春に思うこと。

 
四月になって、ほとんどの会社・学校は、新しい期をむかえています。
僕の子供たちも、新しい担任の先生、新しい級友にかこまれて、学校がはじまりました。
楽しくて頑張り甲斐のある一年になってほしいものです。

さて、この学区の小学校はひとつの学年はクラスが2組か3組までです。
小学校全体で約470人。いちクラスは30人くらいです。
いまは少子化の時代といわれる。
現役世代が高齢者の福祉をささえることが出来なくなってきた。
しかし、子供が少なくなることは今に始まったことではありません。
いつ始まったかというと、子供がいちばんたくさん生まれたのが1970年代前半、つまり僕が生まれた頃で、それからずっと今にいたるまで、生まれてくる子供の数は減りつづけているのです。
高齢者が多くて若い人が少ないという時代がやってくることは、もう40年以上前から知られていたことなのです。
ですから、「少子化問題」ではなくて、「少子問題」です。
言葉がオカシイ。
「少子化」は1970年代や1980年代にとりくむべきだった課題で、それは誰かがサボっていたので解決できずに、とっくの昔に敗北に終わっているのです。
今の課題は「少若多老」であって、それにどのように対処するか、いま僕たちが最も考えなければいけない問題です。

さて、その話しをふたたび後半で書くとして、別のことを書いてみます。
子供の話しをしましたので、つぎに僕の親たちのことを書きます。
四月のまえは三月。
僕の母は終戦の半年前、1945年3月にうまれました。そして、その三月は、東京大空襲をはじめ、大空襲のあった月です。

東京大空襲は3月10日。この一晩だけで十万人をこえる死者がでたとされています。
大阪大空襲の一回目は3月13日の夜から14日の未明にかけてであり、夜中におこなわれた市街地への集中的な空襲で約五千人が死亡したとされています。
僕の母の家は大阪市旭区にありました。町は大火災となって火の粉がふりそそぐなか、産まれて一週間もたっていない赤ん坊だった母がいたため、僕のおばあちゃんは逃げ出すこともできずに家にこもって観念していたのだそうです。結果、たったの数軒さきの家まで焼け落ちたけれども、母たちのところまで火が及ばずに済んだのだそうです。

七十年後のいまでは想像できません。いや想像しないといけないことです。アメリカから(ハワイやグアムなどを経由して)戦闘機が飛んできて、僕たちの住む街のうえに焼夷弾がふりそそいだのです。
焼夷弾(しょういだん)というのは、ふつう家というものは石や土でできているものですが、日本の家屋は特殊ですべて木造であることから、屋根に落として火災をおこすように、日本の本土空襲のために特別につくられた火炎爆弾です。街全体に大火災をおこせば「効率よく」市民を焼き殺したり住民の生活基盤を破壊することができて、そうすれば早く政府が降参すると考えたわけですね。なんと恐ろしいことでしょう。

逆にいえば、およそ、戦闘機B29から焼夷弾がふりそそぐイメージこそが、僕たちの世代の日本人がまっさきに思い浮かべる「戦争の記憶」といえるのではないでしょうか。くわえて、ふたつの原爆。僕たちの世代は実際には体験していませんが、なんども映画やアニメで再現されて語り継がれているのでそのように想起します。
つまり、僕たちの考える「先の戦争」とは「空のうえから爆弾がふってくるもの」です。
そして、モンペ姿のお母さんたちが子供と一緒に逃げまわっているというように連想されます。

戦争というものは本来は、戦闘員どうしが戦場で殺し合うものなのに、一般市民の頭のうえに爆撃機がおそってくるというのは、戦争の最終局面の極限状態です。そんなことに気付いたのは僕はたしか二十歳もこえてからでした。日本人がつよく記憶している空襲や原爆の悲劇は、国際法に反した非人道的行為であって、もっと早くに降伏していれば、すべて回避することができたのです。

また、モンペ姿というのは、ほんとうは農村でつかわれていた農作業用のズホンなのですが、太平洋戦争が開戦した直後に、「おそらく、数年後にアメリカの爆撃機が飛んできて日本の都市が大火災になるので、女性は、必死で消火作業をしなければならなくなるので、動きやすい衣類を身につけておかなければならない」ということで、全国的に、鬼畜の国家が国民に強いた戦時服装です。
僕は、ながいこと「昔のひとはモンペを着ていた」と思っていました。

「先の戦争」は、満州事変から数えて十五年、日中戦争から数えて八年、日米開戦から四年間のあいだに、さまざまな凄惨なシーンがあったことでしょう。中国での悲劇、満州での悲劇、南方での悲劇、海戦での悲劇、沖縄戦での悲劇、シベリアでの悲劇、など。
それらを、正しく絵画的なイメージとして僕たちは伝えていかねばならないと思います。

さて、日中戦争と太平洋戦争で約六百万人もの人が死んだといわれています。中国をはじめ日本以外の国の方々も数百万人が死亡しているはずです。
しかし僕個人としては実感がわきません。なぜなら、僕のおじいちゃんは父方母方ともに戦死をまぬがれましたし、僕のおばあちゃんは空襲で死にませんでした。なぜでしょうか。
僕の父方の祖父(大阪府池田市)は、横須賀や呉で海軍の士官学校の教官をやっていました。船でつかう手旗信号やモールス信号を若い兵士に教えていたのです。ですので、実際の戦闘には参加することなく終戦をむかえました。
母方の祖父は、いちど朝鮮半島のほうへ出兵してから復員しました。戦争末期に二度目の招集があって大阪から熊本の港へ行き、南方へおくられるために滞在していました。そこで終戦となり、混乱のなか熊本から歩いて大阪まで帰ってきたのだそうです。

僕の祖父や祖母は戦争を生きのびました。だから、先の大戦で多くの人の命がうばわれた、というのが実感がわきません。僕のおじいちゃん二人とも、生きて帰ってきたからです。
いま僕は、あたり前田のアホのクラッカーなことを書いています。そうです、おじいちゃんたちが命をおとしていたら僕は生まれてこなかったのです。

僕の父方の祖父の弟は、ニューギニアのワイゲオ島というところで26歳で戦死しました。 
父方の祖母の弟は、ものすごく可愛がっていた弟だったと聞くのですが、復員したものの戦争が元で身体をこわして終戦すぐに亡くなってしまいました。
母方の祖母の兄は、もともと身体の弱いひとだったので徴兵されませんでしたが、戦争末期に、祖母の言葉によると「丙の丙」で徴兵検査を合格してフィリピンに行きました。
復員しましたがマラリアにかかっていて先が長くないことを悟り、迷惑をかけないようにと家に戻らず東京の病院へいくことを選択し、家族にも会わずに、そこで亡くなりました。
その人が出征するときには、大阪駅の駅前で大規模な壮行会があり、たくさんの家族が見送ったそうです。最後に一目見ることができるかもしれない、もしかしたら話しができるかもしれない、とどうせ渡すことのできないおにぎりをつくって家族で出掛けたのだそうです。

当然のことではありますが、その亡くなった僕の大叔父さんたちのことは、僕の祖父や祖母が戦後七〇年にわたって毎日お線香をあげたりお供え物をして供養してきました。 おそらく、日本が平和のうちに復興・発展してゆくにつれて、愛する兄弟を戦争で失ったことへの無念は、年をおうごとに増していったのではないかと想像します。 その人たちが生きていれば、僕にはたくさんのハトコが居たのでしょう。

ところで、去年に堺屋太一という人が亡くなりました。彼は「団塊の世代」という言葉をつくった人として有名です。団塊の世代というのは、戦争がおわって平和がおとずれたのでたくさんの子供がうまれたので、そのベビーブーム世代をさします。
僕は1972年生まれで、ふつう、第二次ベビーブーム世代といわれます。
僕が子供のころ、小学校は児童であふれかえっていました。僕は「分校」を二度も体験しています。(大阪府枚方市立)田口山小学校は子供が教室が間に合わず校庭にプレハブを建てて授業をしていました。1980年4月に藤阪小学校と分校になりました。また、そのあと引っ越しをして通うことになった(奈良県生駒郡平群町立)平群東小学校は、1985年に平群南小学校と分校になりました。僕の通った平群中学校はたしか11組までありました。

不思議なことがあります。僕の父は一九四六年二月の生まれで、母は一九四五年三月生まれです。僕の妻の両親も終戦より前に生まれています。四人とも、いわゆる「平和がおとずれて生まれた子供たち」ではないのです。戦争のさなかに生まれた人、または戦争のさなかに授かって生まれた人です。じつは、そういった人はたくさん居るのです。 だから、とても有名な「団塊の世代」というこの言葉は、大事な何かを曇らせているのではないかという気がします。

僕の両親の世代は、戦局が厳しくなるいっぽうの時代にあって、「もう会うこともできないかもしれない」というような夫婦の焦燥から生まれてきた子供たちです。すくなくとも僕の父と母は明らかにそうだ。その子供が僕なのです。僕は「団塊の世代の第二世代」ではない。僕は一般にかんがえられているような「第二次ベビーブーム」の子供ではなかった!


僕はどこから来たのか、僕の子供たちはどこへ行くのか、これからの日本はどうなるのか。

「団塊の世代」「少子高齢化」などの戦後の日本を言い当てる言葉も、いまだしっくりきていない。
言葉だけでなく、僕が教わってきた「戦争のイメージ」も間違っていることは多い。すくなくとも、十分とは言い難い。

だらだらと書いてしまいましたが、とにかく、そんなことを考えながら、早いところ、明るい日本の未来像が、モヤモヤのなかから姿をあらわしてほしいものです。

YOU'RE THE MAN(マーヴィンゲイ 1972年)

 
"YOU'RE THE MAN" by Marvin Gaye, 1972



ペラペラと口ばかり動かして
民衆をあんたの思い通りにさせようとする
心配はいりません、とか
けっして見捨てません、とか
表明ばかりでうんざりだよ

あんたの言葉が嘘じゃないって
どうやって確信がもてるのさ
手遅れになる前に
人々の命にかかわる大問題なんだぜ
通学バスの問題は争点の一つにすぎない
それ以外の課題はどうなってるのさ

 本当にいい政策があるのなら
 本当にいい政策があるのなら
 投票してあげるさ
 投票してあげるさ
 だってあんたがやる人なんだろ


女性の大統領もいいかもしれない
そんなことよりこれ以上は嘘はこりごりなだけさ
どうやって暮らしをとりもどすんだ?
どうやってインフレをストップさせる?
どうやって雇用を拡大させる?
増税で恐ろしい状況がうまれているんだぜ
ピースサインをしてみせる裏で
無知な庶民から掠めとるんだろ
カネだけにしか興味がないんだろ
すべての人のことを考えた政策があるなら見せてみろ

 本当にいい政策があるのなら
 本当にいい政策があるのなら
 投票してあげるさ
 投票してあげるさ
 だってあんたがやる人なんだろ


ワシントンにはデモの人達があつまってる
その声を聞いたほうがいい
だって投票日のころには
風向きが変って劣勢でないとも限らないだろ?
明らかな差別主義者や煽動家は
いつだって大統領になっちゃいけない
爆撃をやめさせるんだ
そしてこの政権がやってきた間違いを正せ
いつだって選挙争点は平和と自由だ
さあ あんたにいい政策はあるのかい?

 本当にいい政策があるのなら
 本当にいい政策があるのなら
 投票してあげるさ
 投票してあげるさ
 だってあんたがそれをやるんだろ



Well, you've been talkin', talkin' to the people
Tryin' to get them to go your way
You're telling us, telling us not to worry
You say we won't be led astray
We're so tired of your signifying
How do we know 'til it's too late
Whether or not you've been lying?
Think about the mistakes you make
I believe, sir, that humanity's at stake
You see busing, busing is just one issue
What about the rest of it, mister?

If you've got the plan
If you've got the master plan
I got to vote for you
I got to vote for you
'Cause you're the Man

Maybe what this country needs is a lady for president
No, we don't wanna hear no more lies
About how you plan to economize
We want our dollar value increased
And employment to rise
This heavy taxation has got us all in this awful situation
Don't give us no peace sign
Turn around and rob the people blind
Money is all you're interested in
Do you have a plan that all the people can share in?

Because if you've got the plan
I got to vote for you
'Cause you're the man

People marching on Washington
Why not hear what they have to say?
Because the tables just might turn against you
Say, around Election Day
Demagogues and admitted minority haters
Should never be President, this time or later
Will you just stop the bombs and right all the wrongs
This administration has done?
I know peace and freedom is the issue
Do you have a plan with you, mister?

If you've got the plan
If you've got the master plan
I got to vote for you
I got to vote for you
Because you're the Man.


今週末、どこに投票するか?(大阪)

 
オーサカ=モノレールというへんな名前の音楽グループを三十年ちかくやっている僕は、なにを隠そう、大阪の出身です。
いまでこそ横浜に住んでいますが、生まれはもちろん大阪で、吹田市、枚方市、豊中市、池田市で住んできました。
父は池田市のひとで、母は大阪市旭区のひとです。


今週末4月7日は統一地方選挙。
大阪では、大阪府知事と大阪市長がいれかわろうとするという、なんとまあ、庶民をバカにしているとしか思えないことがおこっています。

iDTDXwE6.jpg

nTJ6G2Lu.jpg


ご存知のように、もう十年間以上も、維新の悪夢がつづいていています。
なんでこんなことになったのか。
端的にいうと、「たかじんのそこまで言って委員会」とか「たけしのテレビタックル」とか、そんな「本音トーク」などといって、政治をおもしろがる時代はもうとっくに終わったのだと思います。
いまは日本は少子化で、全員がどんどん貧乏になっていく時代。
だから、本当にマジメに理想や目標をうちたてて、しっかりやらないと取り返しがつかなくなる時代。
「この人なら変えてくれるかも」なんて思っちゃうのは人間の弱さなわけです。「変えてくれる人」なんて、世界じゅうのどこにも居ないのです。

維新は、十年もやっておいて「維新」もないですが、あげくの果てに、カジノやら万博やら都構想やら、と言うています。
カジノはぜったいにアカン。賭博というのは本質的に貧乏人いじめでしかありえないからです。
みんなの暮らしにも、景気にも、人の心にも、ものすごいマイナス作用しかもたらしません。(そのことは散々かきました。)
万博もぜったいにアカン。打ち上げ花火をあげたらあとは知らん、というおっさん達がやらかしたあとに尻をぬぐうのは僕たちの子供たちです。
「都構想」ってゆうのは、ようするに大阪市の廃止です。
「大阪都」なんて名称になるはずもないのに「都構想」とか言うて、「大阪人のコンプレックスにつけこんでみましたー」みたいなネーミング、ほんまハラがたってしょうがない。
しかも、大阪市を無くすなんてドラスティックなことは、良いか悪いかを議論するまえに、政治家や役所の胸三寸で、どうにでもなってしまう大変化です。そんなことを、維新にやらせたらアカンに決まっています。

なんでもかまへんから打ち上げ花火をあげまくるのが政治、くらいにしか考えていないのです。
この街の、何処かで誰かがくるしい思いをしていて、それに手を差し伸べることなんて、これっぽっちも考えていないのでしょう。
ようするに何が問題かというと、政治が劣化していること、これが一番の問題なんだと思います。

このたびは、なんと自民も公明も共産も立憲民主も、みんな維新の劣化政治をおわらすために力をあわせています。
大阪市長候補の柳本顕は、自民党の市議であって経済活性化中心の公約をかかげてはいますけれども、教育面では、貧困家庭やいじめ・不登校の問題などにとりくむこと、学校の先生の増員も約束しています。
府知事候補の小西禎一は、府職員から副知事をつとめた人物で、派手さは無いが、まじめな政治をとりもどすことのできる人物と期待しています。貧困問題や災害対策も公約の上位にあげている。


僕が大阪府民・大阪市民であったならば、かならず、

府知事には、小西禎一(こにし・ただかず)
大阪市長には、柳本顕(やなぎもと・あきら)

に投票します。

みなさん、かならず選挙にいきましょう。

平成は終わり。

 
時代について。
今年は平成が終わります。ほんとうは、「元号」なんて、あまり好ましくないただの制度・慣習であって、それによって何かが変わったり終わったり始まったりする筈もありません。それはそうなのですが、それでも、平成って一体なんだったんだとみんなが話題にしているので僕もかんがえを巡らせてしまいます。

平成とは、うしろばかりをみて前にすすめない時代、だったのではないかと思う。

昭和から平成にかわった1989年とは、ベルリンの壁がこわされ、ヤルタ会談で東西冷戦構造の終焉が宣言された年。歴史の大転換点だった。日本では、バブル崩壊まであと三年。

そこからの十年間、平成の幕開けごろ、つまり九十年代前半は、音楽の方面では六十年代や七十年代へのあこがれが支配的でした。僕はそういうものに影響をうけてバンドをつくりました。また、全世界的に隆盛したヒップホップはそういったものを再利用する音楽でした。

経済では、平成四年ごろにバブル崩壊したあと「失われた十年」。そこから立ち直ろうと、ああでもないこうでもないとやった時代でした。金融再編、住専、郵政民営化、派遣法改正、異次元の金融緩和。
結局、いまでは「失われた三十年」なんて言われています。いつまで失われたままなのだろう? 本当は、「失われた」は「迷える」の誤訳なのだけれど。言葉さえも、さまよっている。

僕自身は、高校二年生が平成元年でした。そのあと三十年間にわたって、いろんなことを体験してきたことになります。
学校に行ってバンドを結成したり、あちこちで演奏したり。
ちいさな会社をつくって色々やってみた。結婚もして家族もできた。
すべて平成でした。

それなのに、「自分は、昭和の人間。」というふうに認識しています。これは少しオカシイ。
自分は平成に生きてきた人間であるにも関わらず、平成に属すると云われてもしっくりきません。
むしろ、すこし誇らしく、昭和の人間であると思っているのです。
これは大問題です。つまり、自ら誇ることのできる時代を、平成生まれの人たちへ僕たち昭和生まれからプレゼントしてあげることができなかったことになります。

そんなことを思うと、数本の映画があたまに浮かびます。ものすごく似ている三本の映画について少し触れてみます。
『ALWAYS 三丁目の夕日』と『20世紀少年』と『クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』です。いきなりですが。

『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)
これは大ヒットして続編が二本もつくられたようです。僕は一作目だけはみました。
僕はこの映画はよいと思わない。大嫌い。
なぜかというと、この映画は昭和三十年代というものにまったく向き合っていないから。郷愁で人々の興味をひく材料にしているだけ。
僕のカンにサワるのは、劇中、すべてのものが「古い」ということです。家具や畳や看板が、サビだらけだったり汚れていたりします。昭和三十年代当時に住んでいた家なら、家は建てたばかりで畳もあたらしいはずだし、看板はサビもなくピカピカのはず。なのに、この映画のなかではすべてがクスんでいて、すべてがカスんでいる。セピア色。これは本当に観客をバカにしている。
現代からみた「理想」の昭和、つまりノスタルジーに訴えるように都合良く描いているからです。
もちろん、娯楽作品である時代劇がウソをつくことは構わないのです。(「時代劇」はお侍さんモノだけでなく、いろいろな時代を含んで。)本来、時代劇のあるべきすがたとは、フィクションの体裁をとって現代を描くことです。
この作品はそれではない。この映画は、単に、「昔はよかったね」と言っている。
表面上は、戦後復興期・高度成長期のころの活気を、ふたたび日本に呼び起こそうというメッセージを発しているようにみえる。しかしそれはウソで、日本の未来を切り開いてゆく手がかりは、そこには無い。将来を切り開くためのヒントが昭和三十年代に隠されているかのような幻想をふりまきながら、じつのところはただのノスタルジーという麻薬。
そしてこの映画が描きだしていたもの、空虚なノスタルジーは半ば現実のものとなりました。安倍首相はこの映画を大絶賛して、オリンピックを再開催するはこびとなりました。ほんとうに、日本は、なにかのネジが何本かぬけている。
あげくのはてに万博まで決まった。つづく二作品は、万博の再開催を描いたものです。

『本格科学冒険漫画 20世紀少年』
これは面白かった。映画でなくてマンガのほう。僕は映画はキチンとはみていません。漫画は1999年(平成11年)連載開始。2007年(平成19年)連載終了。
ストーリーを要約すると、〈20世紀末に大人になった自分のところへ、幼少時の友人が襲いかかってくる〉というものです。つまり、大雑把にいえば「平成 vs 昭和」です。そして「昭和」が勝って「平成」は敗北します。おまけに「西暦」も敗北して、無茶苦茶になりますが最後はいちおうハッピーエンドです。
子供のころのつくり話が現実におこる、というストーリーなのですが、よく考えると、さらに「それさえも子供のころのつくり話」というのがミソです。主要な登場人物は全員が小学校・中学校のときに接点のある人になっています。たとえば、ロボットを開発する科学者は「家業の酒屋の配達先の大学教授」。悪の帝国を取り仕切っているのは「小学校の前にいた行商のおじさんとその愛人」というふうに。ちなみに、犯人をつきとめる伝説の刑事は「僕の姪の義理の祖父」です。たぶん、そういうことでしょう。
当時の子供が考えたことなのです。攻撃される都市がロンドンだったりサンフランシスコだったりする(近所の喫茶店の名前)のはそのためです。また、細菌をばらまくロボットのなかが空洞になっているのもそのためです。曰く、「だって、本当に子供が考えたことなんだから・・・。」作品のタイトルが「本格科学冒険漫画」と銘打たれているのも、つまりは「本当の科学漫画ではない、こども向け」という意味なのです。
つまり、これは「平成から見た昭和の話し」ではなく、「昭和からみた平成の話し」です。これがノスタルジーという批判をかわすために使われている妙なロジックです。
うわべの主要テーマは「子供のころに思い描いていたような強い自分になれるか」です。「平成のじぶん vs 昭和のじぶん」です。その意味では、ものすごく簡単に言うと浦沢直樹氏のミッドライフクライシスです。それを、これでもかというほど壮大に描いて笑い飛ばそうとしているのでしょう。その気分は僕も共感できるものです。
この漫画はとても面白いのですが、ダメな点は、未来のことを描いている漫画なのに、未来への展望が一切ないことです。唯一、未来への希望の例示として登場するのは「ボウリングブームの再来」。これには、力なく笑うしかありませんでした。

『クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』(2001年)
これは名作ですが、子供向けの映画なのでご覧になられていない人は多いかもしれません。
僕のような心あたりある人にとっては、この映画をみるとグウの音もでませんので、ぜひ観て下さい。
昭和四十五年の大阪万博や、怪獣があばれるテレビ番組の思い出にひたるヒロシ(お父さん)を、幼稚園児のしんちゃんが叱る、という話しです。なぜなら、麻薬におぼれるかように、お父さんやお母さんが子供のころの思い出にひたってばかりいると、子供たちは何を指標に生きて行けばよいのか分からなくなってしまうからです。親の世代は子供たちに、「今」や「未来」を提示しなくてはならないのです。
この映画では、大人たちは、カリスマ指導者(なぜかジョンレノンとオノヨーコ)のもとで洗脳されていて、なつかしい昭和30年代や40年代が再現されたテーマパークのようなところに暮らしています。そこは大人だけのユートピアで、子供には居場所はありません。子供はテーマパークの外に居て、大人の帰りをまっています。
映画の最後には、しんちゃんがジョンレノンに引導を渡します。ものすごい名作ですから是非みてください。


クレヨンしんちゃんの映画がすべてを語ってくれているので、何も書くことがなくなってしまうのですが、とにかく、そうやって後ろ(昭和)をみているあいだに、次に何をしたらよいか分からなくなってしまって、いろんなものが崩れ去っていったのが平成だったと思います。
日本をぶっ壊したもの。バブル崩壊、新党ブーム、小選挙区制、小泉政権、安倍政権。日本は、フランスのマクロンやアメリカのトランプより数年早くに極右政権が誕生した。
大阪の、たかじん、読売テレビ、維新。
建前トークは良くないこととされて、「ぶっちゃけトーク」がもてはやされた。「ぶっちゃけ」というのは百害あって一利もない。建前が成り立たない世界は恐ろしい。倫理が機能しない。弱い人が戦々恐々とする社会だ。
昭和の時代にみんながつくった、ないがしろにしてはいけない「理想」「建前」がどんどん壊れていった。
じつのところは、議会制民主主義による国家統治なんて、ものすごく高度なことであって、みんなで建前を共有しないと成り立たないものだった。
平成とはそんな時代だったと思う。

なんの歯止めもきかないまま暴走をつづける安倍政権なるものが日本を壊しまくったあげく、当然、自民党だって自壊してゆくでしょう。そのあと残された僕たちは、壊されてしまった日本をどうするか。またあたらしい未来を提示してゆかなくてはいけない。
新元号なんて本当にどうでもよいことだが、とにかく、あたらしい時代には、振り返ることをやめて、未来を切り開かないといけない。すくなくとも模索を開始せねばならない。

僕は、要素やスタイルとして六十年代の音楽を扱うことはやめないけれど、ノスタルジーという要素は排除しなくてはならないし、着地点は未来を切り開くようなことがやりたい。

"YOU HAVEN'T DONE NOTHING" by Stevie Wonder, 1974



デカい話ばかりするんだが
感心する話は聞いたことがない
あれをやるとかこれをやるとか言うばかり
こっちに大いに関係あるはずが
こっちはまったく蚊帳の外で
そっちが勝手に決めてしまう

 「世の中を良くします!」なんていう
 あんたの鼻歌にはもうウンザリしてる
 オレたちの感想を聞きたいなら教えてやるよ・・・
 〈お前、何ひとつ出来てないじゃないか!?〉

みんなから嘲られて気の毒だけど
自分でまいた種だろ
民衆をだまらせようったってムダさ
本当のことを言ってもらおう

 「世の中を変えてみせます!」なんていう
 あんたの鼻歌にはもうウンザリだよ
 オレたちの感想を教えてやろうか?
 〈何ひとつ良くなってねえよ!〉

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ


悪夢のような現実があっても
目を閉じるわけにはいかない
でも ウソをついていたのなら
ヒドいお仕置きが待ってるぜ

 「世の中を変えてみせます!」なんていう
 あんたの鼻歌にはもうウンザリしてる
 オレたちの感想を教えてやろうか?
 〈何ひとつ良くなってねえよ!〉

 (ジャクソン5も一緒に!)
 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ



We are amazed but not amused
By all the things you say that you'll do
Though much concerned but not involved
With decisions that are made by you.

But we are sick and tired of hearing your song
Telling how you are gonna change right from wrong
'Cause if you really want to hear our views:
You haven't done nothing!

It's not too cool to be ridiculed
But you brought this upon yourself
The world is tired of pacifiers
We want the truth and nothing else.

And we are sick and tired of hearing your song
Telling how you are gonna change right from wrong
Because if you really want to hear our views
You haven't done nothing!

Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop

We would not care to wake up to the nightmare
That's becoming real life
But when misled who knows
A person's mind can turn as cold as ice.

Why do you keep on making us hear your song
Telling us how you are changing right from wrong
Because if you really want to hear our views
You haven't done nothing!

Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop



ついに1969年、〈サー・ジョー・クォーターマン&フリー・ソウル〉を結成したところからお話をします。

1916926_100316346647192_7878411_n.jpg

 このバンド名を考案したのは、当時マネージャーの役割を担っていたジョーのお姉さんなのだそうです。ちょうど、ジョーをふくむメンバー全員が、それぞれに所属していた別のバンドから離れて独立してつくったのがこの新しいグループだったので、「フリーソウル」(解放された魂たち)と命名したのでした。こういうのは、ある種の、半分ジョークで半分は大マジメなんだと解釈します。つまり、他人のバンドの構成員だったところから自分のバンドをつくることを、農園から解放される労働者になぞらえているようです。
 〈フリーソウル〉という言葉を選んだことについては、明確に、フリージャズ(スピリチャルジャズ)を意識していたということです。当時に沸き起こっていたファンク&ソウルの大ブームに、スピリチャルジャズや社会派の感覚を加えようとしていたのです。
 結成直後の音源は残されていませんが、コンセプトとしては、時代を反映してファラオズ/アースウィンド&ファイアーのようなものだったのでしょうね。
 (それから、ソウルという言葉からは、同郷・同時期のワシントンD.C.ファンクである「ソウルサーチャーズ」も思い出します。)

 ワシントンDCシーンで人気がでてから、かの「I GOT SO MUCH TROUBLE IN MY MIND」を録音しました。1972年のことです。


 ズシリと重いファンクのリズムに、ホーンが前面にでたサウンド。ジャズとゴスペルのハーモニー。そして、敗戦が色濃くなっていたベトナム戦争や、地元での不景気のこと、ゲットーでの身近な風景を描いて、同時代をギュッと凝縮させたような歌詞が大いにウケました。ビルボードR&Bチャート30位を記録したのです。

1964865_363035573839050_235668986_n.jpg

 名曲「I Got So Much Trouble」が録音されたのは、1972年3月のこと。メリーランド州シルバースプリングスにある「トラック・レコーダーズ・スタジオ」だそうです。メンバーは下記のとおり。
Sir Joe Quarterman (vocal & trumpet)
George "Jackie Lee" (guitar)
Chrles Steptoe (drums)
Willie Parker, Jr. (rhythm guitar)
Gregory Hammonds (bass)
Karissa Freeman (keyboard)
Leon Rogers (sax)
Johnny Freeman (trombone)

 そうなんです、サー・ジョー・クオーターマンって、作曲編曲とボーカルはもちろんなんですが、トランペット奏者だったのです。この「I Got So Much Trouble」冒頭の印象的なリフで「プゥア~」と音程をわざと少し下げて吹いているのはサージョーさん本人だったのです。(これがモダンかつブルージーな雰囲気をつくっていて、とても良い。)

1916926_100315519980608_183387_n.jpg
1916926_100315493313944_3178239_n.jpg

  歌とトランペットの両方を担当していますが、この二つは同時に鳴っています。オーバーダビングですね。時はすでに1972年。マルチトラック・レコーディング(つまりオーバーダビングが可能)が一般的に普及した時期です。(この「So Much Trouble」のようなインディーでもマルチ録音なわけですから。)16トラックのテープレコーダーを使ったのだろうと思います。1970年代の幕開けっていう感じですね。

 これはちょっと重要じゃないかと僕は思います。というのは、よく聴くと、この曲(それから後のアルバムの他の曲すべてそうですが)アレンジがとても良くできているんです。アレンジと各楽器の音量バランスが緻密につくられている。かなりの部分が楽譜におこされたうえで演奏されているような雰囲気です。(60年代のジェイムズブラウンのFunkなどとは正反対の世界ですね。)

 ジョーさんによると、この曲だけを録りおえるのに、なんと丸一日を費やしたそうです。これは当時としては、しかも駆け出しのアーティストとしては異例の長時間レコーディングではないでしょうか。サウンド・曲の設計図が頭のなかで出来上がっていたんでしょうね。コダワリのサウンドです。

 「たんにギグのオファーが来るようにレコーディングをしたんだ。プロモーター(興行主)に我々のサウンドを聴かせたかった」とサージョーさんは語っています。地元ワシントンD.C.や、東海岸・南部のほうへ足をのばすために「名刺がわり」として録音したのでした。まさかこのシングルがヒットするなんて思っていなかったんですね。

 はじめはナイトクラブや地元ラジオ局で人気がでてきて、そのあと全国流通されることによってブレイクし、最終的にはビルボードR&Bチャート30位を記録しました。

 このヒットをうけて、さっそくアルバム制作にとりかかります。(当時は、まずは地元ラジオを中心に一曲のヒットをだしてチャンスをつかみ、レーベルとアルバム契約にこぎつける、というのが成功への道のりだったのです。)

 ここでつくられたアルバムは、本当にすごいと僕は思っています。全曲、むちゃくちゃキャッチーで、それぞれがシングルヒットしてもまったく不思議でない曲ばかり。やっぱり、サージョーさんは、作詞作曲の能力がものすごいんだと思います。
 9曲のうち7曲は地元の「トラックレコーダーズスタジオ」で録音されたとのことですが、2曲はなんとマッスルショールズ録音です。あのFAMEスタジオで録音されたのです。その曲がこちらです。





 「オレを兵士にさせて、この人生を狂わせようとする奴ら。負けてたまるか」と歌う「The Way...」。ベトナム戦争のことですね。それから、「Find Yourself」のほうは、「どんなに困難があっても、自分自身が傷ついても、本当の自分の道をみつけるんだ」と歌います。

 アラバマ州マッスルショールズまで行ったストーリーを直接本人から聞きました。「えっ! アラバマまで行ったんですか?」「そーやで、行ったがな。すごいやろ。これが忘れられへん旅になったんや」
 やっぱり、アメリカ人にとっても凄いことだったのですね。当時、フェイムといえば大人気スタジオだったはず。レーベルの人(GSF)とサージョーさんの二人で行ったそうです。僕は訊きました。
 「そんな予算を、よくレーベルの人が出してくれましたね」
 「そう、僕もビックリしたよ。〈あそこで録音したらイイってみんなが言うから、行ってみよう〉っていわれたんだ」
 飛行機で行ったのかなと思いきや、車で二人で運転していったそうです。13時間くらいですので、ざっくり感覚的には東京から福岡ほどですかね。

 つまり、電話で予約してから、自分で書いた曲の楽譜をもっていくわけです。そうしたら、かのリックホールさんやFAMEギャングさんたちが待ち構えていて、彼らのフレイバーを加えつつ演奏して録音してくれるわけです。それでマルチテープ(当時は16トラックでしょうね)を「ありがとうございましたー」といって持ち帰るんだそうです。
 ですので、この「FIND YOURSELF」と「THE WAY THEY DO MY LIFE」は、リズムトラックがFAME録音で、あとのボーカルとホーンは持ち帰ってワシントンDCで録音したそうです。

 さきほど「忘れられない旅になった」と書きました。サージョーさんがアメリカ深南部まで足を運んだのは初めてだったのです。「深南部(ディープサウス)」というのは、サウスカロライナ州より南のことで、とくに差別の激しい地域として知られています。ミシシッピ州、ルイジアナ州、ジョージア州など、そしてフェイム録音スタジオのあるアラバマ州もここに含まれるのです。
 サージョーさんたちは、スタジオに到着するすこし手前のところで、レストランに入りました。そこで差別の眼差しを感じたのだそうです。そのあと、突然の激しい腹痛にみまわれ、嘔吐すると、驚いたことに緑色のものだったそうです。ジョーさんは、そのレストランで毒を盛られたのだと確信しています。
 特にこの地域は、沼地の、ものすごい田舎ですから、さもありなん、ということなのでしょう。同行していたレーベルの人は白人だったのでしょうね。そういうところにFAMEスタジオがあった。ソウルミュージックとは何かを考えさせられるエピソードです。

1916926_100315499980610_5845169_n.jpg
 さて、このアルバムの他の曲も紹介します。
 「So Much Trouble」のアンサーソング(続編ソング)というべき「Trouble With Trouble」です。これも名曲ですね。「学校で勉強しようにも、いい学校が近くには無い、バスに乗ったら、こんどはバス代で父ちゃんが怒りだす。トラブルがトラブルを呼ぶんだ」という歌。


 さて、傑作と評して良いと思うこのアルバムですが、発売元であるGFSレコードが弱小だったこともあり、全国的な話題を呼ぶまでには至りませんでした。
 ジョーさん直筆の、「こういうアートワークにしたい」というスケッチがそのままジャケットになってしまったお話は前回にしました。
 GSFはメジャー流通でしたが、お金をかけてプロモーションする気はなかったようです。しかしジョーさんによると「アルバムは口コミでうまくいくんじゃないかって思ってたんだ。ドンコーネリアス(テレビ番組『ソウルトレイン』の司会者・プロデューサー)にニューヨークのパーティーで会ったとき、《君のアルバムは特別にズバ抜けている。グラミーの可能性だってあると思う》って言ってくれたんだ」。
 かのドンコーネリアスも太鼓判をおしてくれていて、実際に彼の番組で使ってくれたのですが、それ以上のヒットにはつながらなかったわけです。



 サージョーさんほどの作詞作曲センス、それから時代に敏感に反応していたサウンドをもってすれば、もっとヒットを出して、大きなレコード会社と契約することもできたのかもしれません。
 このアルバムのあとも、1976年ごろまで、カッコいいシングルを連発するのです。それを次に見て行きましょう。


(その4へつづく)


5288_100315189980641_1361131_n.jpg

 サー・ジョー・クオーターマンは1944年ワシントンDC生まれです。ワシントンDCは「チョコレートシティ」と呼ばれるくらい黒人の割合が多いところで、黒人文化とくに音楽がさかんな場所です。なんと約50パーセントが黒人といわれています。(ホワイトハウスや連邦議会がある首都で、政治家やロビイストが生息しているところ、というイメージが強いかもしれませんが、どうやらそれは東京でいう永田町や霞ヶ関のような調子で、街の一部分ということなんでしょうか。)

 全米屈指の「黒人大学」であったハワード大学もここにあります。そして、後にチャックブラウンという英雄を生んで、ファンクの別の顔「ゴーゴー」がいまでも受け継がれている街です。


 若きジョーは1950年代のワシントンDCを、教会の合唱団やストリートで過ごしたそうです。子供のころからレイチャールズ、エルビスプレスリー、フランキーライモンなどから影響を受けて歌の才能を伸ばしました。中学生でトランペットを吹き始める前は、少年団でビューグル(軍隊ラッパ)を吹いていたそうです。高校生のとき初めての自身のバンド「The Knights」を組んだそうです。そのバンド名に応じて栄誉称号「サー」(勲爵士)というステージネームを使いだしたそうです。「この名前には深い意味は無いんだ。あの当時は、高貴なステージネームをつけて目立とうとするのが流行ってたのさ。《デューク(公爵)》とか《カウント(伯爵)》とか《ロード(卿)》などね。《サー》を選んだのは、僕の知る限りでは誰もそれを使っていなかったからさ」。

 なるほど、そういえば、古くはデュークエリントンやカウントベイシー、それからアール(伯爵)ハインズとか。B.B.キングなんかもこのジャンルに入るのかな? そういう黒人音楽の伝統があるみたいですね。しかし、それにしては時代が違いすぎるゾ。そういったもののリバイバルってことだろう。とりあえずそう理解しておこう。そういう名前を名乗るのが、ミュージシャンがストリートでキザに振る舞う一つのスタイルだったってことなんだろうナ。


 The Knightsがレコーディングを始めてまもなく、地元レーベルのオーナーであるローランドコヴェイ(ドンコヴェイの兄弟)に、女性ボーカルを加えようと言われたらしく、それが元でこのバンドは解散してしまいました。

 次に「サージョー&メイデンズ」というグループを結成。「Pen Pal」というローカルヒットをだしました。ジェリーバトラー、メイジャーランス、インプレッションズといった、ワシントンDCにやってくるソウル界のスターの前座で演奏したそうです。

 くわえて地元では人気のあった「The El Corols Band」にトランペットと歌担当で加入します。スティーヴィーワンダー、レイチャールズ、ナットキングコール、ディオンヌワーウィック、テンプテーションズ、スモーキーロビンソン、グラディスナイト&ピップス、オーティスレディングなどのスターのバックバンドを務めたそうです。このバンドは「The Magnificent Seven(荒野の七人)」というグループになり、ツアーで全国を廻っていました。リトルリチャードやソロモンバークのバックを務めたことがあるそうです。

 しかしバックのバンドメンバーに徹することに疲れたサージョーはヴァージニア州ピーターズバーグに移住します。そこでヴァージニア州立大学へ入学して、トロージャン・エクスプロージョン・マーチングバンドと学内の交響楽団に入りました。「僕の音楽教育のほとんどはピーターズバーグで得たものだよ」とジョーさん。日銭を稼ぐために、バージニアの州都リッチモンドでのたくさんの地元バンドで演奏し、週末にはチトリンサーキット(アメリカ南部の黒人ナイトクラブやライブハウスを巡業すること)をまわったそうです。

 1966年に、ジョーはワシントンDCに戻ります。The Uniquesの音楽監督の仕事の話があったり、地元のジャズグループ「Orlando Smithクインテット」に参加しました。ジャズの技術を身につけて自信がついたことにより、ついに自身の新しいグループの結成を決意します。「その頃ジェイムズブラウンは本当に大きな存在で、みんなファンクに夢中になり始めていたんだ。僕もやってみたかったんだが、ただのコピーはやりたくなかった。自分らしさを表現したかったんだ」。

 「ファンクをやる」という明確なコンセプトで1969年に結成されたその新しいバンドこそ、「サー・ジョー・クオーターマン&フリーソウル」でした。(つづく)


1916926_100316349980525_5696908_n.jpg





<<前のページへ 1234567891011

2020年5月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別 アーカイブ