カジノに集まる富は3万9000人の住民を潤さなかった。今でも失業率は全米10位、住宅の差し押さえ率は全米1位だ。(中略)この街にトランプをはじめとするカジノ業者が集まったのは、76年に州議会が同市に限定してギャンブルを合法化してからのこと。政治家はカジノ収益を州内の学校や道路の整備にあてると約束した。あの頃ギャンブルを認めていたのは西部のネバダ州だけで、アトランティックシティーは人口が多い北東部の大都市から近距離にあった。(中略)景気のよかった時代、カジノ産業で働く人たちには家族も含めた医療保険があり、退職金も当てにできた。だがトランプ以外にも倒産する会社が続出し、安定は失われた。昨年には数週間で6000人が解雇され、年間の失業者は約1万人となった。連邦政府は緊急の就職斡旋基金に3000万ドル近くをつぎ込み、ニュージャージー州政府は失業者の救済と職探しのための特別支援センターを設立した。「失業者の増加はトランプの責任と言いたいくらいだ」と元市長のウィーランは言う。(中略)どこでもそうだが、トランプのカジノもラスベガスをモデルに建てられている。窓のない洞窟のような空間にスロットマシンやギャンブル台が並ぶ。エスカレーターで入りやすいが、出口はなかなか見つからない。カーペット敷きの床をあらゆる方向に何百メートル歩いても日光を見ることはない。市内の観光名所や水族館、地元のレストランなどを紹介したパンフレットもない。なんだか気味の悪い世界だ。すべては顧客をカジノに閉じ込め、ギャンブルを続けさせるため。地域経済に及ぼすカジノ産業の影響を研究するリチャード・ストックトン大学の経済学教授エレン・ムタリに言わせれば「要するに巨大な箱」だ。「つまり『ここにいなさい、ちゃんと面倒見てあげるから』ということ。地域の産業にプラスの効果はほとんどない」(ニューズウィーク日本版2016年11月22日号より)
前投稿(その1)で、ギャンブルの本質は、「持たざる者を食い物にする」ということだと書きました。
それでも、もしかしたら「カジノはお金持ちが集まるところだから、お金持ちから取るのはエエんちゃうの?」という意見があるかもしれません。
たしかに、カジノといえばタキシードなどを着た紳士淑女がルーレットをやっているイメージがあります。(ただのイメージだけど。)
すこし前に、どこぞの大会社の御曹司が、たしか一晩にウン億もスッたというようなニュースもありました。さすがにタキシードは着ていませんでしたが、たしかに高価そうなジャケットやシャツを着ていました。
しかし、カジノは富豪が遊ぶところ、という印象は虚像だと思うのです。
実際には、カジノにはルーレットの横に大量のスロット台があって、そちらはTシャツを着た人々で埋め尽くされています。それが本当のカジノの姿です。
「御曹司がウン億もスッた」という話は、そこだけを見ると、あたかも「金持ちのバカ息子が恥をかき、カジノは儲かった」かのように聞こえます。しかし実のところ、その御曹司はギャンブラーなのですから、その「ウン億」のなかには「以前にカジノで儲けたお金」も含まれているはずです。大半は、前にでていったお金が帰ってきただけなのです。
つまり、本当の上客は、「ルーレット台を囲む富裕層」ではなく「大勢のスロット台の庶民」なのです。
カジノリゾートとは日本語で〈賭博場〉です。横文字にしただけです。なんら本質は変わりません。
要するに、大阪府は、または安倍政権は、〈大阪のおっちゃん達〉からカネをまきあげて財政再建しようとしている。〈中国から来た金持ち〉ではない。
カジノが開業して少し経ち、おっちゃん達が苦しみだした頃には、維新の議員がこう言うでしょう。「生活保護をもらってギャンブルをやっている人が多い。そんな人は救済しなくてよい」・・・ツイートが目に浮かびます。
(もちろん、その頃には維新なんて政党は、退治されて見当たらなくなっているよう切に望んでいますが。)
カジノをつくって、大阪が良くなる事なんぞ、本当に一つもないと思います。
(その3へつづく)
「IR法案」が衆議院にて強行採決されました。民進党ほか野党は、「ギャンブル依存症」という言葉を軸にして抗戦にでているようです。それも悪くないのだがすこしだけ筋が違うような気がしています。
カジノ・ギャンブルの何がいけないのか、その本質的な解明が足らないんじゃないか。
「ギャンブル依存症」だけを話題にしていては、問題を捉えきっていないのではないか。
「ギャンブル依存におちいってしまう意志の弱い人たちの問題」として問題が矮小化されているのではないか。
本当は、ギャンブルは、もっと恐ろしい、構造的で邪悪なものです。
ギャンブルの最大の問題点は、要するに「資産の少ない人ほどギャンブルをする。そして確実に損をする。」ということなのです。
これは、経済学(や心理学)で〈期待効用理論〉〈限界効用逓減の法則〉そして〈プロスペクト理論〉と呼ばれているもので、十分に説明しつくされていることです。だから、野党は、大学の先生を呼んできてレクチャーさせたらよいだろうと思います。
しかしながら、結局のところ、難しい数式をつかわずとも、誰でも知っているようなことです。第一に、競馬やパチンコにいそしむ人にお金持ちはいません。第二に、競馬やパチンコで儲けた人なんてどこにもいません。
つまり、賭博場とは、シンプルに「お金のない人から順番に、お金を巻き上げるシステム」でしかありえないのです。だからこそ、許してはいけないのです。
賭博を合法化すると社会全体は、もっとも弱い立場のものを犠牲にして収益をあげる吸血鬼となるのです。
公営のギャンブルとは、所得再分配という政府の本分の放棄であり、その真逆をいっています。
ギャンブルをすべて禁止する必要はないと僕は思います。しかし最低限の「娯楽」にとどめておかなければならないのです。
加えて、ギャンブルを積極的に肯定する社会は、人々の勤労意欲をそぎ、地域のモラルを著しく低下させることは言うまでもありません。
また、「おいしい話にみえるが実は確実に搾り取られる」という意味では、よく似たものに「ねずみ講」というのがあります。あれなんかは、一気に盛り上がって一気に消滅しますから、まだ可愛いほうです。一方、ギャンブルは、少しずつ人々を蝕むもので、ねずみ講と較べても輪をかけてタチの悪いものです。
ちなみに、このような馬鹿げたものを「成長の柱」「成長戦略の目玉」(Copyright 2014 安倍晋三)と呼んだ者がいます。情けなくて涙がでてきます。
(その2へつづく)
先日、興味深い一文にでくわしました。金田一春彦による日本人論です。以下引用。
日本の歴史を読んでいるとおもしろいのは、雄弁なことで評判の高かった人、というのは一人もいない。英雄というのは保元の乱の源為朝、征韓論の西郷隆盛など議論をすると負けてしまう方に人気がある。源頼朝の重臣だった梶原景時なんて人気がない。最近になって初めて、勝海舟が雄弁だったとか、福沢諭吉が演説上手だったとか評価されてきたが、戦前はそういうことがなかった。
(中略)
日本ではどうも弁論は好まれなかった。中国では張儀という人がいる。ギリシャではデモステネス。弁論によって一国の運命を救ったという人もいるが、日本にはなかなかそうした人は現れない。漱石の「坊ちゃん」なんかは、弁論のへたなことで代表的な人だろう。職員会議で立ち上がっても、一言もまとまったことを言えない。そこへいくと教頭だとか校長だとかはいろいろ言える。たぬきや赤シャツはべらべらしゃべるけれど、そういう登場人物は好かれない。坊ちゃんは言葉がダメとなると、暴力に訴える。あれはよくない。話が脱線するが、もしかしたらこの前の戦争のとき、「日本は外交がへただ。だからこのままでは向うの言いなりになってしまう。戦争なら日本は強いんだ。いっそ戦争という手段に訴えてしまおう」と思った上層部の人がいたかもしれない。そうだったら大変なことである。
金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(2001年)
要するに、いま世界で起こっていることは・・・
①冷戦の終結とIT発展
↓
②多極化・グローバリゼーション
↓
③一部企業の巨大化、国家の弱体化
↓
④格差の拡大
↓
⑤移民排斥運動・差別感情(いまココ)
ということらしい。
いささか分かりやすさに過ぎる俯瞰かもしれない。単純すぎるだろうか?
いや、もはや冷戦の終結から30年ちかく経っているのだから、これくらいシンプルに俯瞰できなくてどうする、という気はしている。
とにかく、トランプ現象、イギリスEU離脱、日本のネトウヨ現象、「日本すごい」、そして韓国や中国のことを悪くいうあの風潮、反知性主義・・・もはや、一言で説明できるだろう。
それは、格差の拡大が生んだ憎悪や苛立ちということだ。
本来ならば、次のようなチャートになって欲しかったのだ。
④格差の拡大
↓
⑤新しいリベラリズムの誕生
〈新しいリベラリズム〉って何やねん・・・。自分でも意味わからずに書いてます。
それは「大きい政府か小さい政府か?」と問われたら、大きいほうなるんだろうけど、でも、そんな「新しい国家像」なんて大それたものは僕にはよくわからない。
ただ、僕が大事だと考えることの一つは、「格差というのは不幸」ということだと思う。
人間にとって、貧しい(物質的に所有できない、消費できない)ことは必ずしも不幸とはかぎらない。不幸を感じるのは、不平等を感じたときにだと思う。
たとえば、とある先進国が大きな格差をもっており、とある発展途上国が格差のすくない社会をもっているとする。その先進国に住む低所得層家庭と、その発展途上国に住む中流家庭では、どちらが「幸せ」を感じることができると言えるだろうか? 前者のほうが高い所得があり、物価の違いもこえて高い生活水準をもっているとしても、「幸せ」なのは格差の少ない後者のほう、と考えるのはもはや少数意見ではないだろう。
だから、いわゆる新自由主義・トリクルダウン理論なんていうのは、(そもそもトリクルダウンは起こらないという議論もあるのだが、それ以前の問題として)「格差そのもの」が「悪」なのだと、僕は強く思う。
格差は「幸せな社会」への布石とはならない。「豊かな社会」へさえ役にたたない。格差は経済成長を促すことも無いばかりか、人々の心を蝕んでいくだけだ。
いま、世界の風潮、いや歴史は、あきらかにこういった古い考え方(格差社会を是とする新自由主義経済、および資本主義そのもの)を否定していく方向に進んでいる。
そんなわけで、要するに、その〈新しいリベラリズム〉と僕が勝手に呼んだものが確立されるのが先か、格差が生む差別感情の爆発が先か、そういう問題なんだろう。
* * *
大統領選挙をあさってに控えたアメリカでは、オバマは去り、サンダースは破れた。
日本に住むぼくたちは何をすべきか?
アメリカと違って、僕たちにはまだ日数がある。とにかく、民進党や共産党や社民党を、〈新しいリベラリズム〉の観点から、厳しく批判しながら、激しく応援すること・・・ではないだろうか。