2023年7月アーカイブ

子どもを英語の実験台にしてはいけない

 
英語教育のことですけど、僕は、日本の文部省(文科省)っていうのか、学者っていうのか、に対して、猛烈に腹をたてているのです。もうずいぶんまえから。

なぜ腹をたてているかというと、一つ目の理由は、ちいさな子どもに英語をやらせようとしているからです。いや、じっさい、もうやらせています。
それは、日本の英語教育が成果をあげてこなかった責任を、次世代の子どもになすりつけている行為だと思う。
幼稚園や小学校で英語をやる必要はありません。
中学校から学べば、十分に英語をつかえるようになります。

英語を子ども(中学生や高校生)に教えるのであれば、大人(文部省や学者)が英語の正体を解明しないと始まらないのに、それが出来ていません。
「解明していない」というのは、きっちりとこの言語を噛み砕き、原理のところまでときほぐしていないという意味です。
ブリの煮付けをバラバラにするみたいにして、これが骨だ、これが肉だ、これは尻尾だ、とすべてを明らかにしてから大人が子どもに教えないといけないのに。

一例をあげますと、「A/a」ってカタカナで書くとすれば「エイ」です。「エー」ではないです。「O/o」は「オウ」です。「オー」ではない。
こんな初歩のところで国全体でつまづいているのに、構文とか文法とか難しい単語をやっている。本当にオカシイ。

英語で母音はいくつあるでしょうか。基本的に15個と僕はかんがえています。(これには諸説あります。もっと多いという考えを採用しても構いませんが、それはどっちだってよいのです。いくつあるか文部省がおしえていないことが問題。)
子音がいくつあるか知っていますか? 24個です。こちらも諸説ありますがそれくらいでよいでしょう。
母音の数と子音の数を学校で教えていないのは、おかしいと思いませんか。
きっとどこかの時点であきらめちゃったのでしょうね。
教える側にやる気が感じられません。

英語を成立させている一番大事なもの、それは「音節」ですが、音節を学校で習わないとはいまだに信じられません。
これだと五十音表をまなぶことなく日本語を学習しているようなものです。
中学校で音節のしくみを教えることなく、中学校の英語教育を批判して、小学校(というより小学生)のほうへ責任を転嫁するとは、これで事態が改善されるとは到底おもえません。

このようなしっちゃかめっちゃかな具合であるにもかかわらず、小学生から英語を習わせている。
さらにひどいことに、民間企業がそこへ入りこんでくる。
文部省や教育委員会がしっかりしていないから、民間に入るスキをあたえてしまっている。
そんなことで上手くいくはずがない。

「小さいころから学んだほうがいいはず」っていう、ぼんやりとした理由だけで前にすすむ。ほかの理論がない。
そんな幼稚な理屈で何かが解決するのであれば、とうの昔、50年前か100年前に解決している。

ではどうやって英語(またはほかの言語)を習得して文化や科学を吸収したり国際競争力を身につけるのか、と云います。
それは難しいことではありません。
最初に書いたように、魚をほぐして、これが頭、背骨、肉、内蔵、背びれ、尾ひれ・・・とやればよいのです。

母音が15個ある。
子音が24個ある。
子音と母音と子音の三つをあわせて、音節がつくられる。
一つの音節は一つの意味をもつ。
一つの音節で一つの基礎単語となる。
すこしばかり高度な単語は音節を二つか三つかそれ以上あわせて、単語がつくられる。
主語と動詞の二つで文章がつくられる。
そこへおぎなう言葉を、うしろからどんどん連結してゆく。
これが英語のしくみなのだから、それをやればよいだけです。

日本語は上記のようではない、ということを学ぶのも大切だと思います。

母音が5個ある。子音は単独で存在できない。
子音と母音の二つをあわせて音節(音韻)がつくられる。
音韻はおよそ百十前後。
音韻は一つで意味をもたず、二つか三つで言葉がつくられる。
言葉に助詞をつけて、動詞は活用させて、ならべることで節や句をつくる。
直線的な文構造はなく、細切れのことを並べるのが日本語。

これをやらないから、いつまで経っても英語がナゾのままに放置されています。日本語もナゾのままです。

日本語には英語のような主語は無いのですが、いつまでたっても、「日本語には主語があるのか、ないのか」というようなサカサマの議論をしている。

英語では、ちいさな子どもに過剰な期待がかけられ、実験台にされています。
存在しないゴールにむかって走らされています。

大人(全体としての大人という意味)ができないことを子どもにやらせてはいけない。
それがいくら言語習得であろうとも、おなじです。

(ちなみに、僕は鉄棒のさかあがりが出来ないのですが、子供の練習につきあったことがあります。でも学校の先生ができますし、なにより「練習すればできるようになる」というのは証明されているわけですから、そういうのは良いのです。できるかどうか証明されていないことを、さも当たり前のように子供にやらせたらダメという話。)

大人がまずできるようになってから、子どもにやらせないといけない。
大人が英語を習得する方法はむずかしくなく、上記の順番のように英語をかみくだけばよい。

幼稚園や小学校では、日本語の楽しさとか美しさ、それを味わうことが大事だと思います。
小学校では、日本語のつづりかたを学ぶのが大切だと思います。
いま、日本語は、とくに表記がぐちゃぐちゃになっているので。
いま、学校では「テンの打ち方」「漢字をつかってもよいし使わなくてもよい」「推敲のやりかた」「現代かなづかいの特徴(良いところ悪いところ)」などを作文の実践としてやっていないと思う。
官製言語が大手をふって歩いているのをやめさせ、漢字の熟語ばかりつかわず、なるべくやまと言葉を上手につかいましょう、と文部省が子どもを導いていくことも、やってほしいと僕は考えています。

小学校から中学校にかけて、母語である日本語のよいところ、やっかいなところを、見渡せるようになるのが大切だと思う。
日本語の文法は中学校で習うけれど、細かいことはやらず、もっと俯瞰的に、相対的に、やさしくして教えるべきと思う。

英語をまなぶのであれば、それは日本語教育をおろそかにしないことと合わせて一対にしなければいけないと思います。
日本語をよく学べば、英語の力にもつながります。
言語や論理というものを一歩引いて見渡す、そんな見方を身につける。

これが僕の腹をたてていることの二点目です。

きりがないから、また書きます。



「1939年9月1日に」W. H. オーデン

 
「 1939年9月1日(第二次世界大戦勃発の日)に」W.H. オーデン


五十二丁目の酒場で ひとり
不安に怯えながら
腰かけている
大不況と欺瞞の十年が幕をとじ
わずかな希望もついに琴切れた
怒りはとぐろをまき
恐れは大波となり
世界のそこかしこをのみこんで
人々を翻弄してゆく
えも言われぬ死臭の漂いはじめた
九月の夜

ただしい歴史研究は暴く
マルチン・ルターから現代にいたるまで
連綿とつづくユダヤ迫害によって
近代ドイツは一度ならず狂気へ向かった
リンツで何が起こったか
巨大なイマーゴが
サイコパスの神をつくりあげたのだ
誰しも知っていることだろう
小学生でも知っていることだろう
悪行をなされた者は
悪行をなした者にお返しをする

追放の身となったトゥキュディデスは記した
政治家は熱弁をふるい
民主政を説いたうえで
独裁政治におよぶ
耳をもたない死者の前で
腐敗物のごとき演説をぶつ様も
いちいち彼の書で語られた。
いまや教養や知性は吹き飛ばされ
あの悪政による悲劇に
あの終わりない苦痛に
ふたたび苛まれる

中立国アメリカで空を仰ぐと
ふてぶてしい高層ビルが天を覆い
背丈いっぱい「人類文明の繁栄」を謳う。
人びとの口元から垂れでる言葉は
うぬぼれていて、一人よがりで、言い逃ればかり
至福の夢に陶酔していられた時代
それははやがて終わる
鏡の中からこちらを睨み返すのは
帝国主義の顔
世界を舞台にした悪業

酒場に集う面々は
必死の思いで日常にしがみつく
灯りを消してはならぬ
音楽を止めてはならぬ
一味は砦にむらがり
ここが憩いの家と信じる。
現実から目をそむけようとも
すでに悪霊の森に迷いこんでいる
すでに闇夜におののく子供となる
その子供は決して
おりこうさんでも よい子でもなかった

勇ましい政財界の大物が
ぶっそうな言葉を吐こうにも
われら庶民の粗野な願望には敵うまい。
ニジンスキーが精神を患って書いたという
ディアギレフについての手記は
ひろく人間の心にあてはまる
女であろうとも男であろうとも
手に入らない物ばかりを欲し
あげく過ちを犯す
万人を想う愛にはかまわず
独占できる愛を求める

因習の暗闇をもって
毎日の倫理となす
朝がくれば大勢の通勤客が
誓いの言葉をくりかえす。
「妻のために一所懸命
仕事以外のことも考えず」
気の毒なお父さんたちは
くる日もくる日もお勤めにいそしむ。
この人々をどうやって解放する?
聞く気のない人々にどう語りかける?
声をあげない人々をどう代弁する?

私にあるもの、それは声
声で、縺れた嘘をほどくのだ
色欲に煩まされる平凡な男の
恋沙汰にまつわる嘘や
高層ビル群をなして空を支配する
政府のつく嘘を。
国家など存在しない
ひとは一人では存在できない
市民であろうと官憲であろうと
時がたてば腹がへるのは皆同じ
思いやりが無ければ人は生きられない

夜の下 抵抗する術なく
朦朧たる嘘の世界で
しかし、皮肉にも点々と
正義の人びとが在るところ
光がきらめき
メッセージを交わす。
私もそうありたい
情念とちりのかたまりにすぎない私も
おなじ虚無と絶望に
つつまれながら
希望の炎を灯したい



I sit in one of the dives

On Fifty-second Street

Uncertain and afraid

As the clever hopes expire

Of a low dishonest decade:

Waves of anger and fear

Circulate over the bright

And darkened lands of the earth,

Obsessing our private lives;

The unmentionable odour of death

Offends the September night.

Accurate scholarship can

Unearth the whole offence

From Luther until now

That has driven a culture mad,

Find what occurred at Linz,

What huge imago made

A psychopathic god:

I and the public know
What all schoolchildren learn,

Those to whom evil is done
Do evil in return.

Exiled Thucydides knew

All that a speech can say

About Democracy,

And what dictators do,

The elderly rubbish they talk

To an apathetic grave;

Analysed all in his book,

The enlightenment driven away,

The habit-forming pain,

Mismanagement and grief:

We must suffer them all again.

Into this neutral air

Where blind skyscrapers use

Their full height to proclaim

The strength of Collective Man,

Each language pours its vain

Competitive excuse:

But who can live for long
In an euphoric dream;

Out of the mirror they stare,

Imperialism's face

And the international wrong.

Faces along the bar

Cling to their average day:

The lights must never go out,

The music must always play,

All the conventions conspire

To make this fort assume

The furniture of home;

Lest we should see where we are,

Lost in a haunted wood,

Children afraid of the night

Who have never been happy or good.

The windiest militant trash

Important Persons shout
Is not so crude as our wish:

What mad Nijinsky wrote

About Diaghilev

Is true of the normal heart;

For the error bred in the bone

Of each woman and each man

Craves what it cannot have,

Not universal love

But to be loved alone.

From the conservative dark
Into the ethical life

The dense commuters come,

Repeating their morning vow;

"I will be true to the wife,
I'll concentrate more on my work,"

And helpless governors wake

To resume their compulsory game:

Who can release them now,

Who can reach the deaf,

Who can speak for the dumb?

All I have is a voice

To undo the folded lie,

The romantic lie in the brain

Of the sensual man-in-the-street

And the lie of Authority

Whose buildings grope the sky:

There is no such thing as the State

And no one exists alone;

Hunger allows no choice

To the citizen or the police;

We must love one another or die.

Defenceless under the night

Our world in stupor lies;

Yet, dotted everywhere,

Ironic points of light

Flash out wherever the Just

Exchange their messages:

May I, composed like them
Of Eros and of dust,

Beleaguered by the same
Negation and despair,

Show an affirming flame.



うーん、思えば、90年代の後半って、「どうやって不況を脱するか」という話をみんなが議論していた。
つまり、バブル崩壊のすぐあと。
あのときはまさかバブル崩壊が三十年後までひきずるとは誰も思っていなかった。
景気という意味でもそうだけど、経済構造そのもの、そして日本にすむ全員の精神を荒廃させた。80年代の空虚な繁栄は、プラザ合意によって崩壊が加速させられた。
いまだに癒えていない大きな傷。

そのとき、つまり、90年代後半に、しきりに「住宅、住宅」と言うている人がいた。
「日本は住宅をどんどん建て替えるという特殊な習慣の国だから、住宅分野を掘り起こせば莫大な内需拡大が見込める」と言いたかったようだ。
これではあまりにヒドいと気づいていたためか、もうすこしオブラートにつつんだ言い方もあったと記憶する。
「日本はたったの数十年で住宅を建て替えてしまう特殊な習慣のある国なので、住宅の資産価値を欧米基準より低くみつもっている。したがって実際には、日本国内には膨大な資産が眠っている。これを活用しない手はない」。
いくらストックがあってもフローが発生しなければ経済に影響がないのだから、前者と後者は同じなのだと思う。

僕は当時、ピンと来なかったのだが、それから四半世紀経ったいまとなっては実感としてつかめる。
規制緩和をすることによって、住宅、マンション、ビルの立て替えを促進させ、景気が良くなる、という話。
じっさいには何がおこったか。
たくさんの住宅立て替えや、記録的な高層ビルが建ち並んだ。
しかし景気は大して上向かなかった。
なぜ経済効果がなかったのか、僕にはよく分からない。
国のなかでゼロサムゲームやっても意味がない、ということかな、たぶん。

昨今の奇妙な、狭小住宅ブーム(これは住宅のシュリンクフレーション)、タワマンブーム、高層ビル建設ラッシュは、国策の規制緩和(容積率の緩和)によって起こっている。ということは、ここに恐ろしい魔物が潜んでいる気がする。技術革新ではなく景気回復のために、地震大国たる日本が規制をとっぱらったのだとしたら、それは無茶苦茶にヤバい。

外国に行けば事情はまったく違う。ヨーロッパの都市にいけば、百年前のマンション/アパートがずらりと建ち並ぶ。ナゾの建て増しも勝手にやっているようだが地震が来ないので、倒壊することもない。
上海に演奏しに行ったとき、泊まったホテルの部屋が90階だった。雲に手がとどきそうな、空のうえにいるような部屋。ゴボウみたいなひょろっとした高層ビルなのだが、これでも誇らしげに建っている。

もちろん僕には建築の知識はないけれど、日本には絶対できないことだから真似をしたらアカン、と言いたい。
竹中平蔵は「東京は深センみたいに高層ビルを建てないといけません」と言っていた。
つまり、建築の専門家でない竹中平蔵がビルを建てろと言っているのだから、建築の専門家でない僕がビル建設をやめろと言ってなにが悪い、というのは屁理屈でもなんでもない。

規制緩和と耐震基準みなおしはセットだろう。
10年ほど前、文京区は江戸川橋に、お世話になったリハーサルスタジオがあり、これは80年代につくられた結構有名なスタジオなのだが、バンドの練習で毎週通っていたら、とつぜん営業を停止した。ビルが耐震基準を満たしていないので、取り壊さなければならないのだという。
僕の通った奈良県の高校も、耐震基準を満たしていないとのことで、昨年、べつの場所へ移転した。
よーするに、耐震基準を強化すれば、立て替え促進にもなり、高層ビル規制緩和の言い訳にも使えて、二重の旨味があると。そういうことなんだろう。

すこしだけ話はちがうが、国立競技場をとりこわしたときのスピードはすごかった。新しい国立競技場のデザインで揉めていたが、取り壊すのは誰も止められなかった。一瞬だ。
このたびの神宮外苑だっておなじ。何を思ったか、突然、一気に取り壊す。
取り壊すことが国策なんだ。それが経済に役立つという悪魔の論理がまかりとおっている。
ほんとにオカシイ。
そこに、異常に高いビルがこれから建つのだろう。

無理矢理にアクセルを踏み、同時にブレーキも踏むから大丈夫、みたいな、ナゾの屁理屈。(「神宮外苑をららぽーとにしますが、たくさんの緑をならべますからいい雰囲気ですよ」。)
こわすぎる。
「原発はむちゃくちゃ危険ですが、むちゃくちゃ管理しているのでぜったい安全です」とか、
「自由主義経済で、経済格差は進行するがセーフティーネットを張るから大丈夫です」とか、
「オリンピックをやりますが、福島第一原発は完全に管理できているので大丈夫です」
「オリンピックをやりますが、コロナ対策をしっかりやるので大丈夫です」

とにかく、タワーマンションやら新興高層ビル(六本木ヒルズとかあべのはるかすとか東京スカイツリーとかもふくめて)は、そう遠くない未来に倒壊すると確信している。ただの素人の確信です。そこに住んでる人や、ちかくに暮らしている人は気をつけてください。
縁起でもないことを、専門知識も無く、ただし大真面目に書きました。


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