ギルスコットヘロンの論じている革命は「黒人革命」(すくなくとも狭い意味では)でしょう。ときは、1970年。歴史的には、進歩的であった「公民権運運動」が勢いを落としてしまい、そのあと1960年代後半の急進的な「ブラックパワー運動」が手詰まりとなった直後です。こういった運動の全体が、見直しを迫られていた時期といっていいでしょう。その文脈としては、武装闘争、つまり警察や軍隊を相手にドンパチするようなものではないということです。
 ここでは、「武器をとれ」とか「組織をつくれ」とか、そういったことは一切いっていません。「ブラックパンサーを支持しろ」とか「ストークリーカーマイケルを応援しろ」も言っていません。「キューバ革命を見習え」とか「フランス革命を見習え」というような、革命の最終的な段階のことは言っていません。

 ギルが伝えていることは、〈革命というのは段階的なものである〉ということなのです。彼はその最初の段階だけを描いています。明確に理解されているのが最初の段階だけだからです。最初の段階とは、一人ひとりが目を覚ますことです。目を覚ました者は、テレビのスイッチを消す。テレビのブラウン管(いまならば液晶画面だけれども)の向こうにあるものは、企業や政府などのアンチ革命的な者たちがつくりあげるイメージの世界だから。そのイメージによる束縛から自由になり、現実の自分、現実の社会に目をむけるということ。広告の魔の手から逃れて本当の自分と向き合うということ。それをしなければ、自分より強くて大きいものである企業や政府に簡単に釣り出されてしまい、自分たち(自分や仲間)の暮らしを良くすることはできない。人間ひとりひとりの尊厳は、いつまでたっても勝ち取ることができない。

 革命の次の段階は何でしょう。テレビを消したあとは、どうするのでしょうか。それは第六段落とつぎの最終段落で語られています。僕たちは、テレビを消したあと、外にでなければいけないのです。何のために? 仲間に「みんな、テレビのスイッチを消すんだ! そして外に出よう!」と伝えるために。本当に大切なことを仲間と共有するために。目のまえでなければ、本当に大切なことは共有できないのです(第二段落)。

 革命とは、劇的な武装闘争である必要はまったくありません。かならずしも、即座に憲法や国家体制が一変するようなものである必要もないのです。なぜなら、革命は段階的なものだからです。言うまでもなく、革命のもっとも身近な成功例は、公民権運動(およそ1955-1965)であったでしょう。それは、バスのボイコット、ワシントン大行進、セルマ行進などの、非暴力主義を掲げた行進・ボイコット・座り込みなどでした。
 チリのアジェンデ社会主義政権の誕生は1970年の暮れですから、この歌と直接的なつながりは薄いのかもしれません。けれども、むしろ「同時性」のことは考える必要があると思われます。また、いわゆる「アメリカ性革命」(女性解放運動、性表現の自由化、LGBTの権利運動)も、革命の一端というでしょう。
 八十年代には、おとなり韓国での全斗煥大統領に対する民主化運動、中国での天安門闘争がありました。記憶にあたらしいものは、エジプトのムバラク大統領政権を崩壊させた革命(2011年)がありましたが、残念ながらそのあとふたたび軍事政権になっているようです。2017年に韓国でおきた朴槿恵大統領にたいする大規模な弾劾要求デモは記憶にあたらしいところです。
 これらの革命はすべて、デモ・集会をひらくこと、によっておこっているのです。それ以外に方法論は無いのです。だから、ギルは必然的に外に出なければならないと言っているのです。

 ギルは革命の初期のプロセスのみを描いています。目覚めて外へ出ることです。そのあとどうなるのでしょうか。この詩では、「目が覚めれば、広告や麻薬や酒などが自分の敵であるとはっきり認識できる。そして目覚めを共有するために家の外へ出る。そこまでは分かる。それ以上のところはまだ分からない」と言っているように僕には思えます。
 そうです、そんなことは分からなくたって、よいのです。ギルも私たちも、いち市民であって、運動家でも政治家でもないし、ましてや占い師ではないのです。とにかく半世紀前のギルは僕たちに警告を発してくれています。「分かるところまで」を僕たちに教えてくれています。僕たちは「分かるところまで」の知識を共有していかなくてはいけないのです。
 もちろん僕も、そのつづきはハッキリとは分かりません。ただ、きっと、目覚めて外に出たあとは、そこに居合わせる人たちどうしで連鎖反応的に目覚めを加速させるべきだと思います。だから、そのような集会をひらくのがもっとも良いと思うのです。
 つまり、みんなに知らせるために外にでる。外にでたみんなで集会をおこなう。集会の目的はみんなに知らせることである。知らされた人たちは、おなじく外にでる。みんなに知らせるために。  いずれにせよ、革命とは外に出ることなのです。

(最終段落)
The revolution will not be televised, will not be televised, will not be televised, will not be televised. The revolution will be no re-run, brothers. The revolution will be live.

革命はテレビ中継されない。革命はテレビ放送されない。もちろん再放送もできない。なあ兄弟よ、革命が起きるときはーーー目の前で起きるのだ。

 革命が起きるとき、それはライヴ(目の前)で起こる。ブラウン管やスマホによって目覚めが訪れるのではないのです。テレビ放送局やインターネット企業はすべて広告に乗っ取られているからです。
 目覚めとは、「本当に有るものを見られるようになる。」ということです。寝ぼけている者は、無いものを見ています。無いものを見ている人は有るものを正しく見ることができません。本当に存在しているものだけを見れば、自分は誰か、自分の仲間が誰か、がわかります。その暮らしを本当に良くするために何が必要か、おのずから答えがでてきます。それが革命です。
 目覚めのあと、僕たちは何人かで(または何万人かで)道のうえにいるのです。
 革命は、段階的なものです。目覚めも、集会も、運動も、それぞれに段階的なものだと思われます。先に述べたようなことで、どのレベルでも発生するし、それを革命と呼ぶと僕は思います。


(おわり)


(第八段落)
The revolution will not be right back after a message about a white tornado, white lightning, or white people. You will not have to worry about a dove in your bedroom, a tiger in your tank, or the giant in your toilet bowl. The revolution will not go better with Coke. The revolution will not fight the germs that may cause bad breath. But the revolution will put you in the driver's seat.

革命は「この続きはCMの後!」などと言わない。革命は、白くなる洗剤のCMだの、白い歯になれる歯磨き粉のCMだの、白い人達が登場するCMだの、の後でも放送されない。鳩マークの制汗クリームだの、トラのように力強く走れるガソリンだの、トイレの汚れを落としてくれる「便器の巨人」だの、そんなものは革命とは何の関係もない。
それからな、革命は甘味飲料じゃねえぞ? 革命で「スカッと爽やか」にならない。革命は口内殺菌剤じゃねえぞ? 革命で「お口クチュクチュ」できない。ところで、革命はレンタカーみたいなもんだぞ? 革命は「ハンドルを握るのはアナタです!」

(第八段落の解説)
 まず、テレビ広告の特徴として〈三つの白いもの〉を挙げています。洗剤と歯磨きと、それから「白人」です。
 現代のアメリカの常識と照らし合わせるならば違和感があるでしょう。現代アメリカにおいては、かつての「白人対黒人」という単純な対決図式から大いに進歩をしました。以前として人種問題は横たわっていますが、その問題の本質は「格差」や「偏見」であって「肌の色」ではないからです。とくにスペイン語系の移民が大量に押し寄せて、問題はもっと大きく複雑になりました。「白人」を非難するようなこの物言いは少し時代遅れと言うべきでしょう。
 つぎに、白色のつぎは、動物などのマスコットをつかった広告の糾弾です。「ベッドルームの鳩」というのは、鳩マークでお馴染みの「Dove」の制汗クリームのことです。「ガソリンタンクのトラ」というのは、当時のエッソの宣伝を指しています。「便器のなかの巨人」というのはトイレ洗浄剤の宣伝のことですが、さらに、便器というのは英語で「ボウル」といいますから、これがニューヨーク(ひいてはアメリカ合衆国全土)のことを指していて、「ボウルは、そんな簡単に洗浄できない」とギルは暗示しているのだとも考えられています。

 つづいて、炭酸飲料水のブランド(コカコーラ)と、口腔消毒剤ブランド(リステリン)をあげます。
 そしてその次が、この長い広告批判のポエトリーの最後となります。作者はここで少しヒネりを効かせています。最後は「じゃない」ではなく「である」で締めくくります。レンタカー会社のキャッチコピーだけは、なかなか良いと言っているのです。
 革命とは、人民ひとりひとりが自分の力で行うもの。誰かにやってもらうものではない。人々が、いまある問題を、自分に直接的に関わる問題であることをしっかり認識して、自分の力で解決するために、自らすすんで家から外に出るのが革命である。ギルが言いたいことはそれです。このあとの最終段落も、そのことを言い換えているだけでしょう。

 
 ようやく終わりに近づいてきたようです。まとめます。
 「テレビで革命が家に届けられることはない」ことの理由は二つ。一つ目は、「革命は映像化できないから。」 二つ目は、「テレビは広告だから。」
 テレビは広告です。広告に娯楽がくっついているのです。娯楽に広告がくっついているのではありません。広告の商品を買ってもらうためにテレビ放送が存在しているのです。私たちを楽しませるためにテレビ放送が行われているのではありません。何をどうしたって、そのテレビが革命を後押しするはずは無い。
 本来は、映像を遠隔伝達するという「テレビ技術」そのものは反革命ではなかったはずです。しかし、いくら優れた科学技術であっても、いったん広告に乗っ取られたあとはもはや逆戻りできません。テレビと革命は、互いに相容れないもの、水と油、の関係です。否、互いに敵対して立ちはだかり、一方が消滅するまで拮抗する関係にあると言うべきでしょう。

 それでは、いま、僕たちが対峙しているインターネット技術はどうでしょうか。フェイスブックは? Youtubeは? ツイッターやインスタグラムは? これらは革命的になりうるでしょうか。僕たちの家庭のパソコンやスマートフォン端末を通じて、「革命」は届けられるでしょうか。僕たちはこれらの道具を使いこなして世界に革命を起こすことができるでしょうか。
 世界に冠たる巨大企業となったGoogle社やフェイスブック社。彼らの立脚点は何でしょうか。彼らはどうやって収益をあげているのでしょうか。彼らが提供する情報技術やSNSのインフラは、革命的でありうるでしょうか、それとも反革命的でしょうか。
 誠に残念ながら、答えはもちろん「反革命的である」です。その理由は、「彼らは広告だから」です。簡単なことです。わざと難しくして分かりにくくしているのは向こう側の作戦です。

 さあやっと最後まで来ました。大事なことが一つ残っています。「革命とは何か?」です。
 そしてその革命は、ここ日本に住む僕たちと関係があるのか、ないのか。どのように関係があるのか。

 しつこいようですが、「革命は映像化できない」のです。そういうことであれば、文章にすることだって出来ないでしょう。ギルはインタビューで繰り返しこう言っています。
 「革命とはーーー少なくともその第一段階においてはーーーまず人間のアタマの中で起こるもので、それは決してフィルムにおさめることが出来ない。目の前にあるものは、かわりばえのない、普段から目にしているもの。そこで革命が起きる。ふと突然に、《あれ、いままでオレはちがうページを開いてたぞ》となる。」
 要するに、革命とは〈目覚める〉ということです。しかし、「目覚めよ!」などと言ったって、「はい、目覚めていますが、一体なんのことでしょう?」という返事がかえってくるでしょう。
 映像にも文字にもすることが出来ません。すなわち媒体で伝達できない。もちろん複写もできない。もし簡単に伝達することができるのなら、とっくの昔にあらゆる国で革命が起きて、世界の人々はとうに解放されているのでしょう。
 そんなわけで、ここで革命とは何かを書いてみたところで、その言葉の意味はスルスルと流れ落ちてゆくのかもしれない。・・・まあそれでも、ちゃんと書いておこうと思います。本当のところは、「目覚めとは何か?」それは短くたった一言で答えられるようなことなのだと思いますが。



(第四段落)
There will be no pictures of you and Willie Mae pushing that shopping cart down the block on the dead run. Or trying to slide that color TV into a stolen ambulance. NBC will not be able predict the winner at 8:32 on reports from 29 districts. The revolution will not be televised.

アンタは大勢にまじって買い物カートを押して一目散に走るカッパラってきたテレビを一生懸命に車へ運び込む・・・革命とはそんなものではない。大統領選挙の日、早くも午後8時32分、NBCテレビはニューヨーク州選挙区から当選確実の報道をだす・・・そんなことはできるはずがない。革命がテレビで放送されるはずがないのだ。

(第四段落の解説)
 この段落の一行目は、「ワッツ暴動」(1965年、ロサンゼルス市)のような黒人地区の暴動の風景を描いているのだと思います。1960年代後半は、ワッツ暴動を皮切りとして夏がくるたびに暴動が頻発していました。黒人地区に火があがり、商店街のお店から物が盗まれていく様子です。
 「買い物カート」は貧しい者の象徴です。貧しい層は車を持っていないのでショッピングカートを押してそのまま家に帰るからです。または、ホームレスの人々がカートに物を乗せて生活するからです。
 「暴動がおこって略奪をするキミの顔はテレビで報道されない」とギルは言っているようですが、レトリックではなくそのまま受け止めて良いのでしょうか。もしそうなら、「キミは暴動を起こす側のはずだろ、暴動をテレビで眺める側じゃないだろ、ましてや鎮圧する側の人間じゃないだろ」というメッセージに聞こえます。
 では、暴動は革命(レボリューション)でしょうか? 暴動は革命的(レボリューショナリー)でしょうか? 暴動が起これば、一歩でも革命に近づいているだろうか?
 テレビが暴動のニュースを伝えることはあるだろう。しかしそれは革命となにか関係があるだろうか?・・・と暗に問いかけています。暴動と革命は似て非なるもの、というのがギルの答えなのでしょうか。そこは明言されていません。しかし、暴動の様子をニュースで報道したってテレビは革命の引き金にならない、ということだけは明快に分かっていることです。
 (なお、Willie Maeという名前が意味するところが、いろいろ調べたのですが分かりません。有名な野球選手ウイリーメイズのことではないと思われます。お分かりのかた教えてください。)

 それにつづいて、選挙について言及されます。大統領選挙のことでしょう。NBCはニューヨークに本社のある主要全国テレビ局です。投票所は夜八時に閉まるのにその三十分後にはテレビ局が一方の大統領の当選確実を宣言するなんてオカシイだろ。テレビなんてそんな馬鹿げたものだと言っているわけです。
 アメリカは全国で四つの時間帯を採用していますから、ニューヨークで八時半であれば、西海岸ではまだ夕方の五時半です。アラスカにいたってはまだ四時半です。これでは正常な選挙はできません。
 テレビというものは民主主義を妨害するものであると言っています。

 第四段落は、ジャーナリズム批判ということになるでしょうか。


(第五段落)
There will be no pictures of pigs shooting down brothers in the instant replay. There will be no pictures of Whitney Young being run out of Harlem on a rail with brand new process. There will be no slow motion or still life of Roy Wilkens strolling through Watts in a Red, Black and Green liberation jumpsuit that he had been saving for just the proper occasion. The revolution will not be televised.

黒人がポリ公に撃ち殺される映像がリプレイ・・・されるはずないだろ。ホイットニーヤングが 流行のストレートパーマをあててハーレムで市中引き回しになる映像が・・・放送されるはずないだろ。ロイウィルキンズが ついにアフリカ回帰運動を唱えて三色のジャンプスーツを着てワッツ地区を練り歩くところをスローモーションまたは静止画像で・・・放送されるわけないだろ。革命とはテレビで放送されないのだ。

(第五段落の解説)
 黒人に対する警官による暴力の問題。黒人街にたむろする人々を乱暴に尋問したり、いわれなく逮捕されたりする。最悪のケースは黒人男性が白人警官に路上で射殺されたり、逮捕後に不明な死をとげる。これは現代にまで連綿とつづいています。1960年代にはブラックパンサーが「警察から身をまもるために武装しなくてはならない」と主張しました。1991年にはロドニーキング事件、翌年にはロサンゼルス大暴動が発生しました。
 近年では、2014年に起こったマイケルブラウン君が射殺された事件、エリックガーナー窒息死、2015年のウォルタースコット事件、フレディーグレイ死亡事件、サンドラブランド死亡事件、そして2016年のフィランドキャスティール事件などです。これらの事件で罪を問われた警官はみな無罪となっています。
 また、2012年のトレイボンマーティン殺害事件は、白人至上主義者が待ち伏せして17歳の黒人青年を射殺した事件ですが犯人が無罪となったことで「Black Lives Matter運動」のきっかけとなりました。
 「Instant replay」は、スポーツ中継でよくある「いまのシーンをスローモーションでもう一度」みたいなやつでしょう。当時としては最先端の映像技術だったのでしょう。だから、「もし黒人男性が警官に射殺されるところがテレビで放送されるなら、スポーツ中継みたいにリプレイやってくれるかもね」という辛辣な皮肉を言っているわけです。
 これは、2018年に日本に住む僕たちも、本当に笑っていられることではありません。僕が子供のころには、「テレビニュース」というのがあったと記憶しています。いまは、ほんのわずかな枠を除いてそんなものは無くなってしまったようです。すべて「ワイドショー」と呼ばれるものに取って替わられました。
 つまり、ニュース報道というものは広告とそりが合わないのです。だから広告媒体であるテレビにうまく適合させるために、スポーツも娯楽芸能も政治社会ニュースもすべてひっくるめたワイドショーになってしまったのでしょう。その意味で、ここでギルが指摘していることーーー「テレビ局は、黒人が警官に殺されるところをスローモーション再生してショーにしちゃったらいいじゃん」ーーーは、あまりにも核心に迫っていると言えるのではないでしょうか。

 現代にはテレビやインターネット、そしてスマートフォンの登場。不条理に人々が警察に撃ち殺される映像が見ることはいとも簡単に見られるようになりました。では、それで一体なにかが変わったのか、または変わっていないのか、進歩したのか後退したのか? 革命に近づいたのか遠のいたのか? そもそも革命とは何なのか・・・

 ホイットニーヤング(1921-1971)は、黒人の雇用問題にとりくむ団体「全国都市同盟」の事務局長を務め、公民権運動のリーダーの一人として活躍した人物です。現実的な功績をおさめた反面、妥協することも多かったので、迎合的・体制寄りであるとされて、黒人のあいだでは批判の的となってきた人物です。
 「プロセス」というのは、黒人のあてるストレートパーマのことです。1970年ごろは、アフロヘア(ナチュラルヘア)が大流行した時期でしたから、ここでは体制寄りであることの象徴として言われています。前述の「ニクソンがラッパを吹く映像」という話と同じ理屈です。革命は映像化できないということを言っています。
 つづいて、ロイウィルキンズ(1901-1981)も著名な黒人活動家です。60年代にNAACP(全米黒人地位向上協会)の事務局長を務めました。ここでは批判の対象として登場しています。つまり、「ブラックパワー」運動が大きくなっていた1960年代後半〜1970年にあっては、武装主義や「いかなる手段をとろうとも」という主張が有力となっていて、50年代〜60年代前半にキング牧師たちと公民権運動を闘った世代は「および腰」として批判されていたのです。
 ここで、赤黒緑の「三色」というのは、マーカスガーベイ(1887-1940)らが唱えた黒人民族運動、パンアフリカ運動をあらわす三色国旗のことです。ここでは、六〇年代前半の公民権運動家が、より革命的であると考えられている六〇年代後半のブラックパワー運動に同調しないことを批判しているのでしょう。

 くどいようですが、この詩はこのように訴えます。《・・・テレビで革命を起こすことは出来ない。本当に革命が起きるということは、私たち黒人全体の意識が目覚めるということだからだ。テレビで人々の意識が目覚めることはない。ところが、君は家でテレビを観ている。僕は君に問う。君は一体どのような映像を待っているんだ? ニクソン大統領が黒人の子供から豚肉をとりあげる映像だろうか? ホイットニーヤングがプロセスパーマをあてた映像だろうか? ロイウィルキンズが三色スーツを着た映像だろうか? もちろん、そんな映像は無いし、仮にそんな映像が放映されたところで君の意識が目覚めることは無いだろう。つまり、革命の思考は映像化できないのだ。》


(第六段落)
"Green Acres", "The Beverly Hillbillies" and "Hooterville Junction" will no longer be so goddamned relevant. And women will not care if Dick finally screwed Jane on "Search for Tomorrow" because Black people will be in the street looking for a brighter day. The revolution will not be televised.

『農業天国』だの、『じゃじゃ馬億万長者』だの、『ペチコート作戦』だの、そんなコメディドラマを見る必要なんてどこにあるんだ? ソープオペラ『明日を探して』の二人は「結局ヤッちゃうのかな?」なんて気にとめる主婦なんて居るのか? すべての黒人は明るい未来を求めて家から外に出るのだ。なぜなら、革命がテレビで家まで届けられることは無いからだ。

 ここで三つのシットコムが登場します。「シットコム」というのは「シチュエーションコメディ」の略ですが、日本ではあまり馴染みがありません。日本でもっとも有名なのは『奥様は魔女』でしょうか。画面には映らない観客が居て、笑い声だけが聞こえてきます。こういうのを「録音笑い」というそうです。撮影セットはわざと舞台風になっていて壁の四方にあるうち一方だけがカメラに向けて開放されています。
 アメリカではとても普及しているもので、夜の娯楽といえばシットコムかトークショーです。両方とも観客を入れて行われるところが興味深いですね。
 日本だと、録音笑いといえば、『ドリフの大爆笑』を思い出します。それから、80年代終わりの『やっぱり猫が好き』もシットコムの実験的なものですかね。そういえば、日本では90年代以後でしょうか、制作スタッフの笑い声をわざと拾うという方法が編み出されているようです。

 いずれにせよ、コメディーを観ていても革命は起きないぞ、と言っています。そりゃそうだ。
 ここで挙げられている三つのシットコムはいずれも60年代当時、日本でも放送されていて、とても人気があったそうです。"Green Acres"の日本放送用のタイトルは『農業天国』で、"The Beverly Hillbillies"のほうは『じゃじゃ馬億万長者』でした。前者のほうは、大都会ニューヨークから田舎農場に移り住む夫婦のお話。後者は、田舎農場の金持ちがビバリーヒルズにやってきて引き起こす珍騒動ドラマ。三つ目の"Hooterville Junction"は、本来は "Petticoat Junction"(日本放送用タイトル『ペチコート作戦』)と思われます。
 大昔のコメディのことを詳しく掘り下げる必要は無いかもしれません。ようするにギルはここで、「オレたち黒人が、農業を営む白人家庭を舞台にしたコメディ番組を観るバカがあるか」と言っているのです。
 これは僕の推測ですが、資本主義の一端(いや本質というべきか)として、田舎から出てきた労働者が掠め取られることによって都市が繁栄しつづけるということについて暗に言及しているのかもしれません。

 シットコムの次はソープオペラです。ソープオペラとは、主婦向けに昼の時間帯に放送される、多くは洗剤会社がスポンサーとなる恋愛ドラマです。この『明日を探して』というのは超がつく長寿ドラマで、なんと1951年から1986年までの35年もつづいたそうです。(もちろん僕は観たことはありません。このブログを書くためにYoutubeですこし観ましたが。)
 あまりにタイトルがハマりすぎて笑いを誘います。


(第七段落)
There will be no highlights on the eleven o'clock news and no pictures of hairy armed women liberationists and Jackie Onassis blowing her nose. The theme song will not be written by Jim Webb or Francis Scott Keys, nor sung by Glen Campbell, Tom Jones, Johnny Cash or Englebert Humperdink. The revolution will not be televised.

革命が起きれば 夜11時のニュースで流れると思うか? アンタの革命は「ウーマンリブの女性は脇毛を剃りません」てか? アンタの革命は「ジャッキーオナシスが人前で鼻をかみました」てか? それからなあ、革命ってのはBGMもついてないんだぜ? ジムウェブだの、フランシススコットキーズだのによるオープニング音楽も無いし、グレンキャンベルだの、トムジョーンズだの、ジョニーキャッシュだの、イングルバートハンパーディンクだのが唄う主題歌も無いんだぜ? 革命というのはテレビで放送されないのだ。

 この段落は、僕はうまく翻訳できずにモヤモヤしています。でも意味はとてもシンプルなはずです。《革命は夜11時のニュースでもやってないぜ》と言っているだけです。ウーマンリブの女性は脇毛をのばしているとか、ジャッキーオナシス(暗殺されたケネディ大統領の未亡人)、つまりオナラもしないようなセレブ面をした特権階級が鼻をかんだという程度の「衝撃映像」ならテレビでやってるだろうけどなーーーと言っているだけです。
 「衝撃映像」と「革命映像」をごっちゃにするなと言っています。
 革命は映像化できないのです。そしてギルは、「革命はニュースにもならない」と言っています。すこしばかり耳を疑います。えっ、革命はニュースにもならないの?・・・これは重要な気がします。どうなのでしょうか。

 つづいて、「音楽もついてねえぞ」と言っています。言われてみれば、これも重要です。(・・・そうか、音楽もついてないのか!)
 僕は、革命って、なんだかカッコいい音楽がついてるものだと先入観を持っていました。でも、確かに音楽はついていないかも。逆もまた真なり。音楽がついているものは本当のレボリューションじゃない。音楽をかけるのがダメといっているのではない。音楽なんて意味が無くなるほどの瞬間が訪れるのだと考えればいいかもしれない。








(第一段落)
You will not be able to stay home, brother. You will not be able to plug in, turn on and cop out. You will not be able to lose yourself on skag and skip out for beer during commercials. Because the revolution will not be televised.

なあブラザー もはや家に閉じこもっていられないぜ。家でテレビのスイッチをいれてチャンネルをひねってくつろいでる場合じゃない。家でヘロインで夢心地になっている場合じゃない。CM中にビールをとりに行っている場合じゃない。なぜなら・・・革命はテレビ放送されないからだ。


(第一段落の解説)
 この詩で語られるメッセージはいたってシンプルで力強いものです。ギルは、単刀直入に、最も伝えたいことを、冒頭、第一段落の一行目で言い切っています。それは、《黒人は、家から出ろ》ということです。
 これほど分かりやすいメッセージがあるでしょうか。これが彼の言いたいことの全てです。(これから詳しく書きます。)つまり「黒人の暮らしを良くするためには、我々は行動しなくてはならないのだ」と言っているわけです。
 なぜ家を出なくてはならないのでしょうか。曰く、「なぜなら、〈革命〉が家に届けられることはないから」。家でテレビを見たり、ビールを飲んだり、ヘロインやコカインをやっても、革命はやってこないぞ、と言っています。

 二行目の「plug in, tune on and cop out(電源コードを差し込み、スイッチをいれて、現実から逃げる)」は、LSDの推奨者として知られるティモシーリアリーの有名なスローガン「Turn on, turn in, drop out」(「キメろ、ハマれ、ブッ飛べ」拙訳・・・みたいな感じかな?)をもじったものです。ギルの文脈は、「LSDを使って意識を解放させて世界を変えようなんてバカなことを言ってた奴がいたが、そんな他力本願じゃだめだ。それと同じで、家でテレビを眺めてても、自己変革も起きないし黒人の状況も変わるはずがないゾ」ということです。
 ・・・うーん、耳が痛い。そう感じるのは僕だけではないでしょう。テレビに加えて、パソコンやスマホに自分の時間の多くをハイジャックされている現代人は、いかにして革命的になれるのか・・・。これが本稿のテーマです。

 「skag」というのはヘロインのことです。「ヘロインでハイになってんじゃねえ」と言っています。その次、「CM中にビールを取りに行ってる場合じゃない」というフレーズは、何かのジョークのようにも聞こえますが、とても思わせぶりな一行です。
 これはつまりこういうことです。「CM」というのはテレビ広告のことです。「ビール」というのはアルコール依存のことを表しています。つまり、この三行目でギルは、現代社会にはびこる病理として三つのものを並べています。麻薬、アルコール、そして広告です。
 ギルスコットヘロンは代表曲「Home Is Where The Hatred Is」で麻薬問題をとりあげ、「The Bottle」でアルコール依存の問題をとりあげました。そして、この曲『革命はテレビで放送されない』は、広告の問題をとりあげます。  第一段落でギルは、私たち黒人の未来のためには、家にこもって三つの悪魔、すなわち麻薬・アルコール・広告に冒されていてはいけないのだと訴えています。


(第二段落)
The revolution will not be televised. The revolution will not be brought to you by Xerox in 4 parts without commercial interruptions. The revolution will not show you pictures of Nixon blowing a bugle and leading a charge by John Mitchell, General Abrams and Mendel Rivers to eat hog maws confiscated from a Harlem sanctuary. The revolution will not be televised.

来るべき革命とはテレビ放送されないのだ。革命は「ゼロックス社の提供でお送りしま・・・」せん。革命は「CM無しの四部構成でお届けしま・・・」せん。
革命とは映像化できないのだ。したがって、ニクソンが突撃ラッパを吹き、その手駒たちーーーミッチェル司法長官だの エイブラムス軍司令官だの アグニュー副大統領だの リバース議員だのーーーが、ハーレムの黒人教会の台所から豚モツをカッパラってきてムシャムシャ食べる・・・そんな放送も無いのだ。つまり革命とは放送することができないのだ。


(第二段落の解説)
 「ゼロックス」というのは、馴染みがない人も居るかもしれませんが、コピー機(複写機)をつくっている企業です。コピー機は、かつては、いっぱしの会社にだけ設置されている高価な機械でした。もう死語ですが、70年代から80年代の始めにかけては「コピーする」というのを「ゼロックスする」などといいました。
 このポエトリーでは、これから数段落にわたって、たくさんの企業(数えてみたら全部で13社ありました)を槍玉にあげて、コマーシャル(広告)批判を展開していくのですが、その一発目としてゼロックス社が持ち出された理由はわかるでしょう。つまり、「革命はコピーできない」ということを暗に表しています。
 ギルは「コピー技術」そのものを批判しているのだと思います。本当に大事なもの、本当に価値のあるものは、やすやすと「コピー」できない。ましてや〈革命〉などがそう簡単にコピーできてたまるものかと。

 その次の言葉「コマーシャル無しの四部構成」の意味するところは、あいにく僕にはよく分かりません。アメリカに住んだことのある知人に訊きましたら、「むかし、そういうのがよくあった」とのことです。おそらく、「コマーシャル無し放送」と銘打たれた番組であっても、当然ながらいずれかの企業がスポンサーとなっているわけですから、それはまやかしです。そのことをギルは指摘しているのではないかと思います。
 くわえて、「四部構成」というのは〈革命〉は小出しに振り分けることの出来るようなものではないことを暗示しているのでしょう。さきほどのコピーの話と同じです。

 つぎのニクソン云々のところは重要です。「The revolution will not show you a picture...」この一文は、のちのちにギルがインタビューで何度も語っている重要なポイントとかさなります。インタビューで、「革命とはーーー少なくともその初期の段階においてはーーーまず人間のアタマの中で起こるものであって、それは決してフィルムにおさめることが出来ない」とギルは発言しています。つまり革命とは思考なのであって映像化することが叶わない。(これはさきほどの複写技術批判と、ほぼ同義といえるでしょう。)  このくだりを翻訳することはなかなか難しいように思えるのですが、意味としては、下記のような具合じゃないかと思います。いかがでしょうか。  「アンタ、テレビの前に座って何を待っているんだい? ニクソンが突撃ラッパを吹き鳴らす映像でも待ってるのかい? ミッチェル司法長官が黒人の子供から食事をとりあげて自分がムシャムシャ食べている映像でも見たいのかい? そうすればアンタの頭のなかで革命が起きるとでもいうのかい?」

 第二段落でギルが訴えていること:革命とは複写できないし映像化もできない。


(第三段落)
The revolution will not be brought to you by the Schaefer Award Theatre and will not star Natalie Woods and Steve McQueen or Bullwinkle and Julia. The revolution will not give your mouth sex appeal. The revolution will not get rid of the nubs. The revolution will not make you look five pounds thinner. Because the revolution will not be televised, brother.

革命は、〈シェーファー劇場〉で放送されたりしない。革命には、ナタリーウッズも出演しないし、スティーヴマックインも出演しないし、ブルウィンクルも登場しないし、それから、ジュリアも登場しないのだ。
革命で「歯が白くなら・・・」ないし、革命で「剃り残しナシになら・・・」ないし、 革命で「装着したら5キロ痩せて見え・・・」ないのだ。


(第三段落の解説)
 ひきつづいて、滑稽な言い回しでテレビ批判(広告批判)が始まります。下記のように翻訳してみても良いかもと思いました。どうでしょうか。
 「テレビをつけても〈革命〉は映ってないぞ。なに、ナタリーウッドが出てる? それは革命じゃねえ。それはテレビドラマってやつだ!」
 「なに、ブルウィンクルが出てる? それは革命じゃねえ。それは子供向けアニメだ!」
 「なに、ジュリアが出てるから革命かも? バカ、それは黒人の進歩を装ったシットコムだ!」
 「なに、歯が白くなるらしい? バカ、そいつは革命じゃねえ。それは歯磨き粉の広告だ!」
 「なに、剃り残しがなくて爽快? バカ、そいつは革命じゃねえ。それはヒゲ剃りの広告だ!」
 「なに、装着したら5キロ痩せて見える? バカ、そいつは革命じゃねえ。それは補正下着の広告だ!」

 シェーファーというのはアメリカのビール会社です。「シェーファー劇場」というのはその企業が提供する冠番組枠のことです。またもやアルコールです。ギルは「ビール会社が革命を応援するわけはないだろ」と言っているのです。そりゃそうだ。

   第三段落でギルはこう言っています。テレビが家にとどけてくれるもの・・・それはビールの広告、家族コメディドラマ、西部劇ドラマ、子供向アニメ、美容用品の広告。あなたに必要なものは何一つ届けてくれない。


 "Revolution will not be televised."(革命はテレビ放送されない。)−−−なんとカッコいいキャッチフレーズでしょう。当時もっともクールに輝いていた詩人・ギルスコットヘロンによる、1970年発表のポエトリーのタイトルです。さすがに現代の僕たちの脳みそにも突き刺さります。そして同時に、謎にみちたタイトルでもあると思います。意味が分かるような分からないような・・・。だからこそたくさんの人を魅了してきたと思います。

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 2015年9月、この歌詞の翻訳を、僕なりにやってみました。この拙い翻訳が完成するまで、半年くらい要しました。この詩は一体なにを訴えようとしているのか、彼が革命と呼んでいるものは一体どのようなものなのか、最後の一行に込められた意味はどのようなものか。その本意を掴もうと、知恵熱をだして取り組みました。



 ちょっと脱線します。実は、この翻訳に手を着ける以前には、僕は只々ぼんやりと、つぎのようなトンチンカンなことを考えていました。
 ーーーいざ革命が発生したとき、何がおこるか? ここで云う革命とは、当然ながら〈ブラックレボリューション〉という意味だろう。素直に考えて、ふつうは革命軍が政府軍を打ち破ったら国営放送局を占拠するだろう。そして全国にむけて革命が成就したことを電波にのせて宣言するだろう。それなのに、なぜ、ギルは「革命はテレビ放送されない」なんて言っているのか?
 ーーーそれとも、革命が起きたとき、旧政府の命令で各放送局が電波停止させられるんだろうか? 政府による最後の抵抗として? そして各家庭のテレビ画面は真っ暗になるのか?
 こんなことを考えていたのですが、オカシイですかね? 英語の聴き取りなんていうのは一般的な流行歌でも中々わからないのに、こんな早口のポエトリーは僕にはまったくお手上げでした。ペラペラと何を言っているのか聴き取れないので、タイトルだけで上記のようなことを妄想していたわけです。

 この曲が発表された1970年ごろは、「革命」は現在にくらべて遥かに現実的なものとして語られていました。しかし、ついに革命は起きませんでした。半世紀ちかく経った現在もまだ起きていません。ところが、ここで饒舌に語るギルはどうやら「革命とは一体何なのか」を知っている様子です。
 それは誰が起こすのか? テレビ局は放送するのかしないのか? ワッツ暴動(1965年)のような都市部の暴動からスタートするのだろうか、それともキューバ革命のように農村部や山岳部のゲリラ戦から始まるのだろうか? 指導するのはブラックパンサーだろうかNOI(ネイションオブイスラム)だろうか?
 400年間苦しめられてきたアメリカ黒人3000万人を、誰がどのようにして解放するとギルは言っているのだろう? そしてその革命は、出口の見えないベトナム戦争に終止符をうつはずであるし、アメリカ合衆国の黒人のみならず、南アメリカの黒人や、さらには地球上すべての弱者を救済して理想郷をもたらすべきものである。それは一体どのようにして起こりうるのだろう?

 そして、一番重要なことは、僕たちとの関係性です。「ギルの歌う〈革命〉とやらはここ日本でも倣うことは可能なのか?」「21世紀の現代でも有効なものなのか?」ということです。
 それに、「革命はテレビで放送されない」とギルは言うが、インターネットはどうなんだ? テレビはダメでも、Youtubeでは放送されるのか、されないのか? Facebookでは革命は流れるの、流れないのか? ツイッターやインスタグラムでは? それとも、流石のギルスコットヘロンであっても、インターネットテクノロジー全盛の現代のことまでは予見できなかったのか? それとも彼の知性と洞察力は、半世紀が経った現代においても、僕たちが発するのすべての問いに答えてくれるものなのだろうか?

 前置きが長くなってしまいました。それでは次回から、歌詞の内容を、僕の分かる範囲でじっくり解説してみようと思います。そして上記のそれぞれの問いについて答えようと思います。


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『詩のこころを読む』より

 
 『詩のこころを読む』(茨木のり子著 1979年、岩波ジュニア新書)より、日本の文化についての指摘。
 〈第三章 生きるじたばた〉のなかの、金子光晴の詩「寂しさの歌」について語られている部分より抜粋。


 つづまるところ詩歌は、一人の人間の喜怒哀楽の表出にすぎないと思うのですが、日本の詩歌はこれまで「哀」において多くの傑作を生んできました。「喜」や「楽」にも見るべきものがあります。ただ「怒」の部門が非常に弱く、外国の詩にくらべると、そこがどうも日本の詩歌のアキレス腱ではあるまいか、というのが私の考えです。
(中略)
 さまざまな怒りはこの世に充満していますが、それを白熱化し、鍛え、詩として結晶化できているものは、多くの人の努力にもかかわらず現在でもいたって数は乏しいのです。遺伝的体質なのかもしれません。


 (「遺伝的体質」というのは、厳密な医学的な意味ではなく「民族的特質」とでも置き換えられるべきでしょう。念のため。)
 また、同じ箇所で、いちページめくると次のような記述があります。


 第二次世界大戦時における日本とは何だったのか、なぜ戦争をしたのか、その理由が本を読んでも記録をみても私にはよくわかりません。頭でもわからないし、まして胸にストンと落ちる納得のしかたができませんでした。東洋各国との戦争は侵略であることがはっきりしましたが、アメリカとの戦いは結局なんだったのか、原爆をおとされたことで被害国でもあり、全体は実に錯綜しています。そんなわけのわからないもののために、私の青春時代を空費させられてしまったこと、良い青年たちがたくさん死んでしまったこと、腹がたつばかりです。
 私の子どもの頃には、娘をつぎつぎ売らなければ生きてゆけない農村地帯があり、人の恐れる軍隊が天国のように居心地よく思われるほどの貧しい階層があり、うらぶれた貧困の寂しさが逆流、血路をもとめたのが戦争だったのでしょうか。貧困のさびしさ、世界で一流国とは認められないさびしさに、耐えきれなかった心たちを、上手に釣られ一にぎりの指導者たちに組織され、内部で解決すべきものから目をそらさされ、他国であばれればいつの日か良いくらしをつかめると死にものぐるいになったのだ、と考えたとき、私の経験した戦争(十二歳から二十歳まで)の意味がようやくなんとか胸に落ちたのでした。

(『詩のこころを読む』茨木のり子 1979年/岩波ジュニア新書 160-161ページ)

住所とギョウザ(岩田宏)

 

住所とギョウザ    岩田宏


大森区馬込町東四ノ三〇
大森区馬込町東四ノ三〇
二度でも三度でも
腕章はめたおとなに答えた
迷子のおれ ちっちゃなつぶ
夕日が消える少し前に
坂の下からななめに
リイ君がのぼってきた
おれは上から降りて行った
ほそい目で はずかしそうに笑うから
おれはリイ君が好きだった
リイ君おれが好きだったか
夕日が消えたたそがれのなかで
おれたちは風や帆前船や
雪のふらない南洋のはなしした
そしたらみんなが走ってきて
綿あめのように集まって
飛行機みたいにみんな叫んだ
くさい くさい 朝鮮 くさい
おれすぐリイ君から離れて
口ぱくぱくさせて叫ぶふりした
くさい くさい 朝鮮 くさい

今それを思いだすたびに
おれは一皿五十円の
よなかのギョウザ屋に駆けこんで
なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
たべちまうんだ
二皿でも三皿でも
二皿でも三皿でも!
          (『岩田宏詩集』)



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