『パラサイト』は、なかなか良かったと思いました。
星は三つ半くらいでしょうか。いや、三つくらいでしょうか。
面白かったと思うのですが、アカデミー賞作品賞などといって大フィーバーするほどのことでも・・・と思うのですが。そこが問題です。
ジョーダンピールの『US』や『ゲット・アウト』に類して、寓話的というか、よーするに「世にも奇妙な物語」みたいな。
それもよいのですが、それだけだったらテレビで30分くらいで描けてしまうやん、となります。したがって、本編のさいごで、豪雨がやってきて貧民街のほうへ水が流れおちてゆくシーンなどが重要になってくる。迫力がありました。あの水はなんだろう・・・。逆トリクルダウン。「うえから落ちてくるのは、泥水ばかり」。
そういえば、もう七、八年前になるけれど、NHKスペシャルでこんなのをやっていました。
日本人のIT長者がシンガポールに住んでいる。税金がすくないから。フェラーリに乗って朝食を食いにいく。朝飯のために1時間も車をとばして隣のマレーシアまで行く。そこで一杯数百円のラーメンを食べる。
核心をついたレポートでした。
富はうえから落ちてこない。
企業が潤えば国全体が潤う、というのは、政府も一緒になってまき散らした大嘘なのだ。
そんなこと最初から分かっていたのに!
『パラサイト』も『ジョーカー』も『US』もいいけれど(僕は『万引き家族』観ていません・・・。観ます!)、そんな、フェラーリで数百円の朝飯を食いにいく鬼畜の映画をつくってもいいんじゃないでしょうか。
さて、映画で一番印象に残っているのは、ソンガンホ演ずるお父さんがリビングルームから脱出するシーン。社長と社長夫人が寝ている傍のテーブルの下に隠れていて、そこから匍匐前進(ほふくぜんしん)で、逃げる。
ハラハラさせられる。
なぜか分からないけど、ひさしぶりに映画を観てハラハラドキドキさせられた。子供のころには、映画とはそういうものだった気がするのだが、最近は少ない。僕が大人になってしまったからだ。
このシーンで、監督から「ほらね、映画ってこんなに楽しいものでしょう? こういう要素もなければ映画っぽくないよね」と優しく語りかけられているような気がして、とても有り難い気分になった。
ただただ居間で中年男が身体をひきずりながら前に進んでいるだけのシーンなのに、何億円もかかっている戦争映画のような大スペクタクルを連想させる。
きっと、わざと、そうしてるんだろう。娯楽映画というものを斜に構えて皮肉をまじえて提示しているのだろう。そんな気がしました。
ピザの箱を組み立てている貧困家庭。IT長者の富裕家庭。さらに一番下の、見えない階層にいる夫婦。みんな同じく「家族」なのに、収入が極端に違う。階層が違う。階層は固定化している。 さいごのホームパーティでの惨劇はよくできていた。
クライマックスで、ついに登場人物が全員、一同に介する。映画あるある。
僕がひっかかっていることを書きます。
それは「アメリカ」です。それから、子供が気に入っている「アメリカ製のインディアンのおもちゃ」です。
この映画は、徹頭徹尾、アメリカを賛美している。もちろん、これはアメリカを批判する映画です。でも、ほめ殺しというのか、とにかく持ち上げている。
友人がアメリカに留学する。兄は英語の家庭教師。妹はシカゴ大学の研究者を偽る。富裕家族はカタコトの英語をしゃべっている。
この三家族が示している階層の、そのまた上にアメリカ合衆国という資本主義(狭義には新自由主義経済)の親玉が控えていることを示している。
僕が納得のいかないのは、そのアメリカを悪玉として提示していないじゃないか、ということです。 この映画ではアメリカは善とも悪とも定められていない。
不気味に、姿をあらわさないが、すべてを支配している全能者として映画の基調を成している。
だから、この映画をアメリカ人がみたら、悪い気分はしないと思うのです。
必要もないのにアジア人が日常で英語をつかっている。やはり、立身出世して特権階級に居続けるには英語だ。
「アメリカに行くことになりました」とか「アメリカから来ました」というだけで、人々がひれ伏す世界を描いている。
やっぱり、アメリカ人がみたら、胸くそが悪くなる映画をつくらなくてはいけなかったのじゃないのか? もちろんそれは監督のセンスです。でも、そういう批判もあってしかるべきだと思います。 そしてこの映画はなんとアカデミー賞を獲得しました。
そんな間の抜けた、恥ずかしい話があるか、と思う。
アジア人がアメリカを賛美している映画をつくって嬉々として賞を受け取る。
(どちらとも言っていないが、どちらとも言っていないならこの場合、「賛美」と誹られても言い訳できないでしょう。)
いや、もしかしたら(たぶん)、アカデミー賞を狙って製作されたのが本作なのではないか。
映画業界のことなんて分からないけれど、製作会社だってアカデミーだって、みんなボンクラじゃないのだ。僕はそのように訝しく思います。
それならば、こんな恥ずかしい映画があるか、ということになる。
いや、ちがった。そんな映画しかアカデミー賞をとることが出来ないということでしょう。
肝心の「インディアン」の話をします。
この映画では、富豪の息子がキーパーソンになっていますが、彼は、二つの貧困家庭を見ることができる、目に映るという存在です。両親は、成功した大人なので世の格差社会に目をつぶっていますが、子供はそのような悪いしぐさが身についていないのでしょう。
その彼が「インディアンごっこ」をします。それは何を表しているのでしょう。
まずオカシイと感じるのは、やはり、インディアン(アメリカ先住民)がステレオタイプで描かれていることです。羽飾り、テント、弓矢など。現代のインディアンの視点が抜け落ちている、侮辱的ともいえるものです。これは、差別や格差社会をとりあげている映画としてまったくふさわしくない。
監督や製作者は、アメリカで成功しているアタマのいい人たちなのですから、そんなことは十分承知しているでしょう。つまり、わざと、でしょう。それは何故か?
この作品が、富か階級というものによって人間の価値や命のゆくえが決まってしまうことを批判している映画なのであれば、インディアンは一体何を示しているのか。
侵略される者のメタファー・・・? アメリカ資本主義に蹂躙される韓国をあらわしている・・・? 誰だって、まずはそれを疑うでしょう。でも、そんな単純な風にも見えません。もしそうなら、がっかりもいいところです。
インディアンごっこをする息子は、なにかしら両親に対して、反抗・反逆ののろしをあげている様子です。
しかし、彼は富豪夫婦の子供なのですから、結局なにも出来ませんし、しません。
しかも「アメリカ製のおもちゃ」という但し付きです。なんじゃそりゃ。馬鹿にされたような気がします。
上記を重ね合わせて思えば、このインディアンのおもちゃは、この映画そのものを表しているという気はします。
つまり「アメリカ製のおもちゃ」が「アメリカを批判する」けれど「もちろん歯もたたない」。そもそも、「戦う気があるのかどうかも分からない」。なにせアカデミー賞狙いの本作です。
だからこそ、つまり、わざわざステレオタイプでトンチンカンな、批判するほうも腰が砕けるような、自嘲のメタファーになっているのではないか。
なんだか、『ブラック・クランズマン』のときと同じ、「映画はアカン」みたいな話になってきた。どうなんだろう。
星は三つ半くらいでしょうか。いや、三つくらいでしょうか。
面白かったと思うのですが、アカデミー賞作品賞などといって大フィーバーするほどのことでも・・・と思うのですが。そこが問題です。
ジョーダンピールの『US』や『ゲット・アウト』に類して、寓話的というか、よーするに「世にも奇妙な物語」みたいな。
それもよいのですが、それだけだったらテレビで30分くらいで描けてしまうやん、となります。したがって、本編のさいごで、豪雨がやってきて貧民街のほうへ水が流れおちてゆくシーンなどが重要になってくる。迫力がありました。あの水はなんだろう・・・。逆トリクルダウン。「うえから落ちてくるのは、泥水ばかり」。
そういえば、もう七、八年前になるけれど、NHKスペシャルでこんなのをやっていました。
日本人のIT長者がシンガポールに住んでいる。税金がすくないから。フェラーリに乗って朝食を食いにいく。朝飯のために1時間も車をとばして隣のマレーシアまで行く。そこで一杯数百円のラーメンを食べる。
核心をついたレポートでした。
富はうえから落ちてこない。
企業が潤えば国全体が潤う、というのは、政府も一緒になってまき散らした大嘘なのだ。
そんなこと最初から分かっていたのに!
『パラサイト』も『ジョーカー』も『US』もいいけれど(僕は『万引き家族』観ていません・・・。観ます!)、そんな、フェラーリで数百円の朝飯を食いにいく鬼畜の映画をつくってもいいんじゃないでしょうか。
さて、映画で一番印象に残っているのは、ソンガンホ演ずるお父さんがリビングルームから脱出するシーン。社長と社長夫人が寝ている傍のテーブルの下に隠れていて、そこから匍匐前進(ほふくぜんしん)で、逃げる。
ハラハラさせられる。
なぜか分からないけど、ひさしぶりに映画を観てハラハラドキドキさせられた。子供のころには、映画とはそういうものだった気がするのだが、最近は少ない。僕が大人になってしまったからだ。
このシーンで、監督から「ほらね、映画ってこんなに楽しいものでしょう? こういう要素もなければ映画っぽくないよね」と優しく語りかけられているような気がして、とても有り難い気分になった。
ただただ居間で中年男が身体をひきずりながら前に進んでいるだけのシーンなのに、何億円もかかっている戦争映画のような大スペクタクルを連想させる。
きっと、わざと、そうしてるんだろう。娯楽映画というものを斜に構えて皮肉をまじえて提示しているのだろう。そんな気がしました。
ピザの箱を組み立てている貧困家庭。IT長者の富裕家庭。さらに一番下の、見えない階層にいる夫婦。みんな同じく「家族」なのに、収入が極端に違う。階層が違う。階層は固定化している。 さいごのホームパーティでの惨劇はよくできていた。
クライマックスで、ついに登場人物が全員、一同に介する。映画あるある。
僕がひっかかっていることを書きます。
それは「アメリカ」です。それから、子供が気に入っている「アメリカ製のインディアンのおもちゃ」です。
この映画は、徹頭徹尾、アメリカを賛美している。もちろん、これはアメリカを批判する映画です。でも、ほめ殺しというのか、とにかく持ち上げている。
友人がアメリカに留学する。兄は英語の家庭教師。妹はシカゴ大学の研究者を偽る。富裕家族はカタコトの英語をしゃべっている。
この三家族が示している階層の、そのまた上にアメリカ合衆国という資本主義(狭義には新自由主義経済)の親玉が控えていることを示している。
僕が納得のいかないのは、そのアメリカを悪玉として提示していないじゃないか、ということです。 この映画ではアメリカは善とも悪とも定められていない。
不気味に、姿をあらわさないが、すべてを支配している全能者として映画の基調を成している。
だから、この映画をアメリカ人がみたら、悪い気分はしないと思うのです。
必要もないのにアジア人が日常で英語をつかっている。やはり、立身出世して特権階級に居続けるには英語だ。
「アメリカに行くことになりました」とか「アメリカから来ました」というだけで、人々がひれ伏す世界を描いている。
やっぱり、アメリカ人がみたら、胸くそが悪くなる映画をつくらなくてはいけなかったのじゃないのか? もちろんそれは監督のセンスです。でも、そういう批判もあってしかるべきだと思います。 そしてこの映画はなんとアカデミー賞を獲得しました。
そんな間の抜けた、恥ずかしい話があるか、と思う。
アジア人がアメリカを賛美している映画をつくって嬉々として賞を受け取る。
(どちらとも言っていないが、どちらとも言っていないならこの場合、「賛美」と誹られても言い訳できないでしょう。)
いや、もしかしたら(たぶん)、アカデミー賞を狙って製作されたのが本作なのではないか。
映画業界のことなんて分からないけれど、製作会社だってアカデミーだって、みんなボンクラじゃないのだ。僕はそのように訝しく思います。
それならば、こんな恥ずかしい映画があるか、ということになる。
いや、ちがった。そんな映画しかアカデミー賞をとることが出来ないということでしょう。
肝心の「インディアン」の話をします。
この映画では、富豪の息子がキーパーソンになっていますが、彼は、二つの貧困家庭を見ることができる、目に映るという存在です。両親は、成功した大人なので世の格差社会に目をつぶっていますが、子供はそのような悪いしぐさが身についていないのでしょう。
その彼が「インディアンごっこ」をします。それは何を表しているのでしょう。
まずオカシイと感じるのは、やはり、インディアン(アメリカ先住民)がステレオタイプで描かれていることです。羽飾り、テント、弓矢など。現代のインディアンの視点が抜け落ちている、侮辱的ともいえるものです。これは、差別や格差社会をとりあげている映画としてまったくふさわしくない。
監督や製作者は、アメリカで成功しているアタマのいい人たちなのですから、そんなことは十分承知しているでしょう。つまり、わざと、でしょう。それは何故か?
この作品が、富か階級というものによって人間の価値や命のゆくえが決まってしまうことを批判している映画なのであれば、インディアンは一体何を示しているのか。
侵略される者のメタファー・・・? アメリカ資本主義に蹂躙される韓国をあらわしている・・・? 誰だって、まずはそれを疑うでしょう。でも、そんな単純な風にも見えません。もしそうなら、がっかりもいいところです。
インディアンごっこをする息子は、なにかしら両親に対して、反抗・反逆ののろしをあげている様子です。
しかし、彼は富豪夫婦の子供なのですから、結局なにも出来ませんし、しません。
しかも「アメリカ製のおもちゃ」という但し付きです。なんじゃそりゃ。馬鹿にされたような気がします。
上記を重ね合わせて思えば、このインディアンのおもちゃは、この映画そのものを表しているという気はします。
つまり「アメリカ製のおもちゃ」が「アメリカを批判する」けれど「もちろん歯もたたない」。そもそも、「戦う気があるのかどうかも分からない」。なにせアカデミー賞狙いの本作です。
だからこそ、つまり、わざわざステレオタイプでトンチンカンな、批判するほうも腰が砕けるような、自嘲のメタファーになっているのではないか。
なんだか、『ブラック・クランズマン』のときと同じ、「映画はアカン」みたいな話になってきた。どうなんだろう。