「レボリューショナリー」について

 「革命(かくめい)」という言葉がありますが、それから想い起される人物といえば、チェゲバラや毛沢東であり、ストークリーカーマイケルやブラックパンサーであって、ひと昔まえであれば、とりあえず、「革命だー!」とか「革命をー!」とか叫んでおればそれでオーケーだろう、みたいな時代もあったのかもしれないのですが、いまの時代は、むしろそれと反対の風潮があるようで、トランプやら安倍晋三やらマクロンやら、それから橋下徹やら小池百合子やら極右政治家が、「変えてみせる!」とか「取り戻してあげる!」などと煽ることによって票をあつめて、それによって世界の平和が破壊されてゆくのをちょうど目の当たりにしているところで、まさかこんな奴らに暴れられてはたまったものではありませんから、こうなってくると「革命」よりも、とにかく十年か二十年くらい前に「戻す」ほうが急務だ、という感覚になっていて、そうなってくると、革命という言葉が、もはや魅力的でなくなってゆくのです。
 僕たちは今、そういう時代に生きているので、「革命!」などと安直に口にするのは避けたほうがよいのかな、なんて思ったりもするのですが、しかし、それこそが、世界的な潮流である右傾化にながされて左寄りの人達も一緒にすこし右へ移動しているという意味ですから、大問題です。一体どうしたものだと思っているところへ、真正面から革命をあつかっている、少なくともそのようにみえる、映画『ブラック・クランズマン』がやってきて、僕は字幕の監修というかたちで参加させてもらいました。
 この映画のなかで、「革命」という言葉を連発していて、主人公は、どうしようもない、寝ぼけている反革命の警察官なのですが、そのガールフレンドは革命家で、ストークリーカーマイケルを招聘して演説会をおこなったり、マイクロフィルムを覗いて戦前のリンチ事件について語り継ぐ会を催したり、ブラックパワーのデモを行っているところが描かれます。それが時代の要請なのかアナクロニズムなのか、わざとよくわからないかんじになっていて、それこそがまさに本作の問いかけているところのようです。
 革命なんていうと、民衆が武装蜂起をして政治家や軍人を殺してしまうようなものが想像されるかもしれませんが、僕が思うには、そしてスパイク・リーもそう賛同してくれるだろうと勝手に思うには、もっとも現実的でかつ最近に発生した「革命」は、一九六三年八月のワシントン大行進をピークとする「公民権運動」です。これは翌年の公民権法の制定という大成果につながったデモ運動でした。これを、革命と呼ぶのです。革命というのは、一回で終わりではなくて、たくさんのプロセスを経るもの、たくさんのプロセスで成り立っているもの、という考えかたです。そして、そのプロセスの一つ一つもまた、革命と呼ばれるんじゃないかなと考えているのです。
 ですから、たとえば、僕がバスのなかでお年寄りに席を譲ったとか、選挙の日に投票所へ出向いたりしたときに、「これも革命の一つだな」なんて心のなかで思っちゃったりしているわけですが、しかし、そんな大人だったら当たり前のことをわざわざ「革命」なんて呼んでいることが他人にバレてしまうと、ものすごく恥ずかしいでしょう。革命と呼べば大袈裟になっちゃうものについては、《まともなことをしました》《良いことをしました》くらいで適当です。しかしそのような、素朴な言葉だと、よい意味でもわるい意味でも、言葉の範囲が小さすぎて、日常の「良いことをする」こそが革命の一部にほかならないということを、僕自身が忘れてしまいそうで、そうなると、一番最初に書いたようにこの大きな資本主義に他分にもれず飲み込まれていくようで、なんとかして別の言葉をつかって上手く言い表すことができないかなあ、と考えているわけで、そうすると目の前には、〈レボリューショナリー〉という言葉がある。つまり、「革命」に「的」をくっつけて、〈革命的(かくめいてき)〉ということである。つまり「レボリューション」というのは、本当は恥ずかしがってはいけないのですが、やはり恥ずかしいので、そういう理由で「レボリューショナリー」と呼んだのかどうか知りませんが、とにかく、いちおう、僕の思っていたモヤモヤをさらりと拭いさってくれる。
 「あの映画はレボリューショナリー」とか「けっこうレボリューショナリー」とか、「レボリューショナリーなところとカウンターレボリューショナリー(反レボリューショナリー)なところ」などというふう使えて、これは非常に良いと僕は思った。効果的だと思った。なぜそれが効果的なのかという理屈をほかの用語で説明してみると、たとえば、なにかを讃えたりするときに「素晴らしい!」なんていうのですが、この「素晴らしい」は、あまりにも自分も他人も、常日頃から連発しているので、手垢がついている訳ではないけれど、やはり、もっといい言葉があったはずだ、と悔しい気分になる。しかし小難しい言葉を使うと、実直な美しさが逃げてゆくようなので、少し違った戦法にでることにして、たとえば、「もしかして、本当に素晴らしい物ってこういうものかもしれません。」とかなんとか、わざと一歩さがってみることによって、むしろ真に迫るんじゃないか、みたいな、すこし小賢しいことかもしれないけれど、そういう雰囲気で、闘うツールになるんじゃないか、みたいなことです。
 くりかえしになりますが、そういうことで、レボリューションと云うほうが本当はレボリューショナリーなのですが、レボリューショナリーと云うカウンターレボリューショナリーな言葉のほうが今はレボリューショナリーではないか、いやちがった、レボリューションではないか、ということです。



2021年1月

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