人気のあった〈ソウルシスターズ The Soul Sisters〉という、日本でいうとピーナッツのようなカッコいい女性二人組のオープニングアクトもやりました。すると、そのマネージャーだった通称・スモーキージョーという人物が、ジュエルズのマネジメントを申し出ました。

 その彼は正式にマネージャーとなり、ニューヨークの〈ディメンジョン〉レーベルとの契約をとってきて、「Opportunity」という歌をもってきました。この歌は、大ヒットとなり、1964年、ビルボードチャートの64位、さらにロサンゼルスのラジオチャートでは2位を記録しました。


 面白い逸話としては、この曲をマーサたちに稽古をつけてくれたのが、のちにP-FUNKで大成功をおさめることになるジョージクリントンだったそうです。スモーキージョーがジョージクリントンと同じでニュージャージー出身だったので、おそらくそのコネクションなのでしょう。ジョージは(モータウンで働く前に)そのレーベルから仕事をもらって働いていたんですね。
 ディメンジョンは、あのキャロルキング&ジェリーゴフィンのレーベルでした。

 ジュエルズは、ディメンジョンでシングルをもう一枚だします。オープニングショーだけでなく、自分たちでのショーも行うようになっていきました。


 そうして、人生の転機が訪れます。
 ある日、ハワード劇場に出演していたときのこと、客席が騒々しくなって、大きな歓声や叫び声が聞こえました。「あれ、私たちの歌がウケたのかしら?」と思いましたが、そうではないことが分かりました。客席のなかにジェイムズブラウンがまじっていて、劇場の観衆は、ジェイムズブラウンを見つけて叫んでいたのでした。ようやく彼が席につくまで、歓声がおさまりませんでした。

 1965年ことです。当時のジェイムズブラウンは、間違いなくソウルミュージック界のトップの座を誰にも譲らない人気歌手で、「ソウルブラザー ナンバー1」「ミスターダイナマイト」「Mr.プリーズプリーズプリーズ」「キング オブ ソウル」と称していました。ジャズとR&Bの両方を演奏できる超一流のミュージシャンの豪華バンドを従えて、誰にも真似のできない最先端の音楽を演奏していました。
 どのR&B界のアーティストも、バンド無し、または3〜4人の小編成バンドを連れて巡業(チトリンサーキット)していた時代に、ジェイムズブラウンだけは、20人近いオーケストラと、何組もの他のアーティストやダンサーを引き連れて、目の眩むような、まるでサーカスの一座のようなショーをアメリカ全土で行っていたスーパースターでした。

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 そのショーのあと、楽屋にやってきたジェイムズブラウン。その髪型や服や靴を見て、マーサたちは息が出来ないほど大興奮したそうです。ジェイムズブラウンは、なにか言葉を発するたびに、鏡を覗き込んで自分の髪や服を確認しながらしゃべったそうです。「とてもいいショーだったよ」と言われて、メンバーで大喜びしたそうです。

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 数ヶ月後、ジュエルズはニューヨークのアポロ劇場に出演していました。そのとき、ふたたび同じことが起きました。客席で大きな歓声が起こったのです。やはりジェイムズブラウンが観に来ていたのでした。
 そのとき、アポロ劇場の楽屋で「どうかね、オレのレヴューに参加してみないか?」と言われました。
 マーサの頭のなかは大混乱になったそうです。・・・「ツアーにでたら、一体どれくらいのお給料をもらえるのかしら?」「一体どんな場所へ行くのでしょう?」「お母さんやお父さんは、ツアーに出るのを許してくれるかしら?」
 恐怖も感じていました。「この世で最高のショーの一員になるなんて、私たちで務まらなかったら
どうしよう!」
 当時ジュエルズは上り調子だったとはいえ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントン、などの東海岸を廻っていただけです。同じ音楽/ショービジネスの世界とはいえ、まったく規模が違います。マーサたちにとっては、未知の世界に踏み入る決断をする必要がありました。

 1965年、マーサが20歳のときのことでした。


(第五回へつづく)

マーサ・ハイ物語(第三回)

 
マーサ・ハイ物語(第三回)

 マーサたちのグループ(名前はまだありませんでした)は、ワシントンDCの大物・ボーディドリーのスタジオへ出かけます。はたして、彼からとても気に入ってもらい、それからは彼のスタジオに入り浸って練習するようになりました。ボーの奥さんと子供達とも仲よくなったそうです。
 数ケ月後にはボーディドリーのバックで歌うことになり、ボーの専属女性コーラス隊として「ボーエッツ(The Boettes)」と呼ばれることになりました。

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Bo Diddley (1928-2008)

 ボーディドリーがNYハーレムの有名なナイトクラブ〈スモールズ パラダイス〉に出演にするというので、初めてニューヨークへ行ったそうです。マンハッタンの高層ビル街を初めて観て、大感激したそうです。そりゃあ容易に想像がつきます。まだ彼女たちは高校生だったのです。・・・奈良県の田んぼのなかで育った僕も、初めて東京に来たときのことを覚えています。似たようなもんでしょう。(それはどうでもよいのですが。)
 ところが、まだ成人でなかった彼女たちは、出演するどころか、クラブに入ることさえ許されず、結局、夜はホテルでだらだらするだけで帰って来たそうです。面白い逸話ですね。

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 若かったマーサたちは、ボーのバンドメンバー達と深い仲になるところだったのですが、ボーはハッキリと釘をさしたそうです。「うちの楽団員が何かをやらかして、オレが刑務所に行くのは絶対にごめんこうむる!」・・・それでボーの廻りの人たちは、マーサたちに手をだそうとしなくなったそうです。

 ところで、この「〇〇エッツ」という名前は、ホントよく登場しますよね。これって何なんでしょうか?
 レイチャールズの女性コーラス隊は「レイレッツ」、アイク&ティナターナーの女性コーラス隊は「アイケッツ」。あとは「シャーメッツ」とか「ロネッツ」とか。(それに、パロディも枚挙にいとまがないと思うのですが。)女性のコーラスグループに使う名前なんですよね。

 僕も僕もはっきり説明できませんが、「-ette」(エット)というのがフランス語由来の接尾語で、これを語尾につけると名詞の〈女性形〉になるそうなんです。一番分かりやすい例が、「シガー Cigar」(葉巻たばこ)に、この「-ette」をつけると「シガレット Cigarette」(紙巻きたばこ)になる。男性的が女性的になる。ちょっと違うかもしれないけど、大体そんな感じです。
 アイクターナーの「アイク」に、「-ette」をつけて複数形の「s」をつけると「アイケッツ」になります。日本語でいうと、「アイク子さんたち」みたいなニュアンスかな? (まあ、テキトーな説明で失礼。)

 それから、細かい話をしますが、ジェイムズブラウンのコーラス隊に〈ブラウネッツ The Brownettes〉という幻のグループがありました。シングルが一枚あるだけで、誰が歌っているのか、分かりません。ながらく、これはマーサ達の〈ジュエルズ〉の変名であろうと考えられてきましたが・・・どうやら違うようです。本人が否定していました。

 うわっ、また話が逸れてしまいました。残念ながら、〈ボネッツ〉はあまり発展しませんでした。ボーディドリーは、当初はレパートリーを増やしてから売り出すつもりだったのですが、どこかで頓挫しました。そんなとき、ボーから新しい話がきました。「〈フォージュエルズ The Four Jewels〉が新しいメンバーを探しているよ。マーサ、会ってみるべきだよ」と言われたのです。

 フォージュエルズは、すでに地元では知られていた四人組の女性ボーカルグループでした。マーサたちと同じ高校の卒業生でした。マーサより1~2歳ちがうだけです。同じくボディドリーの界隈にいたのでした。メンバーのなかで唯一、一番年下のサンドラだけはマーサと同い年で、まだ高校生でした。
 まだ、シングルが3枚ほどと、学校主催のダンスパーティー(アメリカにはそういう仕事があるんですよね)や、いわゆる「ソックホップ」に出演していた段階でしたが、勢いにのっていたのです。ソックホップというのは、50~60年代当時のダンスパーティーのことです。

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 「Loaded with Goodies」という曲が、地元のラジオ局で人気が出ていて、「さあこれから全国へ活動の域をひろげるぞ」というタイミングでリードボーカル担当が家庭の理由で脱退したのでした。


 ボーディドリーの家で、毎週土曜日、フォージュエルズは新しいシンガー候補と会っていました。マーサもそこへ出向きました。
「私たちの曲、〈Loaded with Goodies〉は知ってる?」
「聴いたことあります」
「じゃあ、やってみましょう」
マーサは、自分の耳には自信がありました。自分がどの音で歌ったらいいかをすぐに見つけて全員とブレンドすることは得意でした。何度も何度も繰り返して、メロディーもパートも歌詞もすべて教えてもらったのでした。(もちろん楽譜や紙は使いません。)

 一週間後、サンドラから電話がかかってきて、再びボーディドリーの家に来るように言われました。「たくさんの女の子をオーディションしてみたけど、あなたが一番だと決まったわ」と言われました。マーサは「ありがとう!ありがとう!」と言いました。
 そのあと、みんなで冗談を言い合ったりして、すぐに四人は仲良くなったそうです。

 「ボエッツのほうはどうする?」と言われましたが、ボエッツはもうすでに解散寸前だったので気持ちの問題はありませんでした。「大丈夫、なんとかなるわ」と言いました。 ボエッツのみんなに脱退を申し出たところ、すこし口論になりましたが、ボーディドリーが、「みんな心配しなくていい。フォージュエルズのオーディションを受けた方がいいとマーサに言ったのは私なんだよ。合格したんだから、喜んであげなさい。マーサが脱退したって、活動を続けたらいいじゃないか」と言って収めてくれました。
 こうして、晴れてマーサはフォージュエルズの一員となったのでした。

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 これから、マーサたちフォージュエルズ(のちに〈ジュエルズ The Jewels〉に改称)での快進撃、それからジェイムズブラウンとの出会いがあります。



第四回につづく


マーサ・ハイ物語(第二回)


 さて、前回(第一回)でも書いたように、マーサは1945年生まれワシントンDCで育ちました。
 ワシントンDCというのは、ご存知のようにアメリカ東海岸の真ん中あたりにあります。ニューヨークから車で4時間ほどですから、東京から名古屋くらいでしょうか。(そんな説明は要らんか・・・。)言うまでもなくアメリカ合衆国の首都で、議会議事堂やホワイトハウスがあるところ。「政治の街」として知られるところです。
 しかし、ワシントンDCは、それとはまったく別の顔をもっているのです。それは、黒人の人口比率が50%を超えるところで、FUNKファンの間では〈チョコレートシティー〉として知られるところなのです。
 ダニーハザウェイとロバータフラッグが通い、そして出会った、あのハワード大学のある街。
 デュークエリントンの出身地であり、あのハワード劇場がそびえる街。
 「ゴーゴー」という新しいFUNK(っていうのかな?)を産んだ、ひときわ音楽の盛んな街。
 これから、お話しするマーサハイの物語のなかにも、お馴染みのR&Bスターが何人も登場すると思います。

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(1940年代:デュークエリントン楽団、ハワード劇場にて)

 マーサは、そんなワシントンDCの「O(オー)ストリート」というところにあるアパートで幼少時代を過ごしました。一般的にはフッド(ゲットー)と言われている地域です。彼女自身は、「私は、貧困や差別を味わったことは無い」と言います。ちょっと話はそれるかもしれませんが、そういえばマーヴァホイットニーも同じようなことを言っていました。こういう発言をする人はたくさん居るのです。そういえば、ちょっと話は飛びますが、マイルズデイヴィスもよく言っていました。「オレの父親は歯医者だし、母親は、お前のガールフレンドより美人だったぞ。黒人がゆえの苦労なんてしたことがない」と。
 マーサは1940年代から50年代にかけて育ったわけですから、差別を体験していないはずはありません。この時代には、ワシントンDCでも、白人と同じレストランや公衆便所を使うことさえ許されていませんでした。黒人がバスに乗るときは後ろの専用席に座ったのです。ただ、そういった〈隔離〉が当たり前の時代だったので、子供のころは疑問を抱かずに育ったということです。それに、「中流」ということは決して無かったのでしょうが、黒人のステレオタイプとして思われるような貧困のなかに育ったのではない、ということを言っているのだと思います。

 話を元に戻します。中学生から高校生のころは、母親のレコードを聴くのが楽しみだったそうです。グロリアリン、エタジョーンズの「Don't Go To Strangers」などをよく聴いたそうです。それから、ラムゼイルイスやアーマッドジャマルのピアノのレコードも大好きだったそうです。特に、アーマッドジャマルの「ポインシアナ」が一番の愛聴盤だったそうです。
それから、当時もっとも人気のあった歌手は、ベイビーワシントンやマクシンブラウン。憧れの的だったそうです。

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71fvzSsep1L._SL1200_.jpgMI0001452777.jpg  高校一年生のころ、グロリアリンの歌をうたっているうちに、初恋の相手だった男の子に歌が上手だと言われて、自分の才能に気がついたそうです。いい話ですね。

 マーサには二人のお兄さんがいて、両親と五人家族でした。お父さんはワシントン国立公文書館での仕事と、副業として掃除業もやっていました。お母さんは総菜屋さんで働いていたので、両方からの収入があり、それほどまでに貧乏ではなかったと言います。生まれたのは三階建てのアパートでしたが、九歳のときにお父さんが昇進したのをきっかけに、ワシントンDC北西地区のヴァーナム通りにある一戸建ての家に引っ越しました。アパートが立ち並ぶOストリートから北西地区への引っ越したことは、本当に嬉しかった良い思い出だったそうです。

 わけあって高校三年生を二回やることになったマーサでしたが、そのルーズベルト高校で、高校三年生のとき「ゼオラ ゲイ」という友達ができました。さらに彼女の友達のイヴォンヌとも知り合いました。その三人でボーカルグループを結成しました。そのゼオラは、何を隠そう、のちに有名になるマーヴィンゲイの妹でした。ゼオラはやはり歌がうまかったそうです。
 彼女たちは、ワシントンでは有名な「チボリ劇場」というところの中のリハーサル室でよく練習したそうです。同じ部屋を使っていた人達に、「シンシアリー」や「恋の十戒」で知られるボーカルグループ・ハーヴェイ&ムーングロウズや、「I DO LOVE YOU」等で知られる歌手・ビリースチュアート、そしてジュエルズが居たそうです。マーサは、後にこのジュエルズに加入することになり、その後の音楽人生が大きく開かれたのでした。

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(改修された現在のチボリ劇場

 そのチボリ劇場で出会った人物から、「ボディドリーの自宅スタジオに遊びに来なよ」と言われました。ワシントンDCに住んでいた、R&B界の巨人・ボディドリーは、地元の才能あるミュージシャンや歌手の手助けをするのが常だったそうです。マーサたちは、これはスゴいことになるかも、と期待に胸をふくらませたそうです。




マーサ・ハイ物語(第一回)


マーサ・ハイの来日を記念して、このブログでじっくりと彼女の経歴を紹介していきたいと思います。
せっかく書くのですから、世界中でどの記事よりも一番詳しく、できるだけ分かりやすく紹介したいと思います。
パワフルな歌声と美しいハイトーンを持つ、JBファミリーのスーパーシンガー、マーサ・ハイ。ジェイムズブラウンの一座で通算32年、メイシオパーカーのバンドで15年、そして何よりR&B/SOUL/FUNK界のプロ歌手として52年という、ファンク歌姫としての彼女の輝かしいSOUL/FUNKヒストリーです。

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まず、第一回目は大まかな紹介を。
マーサハイは、本名メアリー・マーサ・ハーヴィンといいます。1945年1月9日にワシントンDCに生まれ、そこで育ちました。
再来日する今年は72歳です。(年齢のことを言うのもはばかられるのですが、まあ、ほとんどの人から、必ずといってよいほど訊かれますので。)でも、本当にその年齢に見えるか聴こえるか、ぜひ楽しみにしていてください! 実のところ、「元気な60歳」くらいにしか思えません。

 マーサ・ハイのもっとも知られた功績としては、ジェイムズブラウンのバックコーラス歌手としての活動です。
 JBショーには、1960年代から実に通算32年間も在籍したのです。この記録は、司会のダニーレイを除けば、歴代トップでしょう。何十人もいる(もしかしたら百人を超えるかもしれません)JB関連のミュージシャンのなかで一番というのはスゴいことです。

JB代表曲のひとつ「THE PAYBACK」(1973年)や「Make It Funky」(1972年)「Ain't That a Groove」(1967年)などでの印象的なバックコーラスはマーサが担当しています。とくに、ゴールドディクアルバム『THE PAYBACK』のほうでは、ほぼ全編にわたってマーサのバックコーラスが聴かれます。
 70年代、80年代のライブでは一人でJBをバックアップしていますし、90年代にはビタースイーツのリーダーとしてステージに立っています。

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 ところが、マーサは、ソウル業界用語(?)でいうところの〈フィーチャードシンガー〉としての経歴は少なく、彼女自身のシングルもアルバムは数少なくて、すべてバックコーラスとしての仕事なのです。ですから、リンコリンズやヴィッキーアンダーソンやマーヴァホイットニーほどには、名前が世界に知られてこなかったのです。本当は、「同じ釜の飯」で同じJBプロダクションズ仲間・・・なんですが。
 というのも、実のところそれには理由があって、・・・それは追って書きます。JBファンの間では、よく知られたことなんですが。

 マーサのソロアルバムは、JBプロダクションの下では一枚だけです。1979年、サルソウルレコードと契約したブラウンが、トミースチュアート制作でつくったアルバム『Martha High』です。

61b30Zn9sWL._SY355_.jpg このアルバムは、ディスコ/ブギーのサウンドが再評価されて、つい2015年に初CD化されました。

 マーサのソロアルバムはもちろんこれだけではないのです。
 とくにヨーロッパで人気が高くて、この10年はあちこちから招待を受けて、アルバムを制作しています。2016年のアルバムはこちら、イタリアのプロデューサー、ルカ・サピオの手による『Singing For The Good Times』です。

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 もちろん、50年以上にわたるマーサの活躍はこれだけではありません。これの前にもあるし、この後にもたくさんあるのです。
 その詳しい経歴を、次回からお話ししたいと思います。
 ソウルファン/JBファンの方には、とくに楽しんでいただけるのではないでしょうか。 また、ハードコアなJBファンでない方々にも、わかりやすくお話ししてみたいと思います。

その2へつづく

A CHANGE IS GONNA COME(サムクック 1964年)

 
A CHANGE IS GONNA COME by Sam Cooke, 1964




僕が生まれたのは
川沿いの 小さなテントだった
まるで あの川の水が 絶えず押し流されてゆくように
この半生は ずっと敗れては逃げるばかり

 生まれてこのかた こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 良い時代が来ると。
 ああそうだよ

生活は苦しく もう限界だ
でも 死ぬのも怖いんだ
だって 空の上には天国があるなんて
本当かどうか もう分からないよ

 はるか遠い昔から こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 この世は良くなると。
 ああそうだよ

映画を観に行った
商店街を歩くと
罵声を浴びせられるんだ
「この辺りでウロウロするな」

 遠い昔から こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 マシな時代が来ると。
 ああそうだよ

兄さんの家へ行って
「兄さん、お願いだから何とかしてほしい」
でも しまいには口論になって手があがった
僕は地面に倒れたんだ

もう この命は長くないと
幾度となく思ったさ
でも今は
なんとか耐え抜くことが出来るかも
そんな気がしている

 遠い昔から こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 良い時代が来ると。
 ああそうだよ



I was born by the river in a little tent
And just like the river I've been running ever since
It's been a long time, a long time coming
But I know a change is gonna come
Oh yes it will.

It's been too hard living, but I'm afraid to die
Because I don't know what's up there beyond the sky
It's been a long, a long time coming
But I know a change gonna come
Oh yes it will.

I go to the movie and I go downtown
Somebody keep telling me, "Don't hang around."
It's been a long, a long time coming
But I know a change gonna come
Oh yes it will.

Then I go to my brother And I say, "Brother, help me please."
But he winds up knocking me
Back down on my knees.

There have been times that I thought I couldn't last for long
But now I think I'm able to carry on
It's been a long, a long time coming
But I know a change is gonna come
Oh yes it will.

ノウハウの蓄積

 
 誰かが言っていました。「デモやストって、ノウハウの蓄積なのだ」・・・だそうです。

 なるほどなあ、なんだか分かる気がします。
 僕はデモなんて、時代の変化を感じてこの数年すこし足を運んでいるだけです。しかも参列しているだけで、デモを主催する側にまわったことはありません。ましてやストなんて、やったこともないどころか、見たこともありません。
 それでも、その「ノウハウの蓄積」というのは、理解できるような気がします。
 素人考えで恐縮ですけれども、たとえば、デモを行う場合、どこで何時ごろやるのが効果的なのか? 警察などへの届け出はどうやるのか? どこまで届け出る必要があるのか? けが人や病人がでたらどうするのか? 大勢の参加者をあつめるにはどうしたらいいのか? 妨害する者があらわれたり、ケンカが起こったりしたらどう対応するのか? たくさんのスタッフがうまく連携して大がかりなデモを成功させる方法は?
 そのような数限りなくある「ノウハウ」を、多くのスタッフで継続的に共有することが、必要になってくるでしょう。
 これまた想像ですが、ストライキにいたっては、もっと難しいんではないでしょうか。

 六〇年安保のときや、七〇年安保のときにも、そういったノウハウがあったはずなのですが、そういうものが失われている・・・。そういうことを、この発言主を言っていたのだと思います。

 〈音楽家が戦争に反対する〉も、同じことじゃないのかと、しみじみ思うのです。その「ノウハウの蓄積」が失われていることが問題なのだと。
 すこし前に流行った言い方でいえば「音楽に政治を持ち込む」というやつです。それはそうとして、その方法とは、どうあるべきなのか?

 今この時代を生きていて、約七〇年間もつづいた平和な時代は終わりをとげて、なんらかのかたちで、大きな戦争が、僕たちの身近なところへやってくる(または、すでに戦争は始まっている)と感じている人は多いはずなのです。そんななか、音楽家や、まあ一般にはアーティストなんて呼ばれている者たちが、いま何をなすべきか、悩んでいるはずです。いちおう僕もその一人です。
 ところが、どうやったら良いのかが分からない。つまり「ノウハウの蓄積が無い」。そこが問題なのだ。
 音楽家は、どのあたりから手をつけるのが最善の策なのだろう? どうすれば効果的に平和のメッセージを伝えることができるのだろう? それに、こういったものは多少のリスクを伴うと聞く。それならば、「どういう方法であれば自分の名前に傷がつかずに済むか」? 倣うべき見本が目の前にないから、それが分からない。本来なら、七〇年安保のときだって、六〇年安保のときだって、戦前だって、音楽家が反戦を唱えたりするアプローチは様々な形態があったはずなのに。

 ちなみに、そんなノウハウがあったからといって、どうもならないかも知れません。かのジョンレノンだってベトナム戦争を止めることはできなかったし、スライストーンだって人種差別をなくすことはできなかった。カーティスメイフィールドだろうがジェイムズブラウンだろうが、どれだけ巨大な音楽的才能や影響力をもってしても、そのパワーはジョンソン政権やニクソン政権の前では、小さなアリンコのごときでしかありません。
 けれども、すべての音楽家は、戦争をはじめとする暴力の問題や、貧困や人権の問題にたいして、なんらかの方法で自らの活動のなかにメッセージを織り込んでゆかなければならないはずです。

 このブログでは何度も書いています。同じことばかり書いてしまうのですが、僕なりに十数年のあいだ考えた結論としては:

 一、そういう曲をつくる。
 一、デモに行く。デモへの参加を表明する。
 一、短いコメントを発表する。
 一、そういうイベントに出演する。または、主催する。

 やっぱり、この四つくらいがイイ線なのではないかと思うに至っています。
 「ノウハウの構築」に役立てばよいのですが。

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