翻訳語が現実をつくる(つくってしまう)

下記引用は、平子義雄『翻訳の原理 異文化をどう訳すか』より。
どう訳すのかということが法の解釈を左右するーーつまり「言葉が現実をつくる」ということの例(失敗例)。


英〈right〉、独〈Recht〉は、自然法上の権利の概念を表す言葉である。これの訳語として今日、〈権利〉という日本語が用いられている。たとえば、日本国憲法の第26条に「教育を受ける権利」がうたわれている。しかし〈right〉の訳語としては、〈権利〉は正確でなかったのである。それが〈権利〉になっていったいきさつを、柳父が詳しく伝えている[柳父章(1982):『翻訳語成立事情』岩波書店:149ff]。
〈権利〉という語はその後、日本の社会に大きな影響を与えることになった。たとえば次のようなことがある。「教育を受ける権利」は、国民が国に対して社会的生活を要求できる社会権の一種である。国民には教育を受ける「権利」がある。それに応じて、国には教育を与える義務がある。そこで、国は教育の外的条件を与えるのか、それとも教育内容に立ち入るのか、という問題が出てきて、この点の解釈で学説と判例がいろいろになった。「教育権」をもつのは国である(国家教育権説)か、親である(国民教育権説)か、という家永日本史教科書裁判の論争である。
〈権利〉が〈right〉のことであれば、それは人権のひとつなのであって、国家の権利などではない、ということは明白になるはずである。柳父のいうように、〈権利〉には〈権力〉という日本語の〈権〉の意味(〈power〉に近いもの)が入り込んでいる[同書 158ff]。国がもつ〈権利〉というのなら、それは〈power〉(独 Macht)のことであり、近代の人権思想、自然法による概念である〈right〉をさすことはできない。親がもつ〈権利〉というのなら、〈right〉でよいのだが。〈権〉という文字(言語の言語現実)から、言語にないものが作られていったわけである。明治期の啓蒙思想では、国権と民権の区別が曖昧であった。日本の近代化を急いだという国家的事情が背景にある。自然法による人権思想(啓蒙主義本来の理念)と、国力をつけるというナショナリズムの要請とを、同時に目指したことによる歪みであった。



2022年7月

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