「バック・トゥー・ザ・フューチャー」再訪

僕が勘違いしていただけなのですが、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に登場するデロリアンというタイムマシンのベースになる車は、イタリアかどこかのスポーツカーだと思っていました。
デザインもその名前も、アメリカらしくないので勝手にそう思いこんでしまったのでしょう。
GMでもフォードでもないから、まさかアメリカの車だと思わない。

僕はクルマには興味がないほうで、アメリカ車もイタリア車も日本車も、そういうことは普段は気に留めないのですが、デロリアンだけは気になっていました。
というのは、デロリアンがもしヨーロッパの車であったなら、映画のプロットが成り立たないと思ったからです。

今ごろ知って恥ずかしい。大半の人にとっては常識なのだろうが、デロリアンはアメリカの車だった!
ジェネラル・モーターズ副社長にまでのぼり詰めた名物男、ジョン・デロリアンが独立して北アイルランドに工場を建てて製造した車でした。
60年代終わりに若者向けスポーツカー、ポンティアックGTOをデザインしたことでその名が知られるようになった。GM役員でありながらハリウッド女優と浮名をながし、マンハッタン五番街の豪華マンションに住み、プライベートジェットで世界を飛び回るというまるでハリウッドの芸能人のようなデロリアンは、アメリカ自動車業界の革命児と見なされていた。

1973年のオイルショックを好機とみて、旧態然としたジェネラル・モーターズを退社し、ビッグスリーに殴り込みをかけるべく、DMC(デロリアン・モーター・カンパニー)を創業した。
1978年、ついに工場建設開始。ひょっとしてひょっとすれば、デロリアンの手によって、アメリカ基幹産業たる自動車産業に新しい風が吹き込まれ、ふたたび強いアメリカが蘇るかもしれなかったのです。
結局のところ、ワンマン経営が災いし、あっという間に資金難に陥った。イギリス政府からの追加資金で製造および発売にこぎつけることはできたが、上開式のドアがうまく開かないなどの不良もあって評判は芳しくなかったと云う。
最終的には、運悪くFBIの麻薬のおとり捜査の餌食となって、彼の「夢のスポーツカー」の短い歴史は幕を閉じた。工場閉鎖は1982年。

・・・という話を最近知りました。
デロリアン・モーター・カンパニーはアメリカの会社だったのだ。
それで僕は、冗談ではなく本当にコーヒーをこぼしそうになった。
長年の謎が解けた。
「謎」って云ったって、ひとりで勝手な勘違いで謎を生んでいただけなのですが。
「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のこと。

この映画が何を描いているかというと、よーするに、当時「日米貿易摩擦」と呼ばれていたもの。
いや、それは日本から見た呼称であって、アメリカから見ると「対日貿易赤字」。
つまり、「三十年前」のような強いアメリカをどうやって取り戻せるか、というのがテーマ。
面白いなと思うのは、説教臭くないところ。日本の「三丁目の夕日」みたいな「昔はよかったね」とか「過去から学ぼう」みたいなスローガンは謳わない。単に、いまのアメリカがダメだということを嫌みなくカラッと描いているように思う。
敵であるトヨタについては攻撃するのではなく、ヘンに持ち上げている。それは、とどのつまり皮肉、日本語で云う慇懃無礼・・・いや、フェアで粋な攻撃と捉えるべきか。
いずれにせよ「貿易不均衡を叫んだところで、国内消費者の目は日本車に向いていますよ、どうしますか」とアメリカに問いかけている。

冒頭からエンディングまで、徹頭徹尾その話をしている。
オープニングはトヨタ販売店のラジオCM。
映画のオチはマーティーが夢をかなえる。彼の夢とは「トヨタのトラック」。
とにかくすべての逸話を車にむすびつけてくるし、画面にはずっと車が絶えない。
朝から、ビフが事故をおこして車がつかえない。
タイムマシンは原作では「冷蔵庫」だったものが車に変更。
ジョージ(お父さん)とロレイン(お母さん)の出会いは車の人身事故。
ビフの自慢はフォードのコンバーチブル。この車が大破する。
ジョージがビフにパンチを見舞う対決シーンも、もちろん車。
そもそも、映画の筋書き自体が「機能しなくなってしまったデロリアンを動かす」というプロット。
とにかく、車、車、車。
あけてもくれても「車が壊れた」という話をしている。

そんななかでデロリアンは、発明王エジソンの再来たる
ドク・ブラウンによる福音、アメリカ再生への挑戦のメタファーとして登場します。ただし、実際のデロリアン車でおこった事の顛末をひけば「挑戦と失敗」を意味します。成功ではない。だから、これもジョークだと思います。説教くさくならないように。
もしくは、失敗を恐れるな、みたいな金言と言い換えてもいいのかもしれない。
当時はデロリアン本人は麻薬取引と脱税で起訴されて保釈中だったからあまり洒落になっていないかもしれないけど。映画の撮影開始は1984年11月、公開は1985年9月。本編中の時代設定は1985年11月(と1955年11月)。デロリアンの裁判がおわって無罪放免となったのは1985年8月。

そういうわけで、僕が何を言いたいかというと、日本の未来についてです。
いま、誰の目にも明らかなように、僕たちは1930年代に匹敵するような不況、不穏の時代にいる。
じつに100年ぶりの不況のまっただなかにいる。円は1ドル150円。
日本の企業の能力が一気にさがっており、人口が激減しているのだから、凄まじい国力低下は免れない。
国が貧すれば民主主義や自由経済は機能せず、道徳は失墜する。
ここから暗黒の数十年が始まることはまちがいありません。

よーするに、娯楽産業に身を置く人は「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のような映画やら音楽やらをつくるべきだと思う。それは「三丁目の夕日」のような懐古趣味の映画でなくて、痛烈にしかし爽快に現代を批判する映画であることが望まれる。
また、実際に、(デロリアンのように、)ソニーか東芝か知らないけど、そんな大会社の重役エンジニアが早期退職・独立開業し、新型のコンピューターでもつくって大コケをやって、そのあとでまったく異なる産業分野(家電とかコンピュータでなく)から、シリコンバレーにおけるスティーブ・ジョブズかビル・ゲイツかに匹敵するようなパイオニアが登場しないといけない。(インターネットやらデジタル技術革命はもう飽和しているから、モノづくりのほうがいいんじゃないかな?)

大不況の最中、これから日本はどうしたらいいのだろうか、とみんなが話し合っている。
どうしたら国を救うことができるか・・・そんなの簡単で答えは一つに決まっている。
輸出産業を興せばよいのだ。
かつて鉄鋼業やらトランジスタラジオが日本を復興・再興させたように。
政府はアホなので、アニメとか日本食とか、既存の日本特有の商品を外国に売ろうと考えているようだけれど、そんなのはダメに決まっている。
すでに在るものを売ろうとするのは、まるで急場しのぎに家財をヤフオクにだして売るような、安直な発想だろう。
安倍政権が原発をイギリスやトルコに売ろうと試みていたのは、じつに漫画を見ているようだった。もちろん売れなかった。同じくインドに新幹線を売ろうとしたり、オーストラリアに潜水艦を売ろうとしたが、いずれも失敗した。大名行列をやって何億円つぎこんだのだろう。すべて水の泡と化した。
すでに在るものを売ろうとしたってダメなんだと思う。
観光立国も、ぜったいにやめたほうがいいと思っている。貧困だけでなく精神の荒廃につながる。

わかりきったようなことを書いているだけのような気しかしないけれど、とにかく世界中(またはどこか特定のところでもよい)の人によろこんでもらえるような発明品がいるんだろう。商品開発を日本でおこない、原料を仕入れて完成品を輸出するしかない。
それができれば、そしてそれが世界に通用する人格を持つ者であれば、21世紀の渋沢栄一か盛田昭夫かよく知らないけど、そんなものになれるはずだから、そういう人物が登場しなくてはいけないんだろう。

でも、もっと大事なことがあると思う。
いくらおカネがまわって、ふたたび日本が衣食住に困らない国になったとしても、道徳や文化がなければどうせまた世の中や会社組織に腐敗がおこり、また同じところに戻ってしまう。いまの自民党みたいな腐敗がおこる。
道徳というのは、弱い立場の人をいじめたり置き去りにするのは悪いことである、という考えのこと。
文化というのは、うまく言えないけど・・・何をするにしたって中身があるということ、じゃないかな。(書くのが疲れてきたので、すっとばしました。)
いまは道徳がなくて人も企業も国も、単に競い合うだけ、潰しあうだけになっている。
経済の復活と道徳や文化の復活は対(つい)になっていなければ、いくら商売がうまくいったところで、またふたたび、経済そのものがたちまち悪魔となって自分の身におそいかかる。



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