音楽と関係ある度:★★★★★の最近のブログ記事

WHAT'S GOING ON(マーヴィンゲイ 1970年)

 

"WHAT'S GOING ON" by Marvin Gaye, 1970




ねえ母さん おおぜいの母親が涙を流してる
なあ兄弟  おおぜいの若者が命を落としてる
いまこそ慰めの心を広められないのかな

ねえ父さん 落ち着いて話し合おう
戦争したって意味がない
憎しみに対抗できるのは愛だけだから
いまこそ思いやりの心を広められないのかな

デモの隊列 デモのプラカード
警察は暴力をふるわないで
耳を傾けてほしい そうすれば分かる
何が起きているのか
何が起きているのか

ねえ母さん 若者は何も分かってないって云うけど
髪型だけで人を判断するほうこそオカシイよ
もっとお互いを理解できるようになれないのかな

デモの隊列 デモのプラカード
警察は暴力をふるわないで
耳を傾けてほしい そうすれば分かる
何が起きているのか
何が起きているのか(教えてよ)
何が起きているのか(教えてあげる)
何が起きているのか
そうだ そうだ


Mother, mother, there's too many of you crying
Brother, brother, there's far too many of you dying
You know we've got to find a way
To bring some loving here today

Father, father, we don't need to escalate
You see, war is not the answer for only love can conquer hate
You know we've got to find a way
To bring some loving here today

Picket lines and picket signs (Sister, sister)
Don't punish me with brutality (Sister, sister)
Talk to me, so you can see
What's going on
What's going on

Mother, mother, everybody thinks we're wrong
But who are they to judge us simply because our hair is long?
You know we got to find a way
To bring some understanding here today

Picket lines and picket signs (Mother, mother)
Don't punish me with brutality (Mother, mother)
Come on and talk to me, so you can see
What's going on
What's going on
Tell me what's going on
I tell you what's going on
Right on, right on



『ジェームズ・ブラウン 最高の魂を持つ男』
を10倍たのしく観る方法(五回シリーズ)

第一回 ボストンガーデン事件


 ジェイムズブラウンのキャリアの中で、最もモニュメンタルな日といえば、やはり1968年の4月5日(金曜日)でしょう。なにしろ、この日の出来事だけに焦点をあてたドキュメンタリがあるほどです。そのドキュメンタリ『The Night James Brown Saved Boston』(ジェイムズブラウンがボストン市を救った日)はDVDで入手可能です。




 当然、この日のことは、『最高の魂をもつ男』でも採りあげられ、なかなか精巧な再現シーンがくりひろげられます。途中のジェイムズブラウンの演説は、一字一句がかなり忠実に再現されていますから、その再現性をお楽しみください。


 1968年4月5日、何があったか? この日は、アメリカ史上もっとも大規模な黒人暴動が、全米の各都市で大発生した日でした。それは、前日の4月4日木曜日の午後六時、キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されたからです。その暴動で「各都市が"焼け落ちた"」と言われたくらい、たいへんな日だったのです。


 「非暴力」を掲げて、アメリカ黒人の希望を一身に背負っていた指導者、キング牧師までもが凶弾に倒れたとなると、「もはや白いアメリカと黒いアメリカが《融和》することなど絶望的だ。アメリカに未来は無い」と当時の人々(とくに黒人)は誰しも思ったでしょう。
 かくして各地で暴動がおこります。怒れる黒人や、その空気に便乗した黒人の子供が街にでて、放火したり強奪をしたりしてしまうのです。

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 しかし、なんと、マサチューセッツ州ボストン市だけは暴動が発生しなかった、というのです。その日、4月5日は、黒人エンタテイメント界のスーパースター、ジェイムズブラウンの一行がアリーナ「ボストンガーデン」で公演を予定していたのです。

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 キング牧師暗殺の知らせを受けて、ボストン市長・ケビンホワイトは公演の中止を要請します。まさに非常事態ですので当然の行動だったでしょう。しかしジェイムズブラウンは、「間違っている。もし公演を中止したら、すでにチケットを買ってショーを楽しみにしていた子供達がストリートに飛び出て、さらに暴動が大きくなるに違いない」と主張します。だから、公演をそのまま行うことが、ボストン市のためになるし、子供たちのためになる、黒人コミュニティを守ることになるし、市長の利益にもなる。当然ながらジェイムズブラウンのためにもなる、というわけです。

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(写真左から:市会議員トムアトキンス、JB、ボストン市長ケビンホワイト)

 果たして、公演は、市長の同意を得て、開催されました。しかもテレビで生中継されました。(だからテープが残っていて僕たちは現在このコンサートを見ることができる。)子供達は家にとどまってテレビを見るように、という考えでした。さらに、このことは最終的には色々な意味で大成功して、その晩はずっと朝まで数回にわたって同じコンサートを再放送し続けたのでした。

ボストン公演より。「Cold Sweat」を歌うJB。

見せ場のひとつ。クライドスタブルフィールドのドラムソロ。

 「色々な意味で大成功して」と書きました。市長とブラウンを仲介した市議会議員のトムアトキンス(写真左)は立役者として手柄をたてたし、ボストン市長はテレビで黒人の家庭に向けて演説をして、「黒人に親和的な市長」を印象づけました。ジェイムズブラウンは市長のことを紹介するとき、「Swingin cat(ノリのいい野郎)」と言って、煽りました。ホワイト市長は非常時に乗じて黒人票を獲得したわけです。そしてジェイムズブラウンは「(アメリカの各都市で州兵が出動していた事態だったのに)一人で暴動を鎮めた男」として記憶されるにいたったのです。

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映画『最高の魂を持つ男』における再現シーンではチャドウィックボウズマンが熱演。

 さらにコンサートの最中に、事件が発生します。正確に言うと、「大事件が勃発しかけた」のです。
 コンサートの後半、子供達がステージに飛び乗ってきたのです。それだけなら、JBショーで珍しくない光景だったでしょう。ところが、その子供を警官が突き飛ばしたのです。その日は特別に多くの警官がステージ脇で構えていました。「白人の警官が黒人の子供を突き飛ばしている」という映像がテレビに流れてしまいました。これは最悪です。暴動をストップさせるどころか、テレビを観ている子供たちに「外出して警察に石を投げろ」と言っているようなものです。
 そのあとどうなったか、実際の映像でお楽しみください。


 どうして良いか分からず過剰に反応する警官を、ジェイムズブラウンが制止します。「オーディエンス 対 警察」の大惨事となることを避けるためです。自分の意思で子供たちが席に戻るところをテレビで放送しなければならなかったからです。

 この記事の最後に、この歴史的なやりとりのジェイムズブラウンの言葉を書き出してみました。英語としては易しいですが、なにぶんジェイムズブラウンは聞き取りにくいので......。とくに「We're Black! Don't make us all look bad.」(俺達は黒人だ! カッコ悪いところを見せるんじゃない。)というところ。雰囲気を味わっていただければ幸いです。

(ちなみに、少し違いますが、『Wattstax』におけるルーファストーマスも同じようなことになってましたね。似たような言葉で皆をなだめるところにアツいものを感じます。)


 いかがでしたか。これが「ジェイムズブラウン」のクライマックスのひとつです。そしてこれは「終わりの始まり」でもありました。ジェイムズブラウンは、「暴動を止めた男」としてさらに大きくなってしまい、「アメリカで最も影響力のある黒人」として祭り上げられました。そして彼は、権力から恐れられ、利用され、捨てられた、と言ってよいと思います。国税庁からの追徴課税の問題はこの年(68年)に始まり、68年暮れの大統領選の民主党支持、1972年の共和党支持を経て、最終的には70年代半ば、国税庁(IRS)から450万ドルの課税で告訴されます。そうしてジェイムズブラウンは葬り去られ、長い冬の時代を迎えることになりました。不屈の精神で返り咲く1980年代中期まで。

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LOOK誌1969年2月号 ジェイムズブラウン特集「彼がアメリカで最も重要な黒人なのか?」

   *   *   *   *

(書き起こし)
Wait a minute. I'll be alright. I'll be fine.
I'm alright. I'm alright.

Do you wanna dance? Dance.

Wait a minute. They are alright. That's alright.
It's alright. It's alright.

Wait a minute. Let me finish the show for everybody else, alright? 
Let me finish the show for everybody else, okay?
Okay fellows. Thank you very much. Thank you.
Let me finish the show. Come on, everybody wanna see the show.
Well, go down now. Go down, fellows.
Wait a minute, we got a show for you, young men and young ladies.
wait a minute. Now, wait!
Ladies and gentlemen, wait a minute! Wait!
Can I please have your attention.
This is no way. We are Black. We are Black!
Now wait a minute.
Can't y'all go back down and let's do this show together?
We're Black. Don't make us all look bad. 
I'm doing a show. Come off the stage.
Sit down now. Be a gentleman.
Now, all of you. wait a minute, wait a minute, son.

Why you're up here? Do you wanna see the show?
Why don't you go down, son, and let me do the show.

No, that's not right. 
Let's represent our-own-self. Let's represent our-own-self.
Step down. No, no, that's not right.
You're making me look bad because I had to ask the police to step back, and you wouldn't go down.
No, no, that's wrong.
You're making me...
You're not being fair to yourself and me either.
You're not being fair to yourself and me at all your waste
I asked the police to step back because I think I could get some respect from my own people.
Don't make sense.
Now we are together, or we ain't?
Get that thing, man...

おい待て 俺なら大丈夫 俺は大丈夫
俺は大丈夫 俺は大丈夫
踊りたいのか? じゃあ踊りな
おい待て こいつらは大丈夫だよ 問題ない
大丈夫だと言ったら大丈夫だ

待ってくれ ショーの続きがある
ショーの続きを観たいんだろ
みんな ありがとう ありがとう
待ってくれ ショーをやらせてくれ お兄さん お姉さんも
待ってくれ おい 待って
紳士淑女の皆さん 待ってくれ おい!
頼むから俺のことを聞いてくれ
おかしいぜ 俺達は黒人だろ? 俺達は黒人だろ?
おい 待ってくれ
おい席に戻って ショーを一緒にやりなおそうぜ
俺達は黒人だろ? こんなのカッコ悪いぜ
ショーをやるんだ ステージから下りてくれ
席に戻って 大人しく
みんな 待ってくれ 待ってくれ
君は何故ここに上がってるんだ? ショーを観たいんだろ?
下りてくれ ショーをやるから
こんなの間違ってる
黒人のいいところ見せようぜ 黒人のいいところ見せようぜ
早く下りてくれ こんなのは間違ってる
俺は恥をかいちまったぞ
警察に下がってもらったのに 今度はお前達が言うことを聞いてくれない
こんなの間違ってる
自分自身を傷つけてるぞ 俺も傷つく
自分自身を傷つけてるぞ 俺も傷つく なんの得にもならない
同じ黒人だから 耳を傾けてくれると思ったから
警察に下がってもらったのに・・・
そんなの間違ってるだろ?
よし 俺達は結束したか? どうだ?
いくぞ
(曲:I Can't Stand Myself)

こちらの記事は、ほぼそのまま下記へ転載しました。

http://osakamonaurail.com/nakata/2018/12/post-177.html



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 名曲「I Got So Much Trouble」が録音されたのは、19723月のこと。メリーランド州シルバースプリングスにある「トラック・レコーダーズ・スタジオ」だそうです。メンバーは下記のとおり。


Sir Joe Quarterman (vocal & trumpet)

George "Jackie Lee" (guitar)

Chrles Steptoe (drums)

Willie Parker, Jr. (rhythm guitar)

Gregory Hammonds (bass)

Karissa Freeman (keyboard)

Leon Rogers (sax)

Johnny Freeman (trombone)


 そうなんです、サー・ジョー・クオーターマンって、作曲編曲とボーカルはもちろんなんですが、トランペット奏者だったのです。この「I Got So Much Trouble」冒頭の印象的なリフで「プゥア~」と音程をわざと少し下げて吹いているのはサージョーさん本人だったのです。(これがモダンかつブルージーな雰囲気をつくっていて、とても良い。)

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 歌とトランペットの両方を担当していますが、この二つは同時に鳴っています。オーバーダビングですね。時はすでに1972年。マルチトラック・レコーディング(つまりオーバーダビングが可能)が一般的に普及した時期です。(この「So Much Trouble」のようなインディーでもマルチ録音なわけですから。)16トラックのテープレコーダーを使ったのだろうと思います。1970年代の幕開けっていう感じですね。

 これはちょっと重要じゃないかと僕は思います。というのは、よく聴くと、この曲(それから後のアルバムの他の曲すべてそうですが)アレンジがとても良くできているんです。アレンジと各楽器の音量バランスが緻密につくられている。かなりの部分が楽譜におこされたうえで演奏されているような雰囲気です。(60年代のジェイムズブラウンのFunkなどとは正反対の世界ですね。)

 ジョーさんによると、この曲だけを録りおえるのに、なんと丸一日を費やしたそうです。これは当時としては、しかも駆け出しのアーティストとしては異例の長時間レコーディングではないでしょうか。サウンド・曲の設計図が頭のなかで出来上がっていたんでしょうね。コダワリのサウンドです。

 「たんにギグのオファーが来るようにレコーディングをしたんだ。プロモーター(興行主)に我々のサウンドを聴かせたかった」とサージョーさんは語っています。地元ワシントンD.C.や、東海岸・南部のほうへ足をのばすために「名刺がわり」として録音したのでした。まさかこのシングルがヒットするなんて思っていなかったんですね。

 はじめはナイトクラブや地元ラジオ局で人気がでてきて、そのあと全国流通されることによってブレイクし、最終的にはビルボードR&Bチャート30位を記録しました。


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 シングルが評判だったので、アルバムを作るように言われたサージョーは、今まで書きためていた曲に修正を加えてレコーディングに取りかかりました。1972年11月にアルバムは完成して、1973年のはじめに発売されました。GSFはメジャー流通でしたが、お金をかけてプロモーションする気はなかったようです。しかしジョーさんによると「アルバムは口コミでうまくいくんじゃないかって思ってたんだ。ドンコーネリアス(テレビ番組『ソウルトレイン』の司会者・プロデューサー)にニューヨークのパーティーで会ったとき、《君のアルバムは特別にズバ抜けている。グラミーの可能性だってあると思う》って言ってくれたんだ」とのこと。

 ソウルトレインで「So Much Trouble」が流れたときの模様はこちら。


 ドンコーネリアスは応援してくれていたんですね。しかし残念ながらアルバムのセールスが伸びることはありませんでした。そしてこのアルバムは忘れ去られてしまったのです。なんと20年も経ってからDJやレコードコレクターに再発見されて大ブレイクするまでは。


 アルバムには、こんな曲も収録されています。「自分自身を見つけよう/厳しい社会のなかで大変だけど/本当の自分を見つけよう」というメッセージ・ソングです。



 あとで触れますが、アルバムのあと70年代中期にはシングルを残しています。そのうちの一つがフロアライクなこの曲です。

 


    *   *   *   *


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 さて、サー・ジョー・クオーターマンは1944年ワシントンDC生まれのようです。ワシントンDCは「チョコレートシティ」と呼ばれるくらい黒人の割合が多いところで、黒人文化とくに音楽がさかんな場所です。なんと約50パーセントが黒人といわれています。(ホワイトハウスや連邦議会がある首都で、政治家やロビイストが生息しているところ、というイメージが強いかもしれませんが、どうやらそれは東京でいう永田町や霞ヶ関のような調子で、街の一部分ということなんでしょうか。)

 全米屈指の「黒人大学」であったハワード大学もここにあります。そして、後にチャックブラウンという英雄を生んで、ファンクの別の顔「ゴーゴー」がいまでも受け継がれている街です。


 若きジョーは1950年代のワシントンDCを、教会の合唱団やストリートで過ごしたそうです。子供のころからレイチャールズ、エルビスプレスリー、フランキーライモンなどから影響を受けて歌の才能を伸ばしました。中学生でトランペットを吹き始める前は、少年団でビューグル(軍隊ラッパ)を吹いていたそうです。高校生のとき初めての自身のバンド「The Knights」を組んだそうです。そのバンド名に応じて栄誉称号「サー」(勲爵士)というステージネームを使いだしたそうです。「この名前には深い意味は無いんだ。あの当時は、高貴なステージネームをつけて目立とうとするのが流行ってたのさ。《デューク(公爵)》とか《カウント(伯爵)》とか《ロード(卿)》などね。《サー》を選んだのは、僕の知る限りでは誰もそれを使っていなかったからさ」。

 なるほど、そういえば、古くはデュークエリントンやカウントベイシー、それからアール(伯爵)ハインズとか。B.B.キングなんかもこのジャンルに入るのかな? そういう黒人音楽の伝統があるみたいですね。しかし、それにしては時代が違いすぎるゾ。そういったもののリバイバルってことだろう。とりあえずそう理解しておこう。そういう名前を名乗るのが、ミュージシャンがストリートでキザに振る舞う一つのスタイルだったってことなんだろうナ。


 The Knightsがレコーディングを始めてまもなく、地元レーベルのオーナーであるローランドコヴェイ(ドンコヴェイの兄弟)に、女性ボーカルを加えようと言われたらしく、それが元でこのバンドは解散してしまいました。

 次に「サージョー&メイデンズ」というグループを結成。「Pen Pal」というローカルヒットをだしました。ジェリーバトラー、メイジャーランス、インプレッションズといった、ワシントンDCにやってくるソウル界のスターの前座で演奏したそうです。

 くわえて地元では人気のあった「The El Corols Band」にトランペットと歌担当で加入します。スティーヴィーワンダー、レイチャールズ、ナットキングコール、ディオンヌワーウィック、テンプテーションズ、スモーキーロビンソン、グラディスナイト&ピップス、オーティスレディングなどのスターのバックバンドを務めたそうです。このバンドは「The Magnificent Seven(荒野の七人)」というグループになり、ツアーで全国を廻っていました。リトルリチャードやソロモンバークのバックを務めたことがあるそうです。

 しかしバックのバンドメンバーに徹することに疲れたサージョーはヴァージニア州ピーターズバーグに移住します。そこでヴァージニア州立大学へ入学して、トロージャン・エクスプロージョン・マーチングバンドと学内の交響楽団に入りました。「僕の音楽教育のほとんどはピーターズバーグで得たものだよ」とジョーさん。日銭を稼ぐために、バージニアの州都リッチモンドでのたくさんの地元バンドで演奏し、週末にはチトリンサーキット(アメリカ南部の黒人ナイトクラブやライブハウスを巡業すること)をまわったそうです。

 1966年に、ジョーはワシントンDCに戻ります。The Uniquesの音楽監督の仕事の話があったり、地元のジャズグループ「Orlando Smithクインテット」に参加しました。ジャズの技術を身につけて自信がついたことにより、ついに自身の新しいグループの結成を決意します。「その頃ジェイムズブラウンは本当に大きな存在で、みんなファンクに夢中になり始めていたんだ。僕もやってみたかったんだが、ただのコピーはやりたくなかった。自分らしさを表現したかったんだ」。

 「ファンクをやる」という明確なコンセプトで1969年に結成されたその新しいバンドこそ、「サー・ジョー・クオーターマン&フリーソウル」でした。(つづく)


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こちらの記事は、ほぼそのまま下記へ転載しました。

http://osakamonaurail.com/nakata/2018/12/post-177.html


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驚かないでください! 12月27日開催のIN BUSINESSのスペシャルゲストが今日、発表になりました!

なんと、あのFUNKレジェンド、SIR JOE QUARTERMANの初来日です!

せっかくなので、ここでサー・ジョー・クオーターマンのことを色々と紹介してみたいと思います。
サー・ジョーと言えば、もちろんこの曲です。

"(I Got) So Much Trouble In My Mind"

Sir Joe Quarterman & Free Soul


初めて聴いたときの衝撃は忘れられません。レアグルーヴ・クラシックとして、Bobby Byrd "I Know You Got Soul" とタメをはるかんじです。1991年くらいだったかレコード屋で初めて聴きました。

アメリカで小ヒットを果たした1973年から四半世紀も経った1980年代終わりごろ、「レアグルーヴ」として、突然イギリス・ロンドンのクラブシーンやラジオで人気がでて大カムバックを果たしたんですね。(僕はそのころ田んぼだらけの奈良県で高校生やってましたんで、そんな現場は知るはずないですが。)

ちなみに本人がそういったリバイバルのことを知ったのは1990年代の後半になってからでした。


録音されたのは1972年の暮れみたいです。時代は「ファンク(的なもの)」がもはやメインストリームになっていた頃と思います。スティーヴィーワンダーは「Talking Book」。JBは「There It Is」とか「Get On The Good Foot」「Doing It To Death」など。「スーパーフライ」「110番街交差点」。そして大ヒット「裏切り者のテーマ」。
JBサウンドをひきあいに出すなら、リンコリンズの「Think」あたりの「アレンジがしっかり詰めてある完成度高い〝歌ものファンク〟」っていう雰囲気が共通の時代感を持っているように思いますがどうでしょうか。
加えて、いわゆる「ニューソウル」的な、ハーモニーがリッチで、歌詞にベトナム戦争のことがでてきたり、というあたりがこの曲の聴きどころでしょうか。
このポップ感とファンキー感のブレンドが、90年前後の僕たちにド真ん中に響いたんだと思います。

ジャケットの印象的なイラストは本人によるもの。「こういうジャケットにして欲しい」とレコード会社にアイデアを伝えるために描いてみせたら、なんとそのまま使われてしまったというエピソードです。
タイトル曲の歌詞どおりに、サー・ジョーたちの頭の中にいろんな「トラブル」がある、というイラストです。(裏ジャケの写真も「夢見る地元バンド」感があってイイですね〜。)

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せっかくなんで、この「いろんなトラブルがあって頭がいっぱいだよ〜」という歌詞を書き出してみました。

  *   *   *

I got so much trouble in my mind
I got so much trouble in my mind
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ

give me the strength to carry on
give me the strength to carry on
cause everything I got is just about gone
I think about it, I think about it, I think about it
I got to shout!

もう耐えられない 力をお与えください
もう耐えられない 力をお与えください
すべてがダメになりそう
心配だ 心配だ ああ心配だ 叫びたいよ

I got so much trouble in my mind (Repeat)
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ (くりかえし)

I got an eight hour job
I got an eight hour job
everyday my work gets so hard
and I worry about it, I worry about it, I worry about it
I got to shout!

いまの仕事は一日八時間なんだ
いまの仕事は一日八時間なんだ
それが毎日どんどんキツくなっていく
気が滅入る 気が滅入る ああ気が滅入る 叫びたいよ

look here, there is:
air pollution, much confusion, drug addiction, no convictions
vietnam war, junkies at your door
I got so much trouble in my mind (Repeat)

聞いてくれよ 問題だらけだ
大気汚染 社会混乱 麻薬中毒 社会不安
ベトナム戦争 ジャンキー強盗
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ (くりかえし)

marriage I thought I never bother
marriage I thought I never bother
Now my girl tells me I am a father
and I dream about it, I dream about it, dream about it
I got to shout

結婚なんて一生ないと思ってた
結婚なんて一生ないと思ってた
なのにガールフレンドが「あなたの子供がお腹に」だって
楽しみだ 楽しみだ ああ本当に楽しみだ 叫びたいよ

I got so much trouble in my mind (Repeat)
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ (くりかえし)

  *   *   *

最後に、この曲は当時ヒットだったのか、そうでないのか?

後述しますけれど、シングルとしてはビルボードR&Bチャート30位を記録しています。
「スーパーヒット」とはいいがたいですが、FUNKの聖地の一つであるワシントンD.C.で、地元の人気バンドがここまで駆け上ったということで相当盛り上がっていたんじゃないでしょうか。そのヒットを受けてアルバムがつくられたんですね。

しかしアルバムのほうは(内容は傑作といえるものですが)セールスは芳しくなかったのです。

レコード会社であるGSFも宣伝費をかけてプロモーションする気はなかったのです。なにせジャケットデザインを、本人の落書きで済ましてしまう(本人の承諾もなく)くらいですからねえ。


そんなわけで、12/27のサー・ジョー・クオーターマン初来日をお楽しみに!
これから、合計4回ほど(?)にわたり、サー・ジョーのお話をしていきたいと思います。

(↓もしかして世界初公開かも、、、? これが、Sir Joe Quarterman & Free Soulのライブ写真だ! おーッ!)

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今回は、皆さんご存知の基本情報でした。
次回からは、もうすこし突っ込んだストーリーを探ってみたいと思います。
サー・ジョーの地元であるワシントンD.C.のことや、アルバム全体のこと、サー・ジョーさんの物語(60年代、70年代後半や80年代)、などなど、盛りだくさんで「予習」をしてまいりたいと思います。

よろしくおねがいします。


2ヶ月に一度の楽しみ

 
音楽と関係ある度:★★★★★

2ヶ月に一度、心待ちにしているものがあります。それは「BLUES & SOUL RECORDS」誌の連載、「ICHIが行く! チタリン・サーキット最前線」です。ときにはお腹をかかえて笑ってしまいます。
いやはや、いわゆる〝チトリン〟が今も存在していて、しかもそこで日本人のギタリストの方が活躍しておられるんですね。マジで無茶苦茶あこがれます。

今号はベストというほどでもありませんでしたが、ちょっと前の「タダのものは何でも貰う貧乏ミュージシャン」の話は、本屋で立ち読み大爆笑しました。(あ、今号はちゃんと買いましたよ。)


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フレッド・ウェスリーとは誰でしょう

 
音楽と関係ある度:★★★★★

 フレッド・ウェスリーと共演させていただくことになりました! なんと光栄なことでしょうか。四半世紀にわたって憧れ続けた人と、一緒にリハーサルをして同じステージを踏ませてもらうのです。フレッド・ウェスリーといえば、JB FUNKをつくった人物そのひと。僕もNo.1ファンを自認しています。まるで、藤子不二雄のアシスタントになってドラえもんの顔を描かせてもらう気分です。あ、また要らんこと言うてもうた、、、。
 マーヴァ・ホイットニーとショーをやったときも気合い入りましたし、大いに学ばせてもらいました。しかし、今回はシンガーとバンドということではなく、世界トップクラスの優秀なミュージシャンとの共演ですから、力の入りどころがちょっと違います。いやあ、緊張するだろうなあ! 僕も今から夜も眠れません、、、。楽しみにしていてください!

 さて、フレッドとは誰か? 何をやってきた人なのか? どこが一番凄いのか? 順に、簡単に書いときます!
 フレッドは1943年生まれ。深南部、アラバマ州モービル育ちです。(アルバム『Breakin' Bread』は故郷についてのコンセプトアルバムでした。)10代後半〜二十歳だった1960年代前半は、アイク&ティナ・ターナー、ハンク・バラッド&ミッドナイターズのツアーメンバとして活動しました。
 ジェイムズ・ブラウンの一座に加入したのは1967年です。「Say It Loud - I'm Black & I'm Proud」や「Give It Up, or Turnit A Loose」などを録音。当時の音楽監督〝ピーウィー〟エリスが1969年に脱退すると、ブラウンから音楽監督に任命されます。しかしすぐにブラウンと対立して脱退します(1970年はじめ頃)。
 一度はLAでミュージシャンとして挑戦したものの、道は険しく、「才能や技術があるだけではダメだ」と悟ったそうです。一方ジェイムズ・ブラウンは当時、ブーツィー・コリンズ(b)達の自由奔放ぶりに手を焼いており、頼れる男・フレッドを呼び戻したのでした。1970年12月に復帰したフレッドは、正式に音楽監督となり快進撃が始ります。「音楽監督(Musical Director)」というのは、アーティストから頼まれたことをすべて責任をもって行うポジションです。作曲・編曲はもちろんのこと、ミュージシャンを集めたり、リハーサルを取り仕切ったりします。つまり、1971年4月以後につくられたジェイムズ・ブラウンものは、全部フレッドが形にしたものなのです。バックバンドのほうは当初は「The J.B.'s」でしたが、2枚目から4枚目までは「Fred Wesley & The J.B.'s」になったのです。





 1971〜1975年というジェイムズ・ブラウンの第二黄金期を支えた、と言うよりはむしろ、作り上げたフレッドは、次にメイシオ・パーカーとともにブーツィーズ・ラバー・バンド/P-Funk軍団に加入します。ホーンセクションのすべてを担当し、「Fred Wesley & the Horny Horns」名義でもアルバムを2枚作りました。
 1978年頃、P-Funk帝国が崩壊したあとは、意外なところから声がかかりました。カウントベイシー楽団です。ベイシー本人の最晩年となったこの時期、2番トロンボーン奏者としてソロなどもとってかなり活躍しました。

 
 ベイシー楽団での1年間のあとは、ソロアルバム『House Party』をつくりましたが、これは90年代になるまで日の目を見ませんでした。この時期はむしろプロデュース業に転身したと言うべきか、SOSバンドやキャメオなどを手がけました。
 そしてついに1980年代後半、ヨーロッパでのレアグルーヴの波を受けて「JBホーンズ」というチームを結成。メイシオ・パーカーと〝ピーウィー〟エリスと組んで本格的に復活しました。


 ロンドンやドイツを中心として、大好評を博し、日本にも頻繁にやってくるようになりました。この3管編成のユニットは、それまでのホーンセクションの常識を覆す、他の誰にも真似の出来ないサウンドを奏でて世界をアッと言わせました。僕が初めてライブで観ることができたのは1991年のブルーノートでした。1990年の「花博」は見逃しました。
 それからのフレッドの活躍はご存知の通りです。世界的なジャズマン/ファンクマンとしての名声を確固たるものにして、世界中を廻り続けています。90年代からジャズアルバムも多く発表しました。「ファンクをつくった」という功績はもちろんのこと、ファンクミュージックの立役者その人が、ビバップ、ファンキージャズ、ファンクを華麗に融合させたその実力は誰の追随も許しません。

、、、それでは頑張ってみます! 11月30日(金)日本橋でお会いしましょう!


SEARCHING

 
音楽と関係ある度: ★★★★★





金曜日の、久しぶりのSEARCHINGは凄いです...。ドイツはミュンヘンのFUNKバンド、あの「Poets Of Rhythm」の中心人物・J. J. WhitefieldがゲストDJです!
 Poets Of Rhythmそのものが日本ではあまり知られていないかも。この人達こそ、世界でも最もスゴいバンドだと僕は考えている。すくなくともこの「ヨーロッパFUNK界隈」では一番凄い。QuanticさえもSharon Jonesさえも、誰も追いつけない。(Quanticは方向性が近いようだけど。)ファーストアルバムでは、なんといっても、Deep Funkムーヴメントなるものがやってくる10年も前に、Deep Funkを終わらせていた。アルバム「Earthology / Whitefield Brothers」は、発売されてからすでに数年経つがいまだに衝撃的。このアルバムのレベルに到達できるアーティスト/アルバムは、当面のあいだ出てこないと思う。僕は新しいレコードをたくさんチェックするようなタイプではないから、知らないだけかも知れない。でもやっぱりそう思う。
 ここ数年は、僕らがミュンヘンに行くときにはDJをやって迎えてくれたりしている。ミュンヘンの人としゃべると彼のことは誰でも知っているので、地元の音楽界ではちょっとした顔のようだ。そんなあたりもとても憎い。
 「常に10年先を行く秀才」。僕は彼のことをそう考えている。いや「天才」といってもいいのかも。ミュージシャンで10年先を行くのは相当なタマだ。そんな彼がDJとしてSEARCHINGに登場。もちろんバンドでの来日が望まれるが、そう容易でもないだろうから、ひとまずはDJプレイを目撃したい。

 ゲストもう一組。いま日本一にキテるバンド「Bugs Group」がついに登場! これはいま一番カッコいいので、お願いですから騙されたと思って観てください。いま大プッシュ中です。

 オーサカ=モノレールも参戦。そういうことで、「Youtubeとかでは何もわからんのじゃあ~!」というようなイベントになるはずですから、新しくなった下北沢のGARDENで、金曜日オールナイトにてお待ちしております。
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