2022年9月アーカイブ

NOPE (2022)

 

いまのところ、細部まではっきりとメッセージを受け止めた気分はしていないものの、映画「NOPE」とは一体何の物語なのか、どういう方向で考えたらいいのか、感想を書き留めてみようと思いました。

まず、歴史上初めて撮影された連続写真(=映画)が動く馬であり、そこで「主演」している騎手の曾々々孫にあたるのが主人公二人、すなわち兄の「OJ」と妹の「M」ということですから、彼らは史上初の映画俳優ということになり、その貴い血筋をひく兄妹ということです。(ただし、これはフィクションの設定。)
つまり世が世なら映画業界のロイヤルファミリーということである。プリンスとプリンセス。これは、設定あるあるで、よーするに『ブラック・パンサー』のような、王家が流されているという物語。
高貴な一族が今は身をやつし、食うに困る暮らしをおくっている。映画スタジオからお払い箱にされる始末。
いわゆる貴種流離譚は、主人公が王または女王として返り咲いて物語を終えるのが常だと思われますので、さて一体、ここからどうなるのでしょうか。

その「王家」は「ヘイウッド」という姓を名乗っています。
これは「ハリウッド」をモジっているのでしょう。
すなわちヘイウッド家の人々(父、息子、娘)は映画産業そのものを表しているんだろう。
よーするに、兄妹は映画芸術表現の良心をあらわす、みたいな。そういう話だと思います。

空からやってくる敵は一体なんでしょう。
映画の敵。
現代における映画に対する脅威といえば一つしかありません。
インターネット。
YoutubeとかTiktokとか、そういうやつ。
ネットフリックスやらアマゾンプライムやら、そっちかも知れない。
とにかく、ソーシャルメディアっていうのか、そういうやつ。
Google社でもAmazon社でもいい。
とにかく、この映像業界の新参者たちが映画を殺そうとしています。
映画芸術のことも人間のことも、これっぽっちも気にかけない、ミソもクソも右から左へ流して人々の欲望を煽るだけの、中身のない空虚な広告代理店。
それが映画の敵。
それは人類の敵でもある。

本編中、ずっと映画やお芝居のことばかり話をしています。
監視カメラ、フィルム撮影、レンズ、CG、テレビドラマ・・・。
この映画が、映画についての映画であることは疑いの余地はありません。

さあ、ついに映画界のロイヤルファミリーの反撃が始まった・・・というのがプロットです。
しかし、本人たちは何と戦っているのか、何のために戦っているのか、自覚がなさそうです。
長い間、冷や飯を食わされて来て、自分が誰かさえも分からなくなっています。
(目覚めないといけない。しかし目覚めはまだやってこない。)
当人は、バズり動画を撮影してひと山当てようと考えているだけです。
ロイヤルファミリーのプリンセスともあろうものが、良心をまったく失っています。
それこそ、敵(「Gジャン」)の術中に完全にはまっています。

ラストシーンで、プリンセスは敵を滅ぼします。
しかし、誰を滅ぼすことに成功したのか、彼女に自覚はありません。
そもそもの動機が間違っていたのです。
「オプラ級」のショットを撮影することは出来ました。しかし、それこそ生き馬の目を抜くソーシャルメディアの世界のことです。瞬く間に他人に出し抜かれるにきまっています。「ひと山当てる」など夢のまた夢でしょう。
彼女は勝ってなどいません。

結局、どちらが勝ったのだろう。
映画はその答えをだしていないと思います。
両方ともが死んだ(父や兄は死んだようだし、Gジャンも死んだ。)
ただ、自らの秘めたる力に気付いていないプリンセス(妹)が立ち尽くすところで映画は終わりますから、そこに未来があるような気はします。
答えを出して欲しかった、というのは僕の意見。
映画がインターネットに勝つ、すくなくともGoogleやAmazonやNetflixといった敵くらいは、蹴散らすところまで描いて欲しかった。
僕の要望としては、すくなくとも、何らかの希望は描いて欲しかった。
このままでは希望さえ無い。

さて、元子役スターの「ジュープ」は、Gジャンを利用しようとして失敗します。
これは妹エメラルドとまったく同じ行動パターン。
彼の最期、吸い込まれそうになるときには「飲み込まれて本望」とでもいうような複雑な表情を見せていたのが印象的でした。
彼に限らず、Gジャンの胃袋に入った人たちは、キャーキャーとまるでジェットコースターを楽しむ遊園地の客のような歓声をあげています。
きっとGジャンの胃袋の中は楽しいところなのでしょう。
そのへんを描くためにジュープという第二の主人公は登場している、たぶん。

僕はこの映画には納得がいきません。
一番意味がわからないのは、スピルバーグの「ジョーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク」のような、家族で楽しめる怪獣映画を期待した場合に、あのチンパンジーのシーンは見るに耐えないということです。
(さらに、被害にあった共演者の顔面のキズを「見せ物」として提示しているのは、他でもないジョーダン・ピールです。なぜそんな演出をするの!)
僕はこの映画を自分の子どもに観せたくない。
娯楽大作を批判する娯楽大作が娯楽大作じゃなかった・・・となってしまう。
もしかしたら、アメリカではこれくらいの描写は「家族向け」の範囲内なのかもしれない。
もしそうならあまりにもヒドいと僕は考える。

もう一点。
ジョーダン・ピールはオプラ・ウィンフリーを「見せ物をつくる者」と糾弾している様子である。
チンパンジーに襲われた被害者は、オプラの番組に出演したことで知られる。
でも、ピールがオプラをそこまで厳しく批判するというのも、にわかに信じがたいと思った。
なにかがオカシイ。僕が解釈を間違っているのかもしれない。
または、そもそも映画もテレビドラマもトークショーもソーシャルメディアと同じくらいの汚物だとでも言いたいのだろうか。
わけがわからない。理解力が足らないだけかもしれないけど。

とにかく、無駄な情報量が多すぎる。
もっと家族で楽しめる映画をつくったらええやろ!
映画の話をしたいんやったら、映画の未来に一筋の光を見ることのできるような、よきメッセージを発することをなんでしないのか。
批判すべきは「見たい、見られたい人々の欲望」(=Gジャンおよび飲み込まれてゆく人々)じゃなくて「グーグル社」ではないのか!
・・・というのが僕の感想です。

ものすごく善意に解釈するならば、このあとプリンセスが目覚めて、本来の持てる力を発揮するのかもしれない。
続編を待て、的な。
そのとき「映画の復権」があるのかもしれない。
それくらいしか思いつきません。
今日はこれでおわり。

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