2020年7月アーカイブ

テレビ、「お笑い」。

 

うろ覚えですが、八十年代に、永六輔がテレビ娯楽番組の劣化を憂いてこんなことを言っていました。
テレビの話芸というのは、これまでは、大体は「女性言葉」でやってきたのだと。
たとえば欽ちゃんは自分のことを「あたし」と言います。そういうものが崩れてきた。それが怖いと。
永六輔の主張の細かいところはハッキリとはおぼえていません。たしか、テレビ番組が年を追うごとに品の無い見せ物になってゆく。なんというか、テレビが優しい家庭的なものから、脅迫的で商業的なものに変わってゆく。
そのことが最も現れているのが、言葉にたいするテレビ人の態度だということでしょう。
「あたし」や「わたくし」が聞かれなくなり、「オレ」や「わたし」になってゆく。
彼が念頭においていたのはビートたけしだったろうと思います。しかしそのあと九十年代には、ビートたけしだけでなく、島田紳介やダウンタウンが大阪弁を駆使してそういう言葉の砦の破壊をおこないました。(あれが本当の大阪弁ではないというのはもっとたくさんの人に知ってほしいけれども。)
僕の感覚としては、いまは、テレビ文化の、そういう闘いがぜんぶおわっちゃった焼け野原みたいな時代に生きているという気分です。

すこし前に、海外生活のながい友人としゃべりましたら、最近日本に帰ってきたところで、テレビを見ると「ワイプ」っていうのが目障りで仕方がないということでした。
テレビ画面の右上あたりに小さく、笑ったり驚いたりしている顔が映るあれです。ああいうものは外国のテレビには無いというのです。
「ああ、あれは僕たちの顔を映している鏡のようなものです」と僕がこたえると、その友人は大爆笑していました。笑ってもらえて僕も本望でした。

ワイプも気になりますし、あとは、バラエティいわゆるお笑いでは、「大御所と若手」っていう構図がものすごく気になるのです。
この数十年くらい、スタジオでビデオを見る、っていうのが流行しているようです。 若い出演者がロケに出て、さまざまな危険な目に遭ったり、身体を張って可笑しなことをやってきたビデオを、「格上」のタレントが、鼻で笑いながらスタジオで眺めるというものです。「天才たけしの元気が出るテレビ」が始めたスタイルでしょうか。
つまり、身体を張って笑わせる側と、苦笑してあげる側がいるわけです。
なんという醜悪な見せ物なのかと思います。
もちろん、視聴者は「苦笑する側」に同化します。そのようにつくられています。そのためにわざわざ分けているのです。
「ワイプ」が視聴者に向かって感情を指図しているのと同じことでしょう。

北米やヨーロッパのテレビを見ていると、ちがうようです。トークショーなどは昔から観客をいれて生中継するものです。日本は生放送がずいぶん少なくなったのではないでしょうか。また、観客をいれるものがあっても、そちらのほうにカメラがいく頻度がとても少ないように感じます。
やはり、同化する対象を指定したいからなのでしょう。同化すべきは、スタジオ観覧をしている観客でもなく、身体をはって笑いをとろうとする「若手芸人」でもなく、それを呆れ顔でながめているベテラン芸人のほうです。
つまり、テレビの所謂お笑い番組はこういうメッセージを発しているように見える。
「とても質の低い、くだらない笑いを提供するのですが、ベテラン司会者が苦笑しているように、視聴者のみなさんも苦笑してくださればそれでいいんですよ。だって、本当に面白いものって、頭をつかったり集中力が要るでしょう? そういうのはイヤでしょう?」

僕の言いたいことは・・・
この15年くらいつづいているお笑いブーム、いつ終わるん。
僕が子供のころにあった「漫才ブーム」は2年くらいで終息したのに。
早いとこ終わってほしいわー。


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