子どもを英語の実験台にしてはいけない

英語教育のことですけど、僕は、日本の文部省(文科省)っていうのか、学者っていうのか、に対して、猛烈に腹をたてているのです。もうずいぶんまえから。

なぜ腹をたてているかというと、一つ目の理由は、ちいさな子どもに英語をやらせようとしているからです。いや、じっさい、もうやらせています。
それは、日本の英語教育が成果をあげてこなかった責任を、次世代の子どもになすりつけている行為だと思う。
幼稚園や小学校で英語をやる必要はありません。
中学校から学べば、十分に英語をつかえるようになります。

英語を子ども(中学生や高校生)に教えるのであれば、大人(文部省や学者)が英語の正体を解明しないと始まらないのに、それが出来ていません。
「解明していない」というのは、きっちりとこの言語を噛み砕き、原理のところまでときほぐしていないという意味です。
ブリの煮付けをバラバラにするみたいにして、これが骨だ、これが肉だ、これは尻尾だ、とすべてを明らかにしてから大人が子どもに教えないといけないのに。

一例をあげますと、「A/a」ってカタカナで書くとすれば「エイ」です。「エー」ではないです。「O/o」は「オウ」です。「オー」ではない。
こんな初歩のところで国全体でつまづいているのに、構文とか文法とか難しい単語をやっている。本当にオカシイ。

英語で母音はいくつあるでしょうか。基本的に15個と僕はかんがえています。(これには諸説あります。もっと多いという考えを採用しても構いませんが、それはどっちだってよいのです。いくつあるか文部省がおしえていないことが問題。)
子音がいくつあるか知っていますか? 24個です。こちらも諸説ありますがそれくらいでよいでしょう。
母音の数と子音の数を学校で教えていないのは、おかしいと思いませんか。
きっとどこかの時点であきらめちゃったのでしょうね。
教える側にやる気が感じられません。

英語を成立させている一番大事なもの、それは「音節」ですが、音節を学校で習わないとはいまだに信じられません。
これだと五十音表をまなぶことなく日本語を学習しているようなものです。
中学校で音節のしくみを教えることなく、中学校の英語教育を批判して、小学校(というより小学生)のほうへ責任を転嫁するとは、これで事態が改善されるとは到底おもえません。

このようなしっちゃかめっちゃかな具合であるにもかかわらず、小学生から英語を習わせている。
さらにひどいことに、民間企業がそこへ入りこんでくる。
文部省や教育委員会がしっかりしていないから、民間に入るスキをあたえてしまっている。
そんなことで上手くいくはずがない。

「小さいころから学んだほうがいいはず」っていう、ぼんやりとした理由だけで前にすすむ。ほかの理論がない。
そんな幼稚な理屈で何かが解決するのであれば、とうの昔、50年前か100年前に解決している。

ではどうやって英語(またはほかの言語)を習得して文化や科学を吸収したり国際競争力を身につけるのか、と云います。
それは難しいことではありません。
最初に書いたように、魚をほぐして、これが頭、背骨、肉、内蔵、背びれ、尾ひれ・・・とやればよいのです。

母音が15個ある。
子音が24個ある。
子音と母音と子音の三つをあわせて、音節がつくられる。
一つの音節は一つの意味をもつ。
一つの音節で一つの基礎単語となる。
すこしばかり高度な単語は音節を二つか三つかそれ以上あわせて、単語がつくられる。
主語と動詞の二つで文章がつくられる。
そこへおぎなう言葉を、うしろからどんどん連結してゆく。
これが英語のしくみなのだから、それをやればよいだけです。

日本語は上記のようではない、ということを学ぶのも大切だと思います。

母音が5個ある。子音は単独で存在できない。
子音と母音の二つをあわせて音節(音韻)がつくられる。
音韻はおよそ百十前後。
音韻は一つで意味をもたず、二つか三つで言葉がつくられる。
言葉に助詞をつけて、動詞は活用させて、ならべることで節や句をつくる。
直線的な文構造はなく、細切れのことを並べるのが日本語。

これをやらないから、いつまで経っても英語がナゾのままに放置されています。日本語もナゾのままです。

日本語には英語のような主語は無いのですが、いつまでたっても、「日本語には主語があるのか、ないのか」というようなサカサマの議論をしている。

英語では、ちいさな子どもに過剰な期待がかけられ、実験台にされています。
存在しないゴールにむかって走らされています。

大人(全体としての大人という意味)ができないことを子どもにやらせてはいけない。
それがいくら言語習得であろうとも、おなじです。

(ちなみに、僕は鉄棒のさかあがりが出来ないのですが、子供の練習につきあったことがあります。でも学校の先生ができますし、なにより「練習すればできるようになる」というのは証明されているわけですから、そういうのは良いのです。できるかどうか証明されていないことを、さも当たり前のように子供にやらせたらダメという話。)

大人がまずできるようになってから、子どもにやらせないといけない。
大人が英語を習得する方法はむずかしくなく、上記の順番のように英語をかみくだけばよい。

幼稚園や小学校では、日本語の楽しさとか美しさ、それを味わうことが大事だと思います。
小学校では、日本語のつづりかたを学ぶのが大切だと思います。
いま、日本語は、とくに表記がぐちゃぐちゃになっているので。
いま、学校では「テンの打ち方」「漢字をつかってもよいし使わなくてもよい」「推敲のやりかた」「現代かなづかいの特徴(良いところ悪いところ)」などを作文の実践としてやっていないと思う。
官製言語が大手をふって歩いているのをやめさせ、漢字の熟語ばかりつかわず、なるべくやまと言葉を上手につかいましょう、と文部省が子どもを導いていくことも、やってほしいと僕は考えています。

小学校から中学校にかけて、母語である日本語のよいところ、やっかいなところを、見渡せるようになるのが大切だと思う。
日本語の文法は中学校で習うけれど、細かいことはやらず、もっと俯瞰的に、相対的に、やさしくして教えるべきと思う。

英語をまなぶのであれば、それは日本語教育をおろそかにしないことと合わせて一対にしなければいけないと思います。
日本語をよく学べば、英語の力にもつながります。
言語や論理というものを一歩引いて見渡す、そんな見方を身につける。

これが僕の腹をたてていることの二点目です。

きりがないから、また書きます。



2024年1月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

月別 アーカイブ