2020年8月アーカイブ

現代の戦争

 
ぼくが小学校三年生のとき、『はだしのゲン』を読みました。
そして思いました。「なぜ、戦争などという、誰が見ても愚かなことが、馬鹿げたことが起こるのだろう?」。
この問いはとても重要ですが、けっこう難しくて、なんだかんだ言っても、やっぱり解明されていないように思います。
太平洋戦争がなぜ起こったか、日中戦争がなぜ起こったか。
大きな組織(国家)の話ですから、話が重層的に入り組んでいるので、あまり明快な答えが聞かれないのです。

でも、だいたい、答えは、
「庶民の命なんてこれっぽっちも気にしていない勢力が権力を握るに至ったから」
ということではないのか。
欧米諸国が戦争をやっていたので日本も戦争をやったのだ、とか、やれ植民地争いだ、経済制裁だ、世界恐慌だ、軍部暴走だ・・・とかいろいろ読みます。
きっとその通りなのだろうと思います。
でも、つまるところ、人間の命よりも優先される大事なことがあると思っている(すくなくとも、そういう言動をとる)人間が、人のうえに立ってしまったから、あのような悲惨なことが起こったのだと思う。そこが最も重要な点なのではないか。

戦争は差別だ。
僕はそう思っています。
開戦の決定をくだすのは、自分が戦場に行くことなんて考えてもみない人たちなのです。
たとえば、アイゼンハワーとスターリンとか、レーガンとブレジネフとか、ブッシュとビンラディンとか、トランプと習近平とか、安倍と金正恩とか、二人でかってにボクシングでも相撲でもいいから、やってくれたらそれでいいのです。もしそういうことなんだったら、せいぜい張り切って、頑張ってほしいものです。
でもそんなことにはなりません。
一番に、貧しい人から戦場に行きます。年齢の若い人から戦場に行きます。田舎のひとから戦争に行きます。
だから、じっさいに戦場に行くのは自分ではないと思い込んでいる世の中の大半のひとが「戦争も仕方ないだろう」って思うから開戦してしまうのでしょう。そこに戦争の本質があると思う。

いまは日本は戦争をやっていません。でも、貧富の差が拡大の一途をたどっています。それが現代の「戦争」です。
貧しい人の生活など気にしない富裕層や中間層がいるから、この「戦争」が拡大しつづけるのでしょう。
貧しい人は、ほかの貧しい人の心配をする余裕もありません。

たとえばこういうことかなと思うのです。ウーバーイーツの自転車が街をはしっている。
それで、僕はとっさにこう思う。
「あ、この近辺もウーバーイーツやってるんだ。おいしいお店はあるかな? でも、ウーバーイーツは少し割高だから、クーポンあるときだけにしておこう」
そんなことが頭にうかんでしまう。
よーするに、自分は食べるほうの側だと思い込んでいて、運ぶほうの側だとは考えない。
どうして自分は食べるほうの側だと思い込むのかというと、それは広告の力です。

これを読んでくださっている人のなかには、運ぶほうの側の視点でみている人もいるかもしれません。そういう視点が必要だと思います。
日本全体の経済をみれば、これから、「食べる人」は減って「運ぶ人」はますます増えることは間違いありません。
僕は、僕たちは、運ぶ側の人なのだ。運ぶ人なのだ。これから運ぶ人になるのだ。食べる側でもピンハネする側でもない。それは明らかなのだ。だから、運ぶ側の視点でものを考えることができないと、大変なことになってしまう。

ウーバーイーツは、これからどうなるのかな。
「運搬代は無料」っていうのを打ち出すだろう。「運搬代はウーバーイーツが負担!」かもしれない。どっちでもいい。
800円のランチに200円の一品をつけたら1000円。1000円をこえたら運搬代は無料。そんな風になるだろう。
いや、それどころか、もっとヒドいモデルも考えられます。
800円のランチ一つでも、これからは運搬代は無料。
えっ、すごいじゃん!ってなる。
よーするに規模を拡大して、価格やら賃金やらを数分刻みで「最適化」したらこれくらいのことは簡単にできる。これはひどい。これは結果的には、製造者(つくる人)と従事者(運搬する人)と購買者(食べる人)をお互いに殺し合わせるようになる。
そんな感じの作戦でくるんじゃないのか。
コンビニとかアマゾンはそうだ。
グーグルなんてもっとひどい。情報提供はすべて「無料」だ。

何が言いたいかというと、僕たちは、働く人たちの姿がみえないように仕組まれている世界に生きているということです。それがインターネットの世界、広告の世界だと思います。
それが、この貧富の差を拡大させる仕組みとして機能しているのだと思うのです。
インターネットやスマホの世界は、ドラえもんでいえば「うそつきかがみ」、ハリーポッターでいえば「みぞのかがみ」なわけだ。それをみんなで覗き込む。
そこには、本当にちゃんと働く人は映っていません。
だからこそ、自分は食べ物を運んだりすることはないと思い込むんだと思う。

僕たちは、子供によい教育をほどこしたり、不況を無くしたり、格差を無くしたりする責任がある。政府にその責任があるのだけど、政府にそれをやらせるという責任がある。これが、ぼくたち大人全員の責任。
でも、いま何がおこっているかというと、僕たちは目をつぶって、そんな問題は存在しないことにしている。
これが現代の戦争なのでしょう。

なぜ戦争が始まるのか、よくわかりません。でも、『はだしのゲン』は、戦争には、戦争をやらせる側と戦争で苦しむ側の二つの「側」があるということを明解に伝えていました。いまは、ふたたび、深い霧がかかって、それが分からなくなってきているようです。



二年半。

 
父が亡くなってから二年半になります。
僕はずいぶん父のことを誤解していました。僕は父が悪い人だと思って育ったので、ながいあいだ本当に悪い人だと思っていたのですが、思い返せば、そんなに悪い人ではなかったと、このごろ四十代も後半となりかんがえます。
それどころか、なかなか偉大な人物であったと思います。ただ、完璧ではなかったというだけです。そんなの当たり前です。

父との思い出は多いわけではありません。
たしかに、キャッチボールをしたり、自転車の乗り方を教えてもらったことをおぼえています。
小学生五年生のとき、剣道を習っていた。毎週土曜日、剣道のおわりに迎えにきてくれていた。
もう忘れていたことを、亡くなってからハッと思い出します。
ただ正直なところ、小学校高学年をすぎると、なにか僕の人生に深く関連していたような気があまりしないのです。
ほとんど重要なことはすべて母が決めていたように思います。
家にまったく居なかったような気もするし、ずっとそこに居たような気もする。
なんだかよくわかりません。
朝ごはんも、晩ごはんも、一緒に食べていたような気もするし、食べていなかったような気もする。
ひとつだけ確実に言えるのは、僕よりはるかに生真面目な人物であったので、僕が寝ているあいだに起きて、なにかひと仕事くらいは終えていた。
中学校や高校のころも、きっと、僕よりも先に出勤していたから顔を合わせていなかったのだと思う。
それをあまり憶えていない。
その、憶えていない、というのが自分で申し訳ないのです。

大学のときに、なかなか卒業できないので、僕がもう退学しちゃおうかなと言い出したことがあったらしいのです。
それで、ほとんど叱ったりしたことのない父がカンカンになり、叱られたらしい。
僕はまったく憶えていません。母がそのように言っていました。
それで僕は学校をちゃんと卒業しようと思い直したらしい。

それから、僕が、大学生のころだったか、卒業したてのころだったか、駐車禁止違反ばかりをやっていて、その通達の封筒がひっきりなしに家にとどくので、最後に父が怒った。
立派な人物にならなくていいから最低限のルールだけは守れ、と言われちゃった。

基本的にはその二つくらい。
それ以外は、叱られたことは、ほとんど無かったと思います。
ときおり、学生のころ、僕がアメリカ帝国主義ガーとか、生意気なことを言っていると、なにも知らないくせにいい加減なことばかり言うなっ、ということで、最後には顔色が曇っていたりしました。
中学のときだって高校ののときだって、学業のことやらいろいろに、父は気をもんでくれていたはずです。
でも何も言いませんでした。

僕が思うのは、きっと父は、どこかの時点で、ぜったいに叱らない、と決めたんだと思う。
きっと父は、どこかの時点で、ぜったいにああしろこうしろ言わない、と決めたんだと思う。
それから、きっと父は他人に対しても、ぜったいに怒らない、って決めたんだと思う。
他人に対して、ああしろこうしろと言わない、って決めたんだと思う。

その理由はいま分かった気はしている。
きっと、諸般の事情で、叱っても、言葉が誰にも届かなくなったんだと思う。
そうなると、いま口を開くより、いっそのこと黙ったほうが、最終的には父の真意は僕にも伝わるだろう。
父はそのように考えたのだろうと思うのです。
それくらいは考えることのできる人だったと思う。
黙るというのはつらいものです。だから、僕の人生から父の存在がある一定の程度は、消えちゃっているんだと思います。
それしか選択肢がのこされていなかったのではないかと思う。
そうしないと長期戦に勝ちのこれないから。


僕が、とくに二十代や三十代のころはチャランポランだったから、どれほど父は苦々しく思っていただろうか。
でも何も言わなかった。
僕はずっと心の底で、おかしいなあ、と思っていた。
いまは分かってきた気がする。
二十年か三十年たったあと、何が起こるか、誰がどうなるか、だいたい見えていたんだと思う。
そんなことを考えながら、誰にも伝わることのない苦しみのなかで孤独に生きたんだと思う。
逆にいえば、頭が良すぎて、誰のことも分かってあげることは無かった人生だったと思うけれども。

でもまあ、そんなことを書いたって、父も母も「いや、それはちょっと違う」って言うだろうな・・・。

六十代の後半になってからは、しょっちゅうメールをやりとりしたり、音楽のことでアドバイスをもらったり、話をすることもすこし増えた。
父の誤算は、72歳になるのを待たずして逝かなければならなかったことだ。
でも、頭のいい父だから、ぜんぶ分かっていたような気もする。
亡くなる二週間前、痩せてしまった父は、大晦日の深夜をすぎて、年を越したとき、筆談で、「来年のいまごろはどうしてるかいな?」と書いた。
そんなことを書かれて、僕は困った。いまから思えば、渾身のジョークだったのだと思う。

父の遺した大量の本やら、書類やらがまだ片付いていません。
いまは、父の部屋は、何も片付けていないから博物館の展示みたいになっちゃってる。
パソコンの中や写真も片付けている途中。
それで、ゆっくり、すこしずつ分かってくる気がしています。
むろん、父は、そんなことにこだわってはダメだ、ちゃんと仕事をしろ、前を向け、と言うと思う。
だから、出来るかぎりは、そのように努力したいと思っているところです。

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