「レボリューショナリー」について

 
 「革命(かくめい)」という言葉がありますが、それから想い起される人物といえば、チェゲバラや毛沢東であり、ストークリーカーマイケルやブラックパンサーであって、ひと昔まえであれば、とりあえず、「革命だー!」とか「革命をー!」とか叫んでおればそれでオーケーだろう、みたいな時代もあったのかもしれないのですが、いまの時代は、むしろそれと反対の風潮があるようで、トランプやら安倍晋三やらマクロンやら、それから橋下徹やら小池百合子やら極右政治家が、「変えてみせる!」とか「取り戻してあげる!」などと煽ることによって票をあつめて、それによって世界の平和が破壊されてゆくのをちょうど目の当たりにしているところで、まさかこんな奴らに暴れられてはたまったものではありませんから、こうなってくると「革命」よりも、とにかく十年か二十年くらい前に「戻す」ほうが急務だ、という感覚になっていて、そうなってくると、革命という言葉が、もはや魅力的でなくなってゆくのです。
 僕たちは今、そういう時代に生きているので、「革命!」などと安直に口にするのは避けたほうがよいのかな、なんて思ったりもするのですが、しかし、それこそが、世界的な潮流である右傾化にながされて左寄りの人達も一緒にすこし右へ移動しているという意味ですから、大問題です。一体どうしたものだと思っているところへ、真正面から革命をあつかっている、少なくともそのようにみえる、映画『ブラック・クランズマン』がやってきて、僕は字幕の監修というかたちで参加させてもらいました。
 この映画のなかで、「革命」という言葉を連発していて、主人公は、どうしようもない、寝ぼけている反革命の警察官なのですが、そのガールフレンドは革命家で、ストークリーカーマイケルを招聘して演説会をおこなったり、マイクロフィルムを覗いて戦前のリンチ事件について語り継ぐ会を催したり、ブラックパワーのデモを行っているところが描かれます。それが時代の要請なのかアナクロニズムなのか、わざとよくわからないかんじになっていて、それこそがまさに本作の問いかけているところのようです。
 革命なんていうと、民衆が武装蜂起をして政治家や軍人を殺してしまうようなものが想像されるかもしれませんが、僕が思うには、そしてスパイク・リーもそう賛同してくれるだろうと勝手に思うには、もっとも現実的でかつ最近に発生した「革命」は、一九六三年八月のワシントン大行進をピークとする「公民権運動」です。これは翌年の公民権法の制定という大成果につながったデモ運動でした。これを、革命と呼ぶのです。革命というのは、一回で終わりではなくて、たくさんのプロセスを経るもの、たくさんのプロセスで成り立っているもの、という考えかたです。そして、そのプロセスの一つ一つもまた、革命と呼ばれるんじゃないかなと考えているのです。
 ですから、たとえば、僕がバスのなかでお年寄りに席を譲ったとか、選挙の日に投票所へ出向いたりしたときに、「これも革命の一つだな」なんて心のなかで思っちゃったりしているわけですが、しかし、そんな大人だったら当たり前のことをわざわざ「革命」なんて呼んでいることが他人にバレてしまうと、ものすごく恥ずかしいでしょう。革命と呼べば大袈裟になっちゃうものについては、《まともなことをしました》《良いことをしました》くらいで適当です。しかしそのような、素朴な言葉だと、よい意味でもわるい意味でも、言葉の範囲が小さすぎて、日常の「良いことをする」こそが革命の一部にほかならないということを、僕自身が忘れてしまいそうで、そうなると、一番最初に書いたようにこの大きな資本主義に他分にもれず飲み込まれていくようで、なんとかして別の言葉をつかって上手く言い表すことができないかなあ、と考えているわけで、そうすると目の前には、〈レボリューショナリー〉という言葉がある。つまり、「革命」に「的」をくっつけて、〈革命的(かくめいてき)〉ということである。つまり「レボリューション」というのは、本当は恥ずかしがってはいけないのですが、やはり恥ずかしいので、そういう理由で「レボリューショナリー」と呼んだのかどうか知りませんが、とにかく、いちおう、僕の思っていたモヤモヤをさらりと拭いさってくれる。
 「あの映画はレボリューショナリー」とか「けっこうレボリューショナリー」とか、「レボリューショナリーなところとカウンターレボリューショナリー(反レボリューショナリー)なところ」などというふう使えて、これは非常に良いと僕は思った。効果的だと思った。なぜそれが効果的なのかという理屈をほかの用語で説明してみると、たとえば、なにかを讃えたりするときに「素晴らしい!」なんていうのですが、この「素晴らしい」は、あまりにも自分も他人も、常日頃から連発しているので、手垢がついている訳ではないけれど、やはり、もっといい言葉があったはずだ、と悔しい気分になる。しかし小難しい言葉を使うと、実直な美しさが逃げてゆくようなので、少し違った戦法にでることにして、たとえば、「もしかして、本当に素晴らしい物ってこういうものかもしれません。」とかなんとか、わざと一歩さがってみることによって、むしろ真に迫るんじゃないか、みたいな、すこし小賢しいことかもしれないけれど、そういう雰囲気で、闘うツールになるんじゃないか、みたいなことです。
 くりかえしになりますが、そういうことで、レボリューションと云うほうが本当はレボリューショナリーなのですが、レボリューショナリーと云うカウンターレボリューショナリーな言葉のほうが今はレボリューショナリーではないか、いやちがった、レボリューションではないか、ということです。



I WISH I KNEW HOW IT WOULD FEEL TO BE FREE by NINA SIMONE, 1967




わたしが知りたいこと
自由ってどんな気持ちか
わたしが断ち切りたいもの
この絡みつく鎖すべて
言えるようになりたいこと
言ってやりたいことすべて
全世界に届くよう
きっぱりと大きな声で

分かち合いたいこと
この心にある愛すべて
どけてしまいたいもの
私たちをはばむ柵
あなたに知ってほしいこと
私にとって私とは何か
それが分かれば賛成してくれるはず
すべての人が自由であるべきって

いつか渡せるようになりたい
ずっと渡したいと思っていたもの
いつかあんな風に暮らしたい
ずっと暮らしたいと思っていた風に
いつかできるようになりたい
私にできることなら何でも
ずいぶん経ってしまったけれど
いまこそ始めたい

いつか成ってみたい
空をまう鳥のように
さぞかし愉快でしょう
わたしも空を飛べたら
太陽めがけて舞い上がって
見おろせば大海がひろがる

わたしは歌を歌う
わたしは歌を歌う
自由がどんな気持ちか、分かる
自由がどんな気持ちか、分かる


I wish I knew how
It would feel to be free
I wish I could break
All the chains holding me I wish I could say
All the things that I should say
Say 'em loud, say 'em clear
For the whole round world to hear

I wish I could share
All the love that's in my heart
Remove all the bars
That keep us apart
I wish you could know
What it means to be me
Then you'd see and agree
That every man should be free

I wish I could give
All I'm longing to give
I wish I could live
Like I'm longing to live
I wish I could do
All the things that I can do
And though I'm way over due
I'd be starting anew

I wish I could be
Like a bird in the sky
How sweet it would be
If I found I could fly
I'd soar to the sun
And look down at the sea

Then I'd sing 'cause I know
Then I'd sing 'cause I know
Then I'd sing 'cause I know
I know how it feels
I know how it feels to be free
I know how it feels
I know how it feels to be free





YOUR DADDY LOVES YOU by GIL SCOTT-HERON, 1974

 
YOUR DADDY LOVES YOU by GIL SCOTT-HERON, 1974



Now sweet lil ol' brown eyes girl, hey now
Now that you're sleeping
I've got a confession to make
Of secrets that I've been keeping
Me and your mama had some problems
A whole lot of things on our minds
But lately, girl, we've been thinking
That we were wasting time, nearly all the time, and...

Your daddy loves you
Your daddy loves his girl
Your daddy loves you
Your daddy loves his girl, hey now

Now sweet lit ol' chocolate girl
Now that you're sleeping
I feel braver, I've got a confession to make
I'll sneak it in while while you're dreaming
Me and your mama had some troubles
There's been a whole lotto thing on our minds
But lately when we look at you
We know that we've been wasting time
Damn near all the time, and...

Your daddy loves you
Your daddy loves his girl
Your daddy loves you
Your daddy loves his girl, hey now

Your daddy loves you
And your momma too
Your daddy loves his girl
Your daddy loves you




映画『パラサイト』

 
『パラサイト』は、なかなか良かったと思いました。
星は三つ半くらいでしょうか。いや、三つくらいでしょうか。
面白かったと思うのですが、アカデミー賞作品賞などといって大フィーバーするほどのことでも・・・と思うのですが。そこが問題です。

ジョーダンピールの『US』や『ゲット・アウト』に類して、寓話的というか、よーするに「世にも奇妙な物語」みたいな。
それもよいのですが、それだけだったらテレビで30分くらいで描けてしまうやん、となります。したがって、本編のさいごで、豪雨がやってきて貧民街のほうへ水が流れおちてゆくシーンなどが重要になってくる。迫力がありました。あの水はなんだろう・・・。逆トリクルダウン。「うえから落ちてくるのは、泥水ばかり」。

そういえば、もう七、八年前になるけれど、NHKスペシャルでこんなのをやっていました。
日本人のIT長者がシンガポールに住んでいる。税金がすくないから。フェラーリに乗って朝食を食いにいく。朝飯のために1時間も車をとばして隣のマレーシアまで行く。そこで一杯数百円のラーメンを食べる。
核心をついたレポートでした。
富はうえから落ちてこない。
企業が潤えば国全体が潤う、というのは、政府も一緒になってまき散らした大嘘なのだ。
そんなこと最初から分かっていたのに!
『パラサイト』も『ジョーカー』も『US』もいいけれど(僕は『万引き家族』観ていません・・・。観ます!)、そんな、フェラーリで数百円の朝飯を食いにいく鬼畜の映画をつくってもいいんじゃないでしょうか。

さて、映画で一番印象に残っているのは、ソンガンホ演ずるお父さんがリビングルームから脱出するシーン。社長と社長夫人が寝ている傍のテーブルの下に隠れていて、そこから匍匐前進(ほふくぜんしん)で、逃げる。
ハラハラさせられる。
なぜか分からないけど、ひさしぶりに映画を観てハラハラドキドキさせられた。子供のころには、映画とはそういうものだった気がするのだが、最近は少ない。僕が大人になってしまったからだ。
このシーンで、監督から「ほらね、映画ってこんなに楽しいものでしょう? こういう要素もなければ映画っぽくないよね」と優しく語りかけられているような気がして、とても有り難い気分になった。
ただただ居間で中年男が身体をひきずりながら前に進んでいるだけのシーンなのに、何億円もかかっている戦争映画のような大スペクタクルを連想させる。
きっと、わざと、そうしてるんだろう。娯楽映画というものを斜に構えて皮肉をまじえて提示しているのだろう。そんな気がしました。

ピザの箱を組み立てている貧困家庭。IT長者の富裕家庭。さらに一番下の、見えない階層にいる夫婦。みんな同じく「家族」なのに、収入が極端に違う。階層が違う。階層は固定化している。 さいごのホームパーティでの惨劇はよくできていた。
クライマックスで、ついに登場人物が全員、一同に介する。映画あるある。

僕がひっかかっていることを書きます。
それは「アメリカ」です。それから、子供が気に入っている「アメリカ製のインディアンのおもちゃ」です。
この映画は、徹頭徹尾、アメリカを賛美している。もちろん、これはアメリカを批判する映画です。でも、ほめ殺しというのか、とにかく持ち上げている。
友人がアメリカに留学する。兄は英語の家庭教師。妹はシカゴ大学の研究者を偽る。富裕家族はカタコトの英語をしゃべっている。
この三家族が示している階層の、そのまた上にアメリカ合衆国という資本主義(狭義には新自由主義経済)の親玉が控えていることを示している。
僕が納得のいかないのは、そのアメリカを悪玉として提示していないじゃないか、ということです。 この映画ではアメリカは善とも悪とも定められていない。
不気味に、姿をあらわさないが、すべてを支配している全能者として映画の基調を成している。

だから、この映画をアメリカ人がみたら、悪い気分はしないと思うのです。
必要もないのにアジア人が日常で英語をつかっている。やはり、立身出世して特権階級に居続けるには英語だ。
「アメリカに行くことになりました」とか「アメリカから来ました」というだけで、人々がひれ伏す世界を描いている。
やっぱり、アメリカ人がみたら、胸くそが悪くなる映画をつくらなくてはいけなかったのじゃないのか? もちろんそれは監督のセンスです。でも、そういう批判もあってしかるべきだと思います。 そしてこの映画はなんとアカデミー賞を獲得しました。
そんな間の抜けた、恥ずかしい話があるか、と思う。
アジア人がアメリカを賛美している映画をつくって嬉々として賞を受け取る。
(どちらとも言っていないが、どちらとも言っていないならこの場合、「賛美」と誹られても言い訳できないでしょう。)
いや、もしかしたら(たぶん)、アカデミー賞を狙って製作されたのが本作なのではないか。
映画業界のことなんて分からないけれど、製作会社だってアカデミーだって、みんなボンクラじゃないのだ。僕はそのように訝しく思います。
それならば、こんな恥ずかしい映画があるか、ということになる。
いや、ちがった。そんな映画しかアカデミー賞をとることが出来ないということでしょう。

肝心の「インディアン」の話をします。
この映画では、富豪の息子がキーパーソンになっていますが、彼は、二つの貧困家庭を見ることができる、目に映るという存在です。両親は、成功した大人なので世の格差社会に目をつぶっていますが、子供はそのような悪いしぐさが身についていないのでしょう。
その彼が「インディアンごっこ」をします。それは何を表しているのでしょう。
まずオカシイと感じるのは、やはり、インディアン(アメリカ先住民)がステレオタイプで描かれていることです。羽飾り、テント、弓矢など。現代のインディアンの視点が抜け落ちている、侮辱的ともいえるものです。これは、差別や格差社会をとりあげている映画としてまったくふさわしくない。
監督や製作者は、アメリカで成功しているアタマのいい人たちなのですから、そんなことは十分承知しているでしょう。つまり、わざと、でしょう。それは何故か?
この作品が、富か階級というものによって人間の価値や命のゆくえが決まってしまうことを批判している映画なのであれば、インディアンは一体何を示しているのか。
侵略される者のメタファー・・・? アメリカ資本主義に蹂躙される韓国をあらわしている・・・? 誰だって、まずはそれを疑うでしょう。でも、そんな単純な風にも見えません。もしそうなら、がっかりもいいところです。
インディアンごっこをする息子は、なにかしら両親に対して、反抗・反逆ののろしをあげている様子です。
しかし、彼は富豪夫婦の子供なのですから、結局なにも出来ませんし、しません。
しかも「アメリカ製のおもちゃ」という但し付きです。なんじゃそりゃ。馬鹿にされたような気がします。

上記を重ね合わせて思えば、このインディアンのおもちゃは、この映画そのものを表しているという気はします。
つまり「アメリカ製のおもちゃ」が「アメリカを批判する」けれど「もちろん歯もたたない」。そもそも、「戦う気があるのかどうかも分からない」。なにせアカデミー賞狙いの本作です。
だからこそ、つまり、わざわざステレオタイプでトンチンカンな、批判するほうも腰が砕けるような、自嘲のメタファーになっているのではないか。
なんだか、『ブラック・クランズマン』のときと同じ、「映画はアカン」みたいな話になってきた。どうなんだろう。


「安倍総理が責任をとらない。」

 
昔から云われていることですが、とにかく、日本では「責任」という言葉の意味がさだまっていないのではないか。
そこに問題があるのではないでしょうか。

「責任をとる」ってどういう意味だろう?
「責任をもつ」ってどういう意味だろう?
それから、「あやまる」ってどういう行為だろう?
「許す」ってどういう意味だろう?
「許さない」ってどういう意味だろう?
「つぐなう」ってどういう意味だろう?
「保障」とか「保証」とか「補償」とか・・・どう違うんだ?
これがいつもぼやけています。
だから、誰も責任をとらないし、誰も責任を持たないし、責任がどこにあるのかも分からない。
責任とは何か、が分からないので、責任のとりようがない。
なにを謝っているのか分からないまま、みんな謝りつづけている。
反省も補償も誓いも無くたって、謝っている人は許さなくてはいけない。
または、一生懸命あやまっているのに、なぜ弁済させられるんだと腹をたてる。

こんなのばっかり。
「責任」という、この使いづらい外来語の意味を、誰かが決めてくれなくては、日本はいつまでたっても、この状態だと思います。
もっとも責任をとらない人間が、もっとも責任の重い場所にいる。
上にいけばいくほど責任は重いはずなのに、いつだって責任は下へ下へと送られる。
それは、安倍晋三にかぎったことではなくて、官でも民でも、上から下まで、いたるところで散見される話です。

「責任をもつ」というのは、その人がそれをやる、という意味です。
「責任をとる」というのは、本来は、ひきおこされた損失をその人がひきうける、という意味です。

責任をもつ、つまり「依頼されて、その人がそれをやる」っていうことが何より大事なのです。
首相だったら、国民の依頼にもとづいて行政府の長として様々な職務をおこなわなくてはいけない。
それが出来ない場合は交替しなくてはいけないのです。
でも、みんな「やる責任」の話はせずに「とる責任」の話ばかりする。なぜだろう。
「だれが責任をとるんだ!」とか「責任をとれ!」とか。
「なにかあったら責任をとれません!」とか。
「責任をとれば済むということではない。私には責任があるのです」などとわけのわからないことを言うやつもいる。
(日本人は、やっぱり、究極的には切腹が好きなんだろう。謝ってタダでおわらせるか、死してお詫びするか、頭のなかに二択しかないんだろう。)

で、どうなるかというと、誰も「責任のとりかた」が分からないので、誰も責任をとらない。
誰にも分からないので、誰かが謝ったら終わりになってしまう。
反省がない。同じことをくり返す。

僕は「責任をとる」なんか、無くていいと思う。
失敗したら、やめさせる人がやめさせるなり、減給させる人が減給させるなり、すればいいだけだ。
その責任をもつ人がそれをやらないから問題なのだと思う。

「謝る」の意味だってそうです。
この言葉の意味不明さに、そろそろ、日本じゅうがモヤモヤしてるところなのではないのか。
謝るのは、悲しいという気持ちを伝えることです。
謝ればそれで済むということになっている。
でも本当の「謝る」は、弁済や誓約とセットでないと成立しません。
感情として悲しいと口では言うが、行動としては何もしないし、何故それがおこったか分析も反省も理解もない、誓いもない、では子供の遊びです。
でも、ふつう、その先にはいわゆる逆ギレがある。「ではどうしろと!?」となる。
これが日本文化の迷路。「ゴメンナサイ論」。「責任論」。

ひょっとして、企業研修で、迷路の答えをしっかり教えたら効果あるんじゃないの。
そうしたら、会社の組織も強化されるだろうし、外国企業ともやりあえる力がつくんじゃないか。
それが日本をおおっているモヤモヤを取り払う、てっとり早い方法だろう。
本当は、企業研修なんてやってる場合じゃないけど。

結論としては、安倍晋三とは、「責任をもつ」という近代的な能力はまったくない男であり、「責任をとる」というサムライ精神のかけらもない男なのである。


マスクとスマホ。

 
マスク二枚でみんな怒っています。僕も怒り心頭です。
唐突かもしれませんが、マスク二枚で思うのは、これってスマホちゃうん・・・みたいな。
なんか、似ています。

映画『パラサイト』の冒頭で、スマホの電波をたぐっている兄と妹が描かれていました。
たいへんな貧困のなかにあっても、スマホは持っていて「世界とつながっている」「大量の情報を取得できる」という環境にある。・・・それは、僕たちがやったことではなく、誰かがやったことなのだ。
やっぱり思うのは、産業革命が貧富の差を生んだように、IT革命が貧富の差を生んでいるんだろうと思います。

マスクを配っておけば、あとは自己責任で、みたいな。
スマホさえ行き渡っていれば、あとは自己責任で、みたいな。
つまり、収入がすくないときにそれは自分の責任だと思い込む。
本当は景気や経済政策など、さまざまな大きな要因(なにより大きな格差)のなかに生きているのに。
情報はある。だから、瞬発的に行動して収入につなげることのできない各個人がわるいのだと。
本当は情報なんて無いし、情報があってもどうしようもないことだらけなのに。
そこを悪用しているのが、ホリエモンとか橋本徹とか、そういうたぐいの輩だと思います。
おれが教えてやるよ、とカモに拝金教みたいなのを広めている。

スマートフォンを使っていることは悪くないのです。
もちろん、僕もスマートフォンを持っています。
スマホに反対することとスマホを使用することは、矛盾しません。たとえて言えば、何パーセントかは原子力発電でつくられた電気を毎日つかっている人が、「原子力発電反対!」と訴える。それは当然のことです。
あ、そもそも、マスクの配給に反対しても、そのマスクを装着するのは悪いことであるはずがありません。

マスクはスマホだ。スマホはマスクだ。
そういえば、スマホを格安にしたのはスガ官房長官でしたか。同じような理屈でしょう。

でも、マスクに対しては、国民は怒っています。
当然です。あまりにもバカにされたもんだと。
いつか、人々がスマホに怒るときがくると思います。100年後くらいに、そういう時が来ると思います。
産業革命や都市化が貧富の差を生んだことを100年くらい経ってから怒ったように。
・・・もちろん、いま怒るべきだけと思うけど!


映画『US』

 

image_US.jpg

僕は『US』はとても良かったと思っています。
星はいまのところ、四つくらいかな。いや、三つ半くらいか。
なにが良かったって、ラストの空撮がよかった。はるか向こうのほうまで繋がっているのです。
革命です。あれを見て、1963年のほうを思い出す人のほうが多いでしょう。86年のほうではなく。
むろん、63年のほうはヨコ一列でなくて、もっと幅のある行列のかたちをしていました。
だからフォームがちがいます。でも、やっぱり、63年のほうを思い出さなくてはいけないのだと考えます。
63年のほうを思い出して、どこが違うのか、を考えることが重要なのだと思う。
訴えの内容はどう違うのか?
規模や効果はどう違うのか?
なにより、五〇年まえとくらべて、前進しているのかしていないのか?

このさい、86年がどうだったかなんて、とるに足らないことなのです。
それは監督が子供の頃に体験したもので、よくもわるくも脳裏に焼き付いているのでノスタルジーとして、小ネタとして、オタクごころで、採りあげただけなのでしょう。
80年代のほうも、それはそれなりの成果があったはずです。それは素晴らしいことだと思います。
でも、いまや、反省したり、乗り越えるために存在するものであって、わざわざ讃える必要はありません。
僕はそう考えます。あれは物語の中心ではあるが、ネタとしては小ネタにすぎないと。
あれを入り口として観る者に考えさせるための小道具にすぎません。

この映画は欠点も多い。一番おおきな問題点は、革命がカタストロフィックに描かれていること。暴力革命であることです。赤い者たちが人を殺してまわっている。赤い者たちは、怖がらせるのは上手だけど実際には人に手をかけない、という存在であるべきではなかったか。非暴力革命にしなくちゃいけないのに。
いくらコメディでも、暴力革命を描いてしまえば、それはただの映画、つまりエンターテイメントになってしまいます。
(この点で、『スウィート・スウィートバック』は秀逸だったのです。実際の革命がおきるところまで行かずに映画が終わってしまうので。)
そういえば、『ジョーカー』は、おなじく、格差問題を描く映画でしたが、あちらは暴動を描いた映画でした。暴動を描くならそれはそれで良いと思う。暴動は起こるものであるから。「暴動寸前だぞ」と警告のメッセージは悪くなかったと思う。
『パラサイト』は、革命の話ではなく、いち家庭のサバイバルのはなしだった。最後にお父さんが暴発してしまいます。なんとか警察からは逃げのびるけれども、いくらもがいても最終的には階級構造のなかから抜け出せないことを示していました。(ラストで描かれる息子の救出劇は「不可能な妄想」だと思います。「希望を描きたいけど希望が描けないという希望」ということでしょう。)
『US』は、革命の映画です。ならば革命を描かねばならなかったと思います。でも、やっぱりエンターテイメント映画だった。いや、言い方がちがう。エンターテイメント映画のなかに革命を描き込むのが中途半端だった。

ホラーと思わせておいてコメディ。
コメディと思わせておいてレボリューション(レボリューショナリー)。
そこまでやってほしかった。
たしかに最後の空撮は、カッコよくて、爆笑で感動だったのだけれど。
『スウィート・スウィートバック』なら、
ポルノと思わせておいてアクション。
アクションと思わせておいてレボリューション。
そんなふうが良いのではないでしょうか。

さて、この映画の素晴らしいところはなにかというと、このタイトルが『US』というところです。
つまり「抑圧されている人々は、わたしたちである」と言っているのです。
「あの人とわたしで、わたしたち」という意味ではなく、「あの人たちはわたしたち」すなわち「あの人はわたし」という意味です。
映画の評論では「ドッペルゲンガー」とか「デカルコマニー」とか云うのを耳にするのですが、そんなのは演出の問題なので、ほんと、どうでもよいのです。メッセージが薄れてしまうだけのような気がします。もし監督がそんなのにこだわっているのだとしたら(すこしその様子があるが)、僕はがっかりです。

これは、このブログでも前に採り上げたステイプルシンガーズの曲「RESPECT YOURSELF」とまったく同じフレージングです。「あの人は自分自身なんだよ、あなたが自分自身を大切にできないなら、いったい誰があなたのことを大切にしてくれるの?」という歌でした。つまり、(アメリカ黒人の)団結をうたっています。団結という言葉をひっくりかえしているわけですね。
この歌は、基本的には、アメリカの黒人どうしは「自分自身どうし」としていたわり合わなければいけない、という意味なのですが、これは「おなじアメリカ人」でもよいし「おなじ人間」でも構いません。また、「おなじ労働者」でもかまいません。
http://osakamonaurail.com/nakata/2017/06/respect-yourself-1971.html

「団結」や「連帯」という言葉とほぼ同じなのですが、その先をゆくような意味でしょう。「他人だけれども手をつなごう」も「あの人はじつは私自身」も「個人として尊重される」も、結局のところおたがいに矛盾しないのです。
僕は、たまたま、ここに生まれただけなのだ。あの人だって、たまたま、あそこに生まれただけなのだ。僕はあの人なのだ。

この映画『US』は、アメリカ黒人の解放の映画ではなくて、アメリカの格差社会のことをテーマにしています。だから「US(アメリカ合衆国)」なのでしょう。「おなじアメリカ人なのだ」という意味です。
言うまでもなく、日本に住む僕なんぞから見れば、それは視野が狭すぎるやろ、と思ってしまいます。
しかし、理屈は間違っていないといえるでしょう。「アメリカ人は手をとりあおう。」「世界中の人たちは手をとりあおう。」いや、手をとりあおうどころか、もともと一つだった(またはこれから一つになる)自分自身なのだ、ということです。

クローン人間がどうのこうの、みたいな設定はげんなりしましたが、ラストシーンの絵柄だけが僕の心にのこっています。それから、最初に、夜に攻めてくるときの時点で家族が手をつないでいるのが良かった。何回みても笑いがこみあげてきます。

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