「安倍総理が責任をとらない。」

昔から云われていることですが、とにかく、日本では「責任」という言葉の意味がさだまっていないのではないか。
そこに問題があるのではないでしょうか。

「責任をとる」ってどういう意味だろう?
「責任をもつ」ってどういう意味だろう?
それから、「あやまる」ってどういう行為だろう?
「許す」ってどういう意味だろう?
「許さない」ってどういう意味だろう?
「つぐなう」ってどういう意味だろう?
「保障」とか「保証」とか「補償」とか・・・どう違うんだ?
これがいつもぼやけています。
だから、誰も責任をとらないし、誰も責任を持たないし、責任がどこにあるのかも分からない。
責任とは何か、が分からないので、責任のとりようがない。
なにを謝っているのか分からないまま、みんな謝りつづけている。
反省も補償も誓いも無くたって、謝っている人は許さなくてはいけない。
または、一生懸命あやまっているのに、なぜ弁済させられるんだと腹をたてる。

こんなのばっかり。
「責任」という、この使いづらい外来語の意味を、誰かが決めてくれなくては、日本はいつまでたっても、この状態だと思います。
もっとも責任をとらない人間が、もっとも責任の重い場所にいる。
上にいけばいくほど責任は重いはずなのに、いつだって責任は下へ下へと送られる。
それは、安倍晋三にかぎったことではなくて、官でも民でも、上から下まで、いたるところで散見される話です。

「責任をもつ」というのは、その人がそれをやる、という意味です。
「責任をとる」というのは、本来は、ひきおこされた損失をその人がひきうける、という意味です。

責任をもつ、つまり「依頼されて、その人がそれをやる」っていうことが何より大事なのです。
首相だったら、国民の依頼にもとづいて行政府の長として様々な職務をおこなわなくてはいけない。
それが出来ない場合は交替しなくてはいけないのです。
でも、みんな「やる責任」の話はせずに「とる責任」の話ばかりする。なぜだろう。
「だれが責任をとるんだ!」とか「責任をとれ!」とか。
「なにかあったら責任をとれません!」とか。
「責任をとれば済むということではない。私には責任があるのです」などとわけのわからないことを言うやつもいる。
(日本人は、やっぱり、究極的には切腹が好きなんだろう。謝ってタダでおわらせるか、死してお詫びするか、頭のなかに二択しかないんだろう。)

で、どうなるかというと、誰も「責任のとりかた」が分からないので、誰も責任をとらない。
誰にも分からないので、誰かが謝ったら終わりになってしまう。
反省がない。同じことをくり返す。

僕は「責任をとる」なんか、無くていいと思う。
失敗したら、やめさせる人がやめさせるなり、減給させる人が減給させるなり、すればいいだけだ。
その責任をもつ人がそれをやらないから問題なのだと思う。

「謝る」の意味だってそうです。
この言葉の意味不明さに、そろそろ、日本じゅうがモヤモヤしてるところなのではないのか。
謝るのは、悲しいという気持ちを伝えることです。
謝ればそれで済むということになっている。
でも本当の「謝る」は、弁済や誓約とセットでないと成立しません。
感情として悲しいと口では言うが、行動としては何もしないし、何故それがおこったか分析も反省も理解もない、誓いもない、では子供の遊びです。
でも、ふつう、その先にはいわゆる逆ギレがある。「ではどうしろと!?」となる。
これが日本文化の迷路。「ゴメンナサイ論」。「責任論」。

ひょっとして、企業研修で、迷路の答えをしっかり教えたら効果あるんじゃないの。
そうしたら、会社の組織も強化されるだろうし、外国企業ともやりあえる力がつくんじゃないか。
それが日本をおおっているモヤモヤを取り払う、てっとり早い方法だろう。
本当は、企業研修なんてやってる場合じゃないけど。

結論としては、安倍晋三とは、「責任をもつ」という近代的な能力はまったくない男であり、「責任をとる」というサムライ精神のかけらもない男なのである。


2020年10月

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