2020年4月アーカイブ

「安倍総理が責任をとらない。」

 
昔から云われていることですが、とにかく、日本では「責任」という言葉の意味がさだまっていないのではないか。
そこに問題があるのではないでしょうか。

「責任をとる」ってどういう意味だろう?
「責任をもつ」ってどういう意味だろう?
それから、「あやまる」ってどういう行為だろう?
「許す」ってどういう意味だろう?
「許さない」ってどういう意味だろう?
「つぐなう」ってどういう意味だろう?
「保障」とか「保証」とか「補償」とか・・・どう違うんだ?
これがいつもぼやけています。
だから、誰も責任をとらないし、誰も責任を持たないし、責任がどこにあるのかも分からない。
責任とは何か、が分からないので、責任のとりようがない。
なにを謝っているのか分からないまま、みんな謝りつづけている。
反省も補償も誓いも無くたって、謝っている人は許さなくてはいけない。
または、一生懸命あやまっているのに、なぜ弁済させられるんだと腹をたてる。

こんなのばっかり。
「責任」という、この使いづらい外来語の意味を、誰かが決めてくれなくては、日本はいつまでたっても、この状態だと思います。
もっとも責任をとらない人間が、もっとも責任の重い場所にいる。
上にいけばいくほど責任は重いはずなのに、いつだって責任は下へ下へと送られる。
それは、安倍晋三にかぎったことではなくて、官でも民でも、上から下まで、いたるところで散見される話です。

「責任をもつ」というのは、その人がそれをやる、という意味です。
「責任をとる」というのは、本来は、ひきおこされた損失をその人がひきうける、という意味です。

責任をもつ、つまり「依頼されて、その人がそれをやる」っていうことが何より大事なのです。
首相だったら、国民の依頼にもとづいて行政府の長として様々な職務をおこなわなくてはいけない。
それが出来ない場合は交替しなくてはいけないのです。
でも、みんな「やる責任」の話はせずに「とる責任」の話ばかりする。なぜだろう。
「だれが責任をとるんだ!」とか「責任をとれ!」とか。
「なにかあったら責任をとれません!」とか。
「責任をとれば済むということではない。私には責任があるのです」などとわけのわからないことを言うやつもいる。
(日本人は、やっぱり、究極的には切腹が好きなんだろう。謝ってタダでおわらせるか、死してお詫びするか、頭のなかに二択しかないんだろう。)

で、どうなるかというと、誰も「責任のとりかた」が分からないので、誰も責任をとらない。
誰にも分からないので、誰かが謝ったら終わりになってしまう。
反省がない。同じことをくり返す。

僕は「責任をとる」なんか、無くていいと思う。
失敗したら、やめさせる人がやめさせるなり、減給させる人が減給させるなり、すればいいだけだ。
その責任をもつ人がそれをやらないから問題なのだと思う。

「謝る」の意味だってそうです。
この言葉の意味不明さに、そろそろ、日本じゅうがモヤモヤしてるところなのではないのか。
謝るのは、悲しいという気持ちを伝えることです。
謝ればそれで済むということになっている。
でも本当の「謝る」は、弁済や誓約とセットでないと成立しません。
感情として悲しいと口では言うが、行動としては何もしないし、何故それがおこったか分析も反省も理解もない、誓いもない、では子供の遊びです。
でも、ふつう、その先にはいわゆる逆ギレがある。「ではどうしろと!?」となる。
これが日本文化の迷路。「ゴメンナサイ論」。「責任論」。

ひょっとして、企業研修で、迷路の答えをしっかり教えたら効果あるんじゃないの。
そうしたら、会社の組織も強化されるだろうし、外国企業ともやりあえる力がつくんじゃないか。
それが日本をおおっているモヤモヤを取り払う、てっとり早い方法だろう。
本当は、企業研修なんてやってる場合じゃないけど。

結論としては、安倍晋三とは、「責任をもつ」という近代的な能力はまったくない男であり、「責任をとる」というサムライ精神のかけらもない男なのである。


マスクとスマホ。

 
マスク二枚でみんな怒っています。僕も怒り心頭です。
唐突かもしれませんが、マスク二枚で思うのは、これってスマホちゃうん・・・みたいな。
なんか、似ています。

映画『パラサイト』の冒頭で、スマホの電波をたぐっている兄と妹が描かれていました。
たいへんな貧困のなかにあっても、スマホは持っていて「世界とつながっている」「大量の情報を取得できる」という環境にある。・・・それは、僕たちがやったことではなく、誰かがやったことなのだ。
やっぱり思うのは、産業革命が貧富の差を生んだように、IT革命が貧富の差を生んでいるんだろうと思います。

マスクを配っておけば、あとは自己責任で、みたいな。
スマホさえ行き渡っていれば、あとは自己責任で、みたいな。
つまり、収入がすくないときにそれは自分の責任だと思い込む。
本当は景気や経済政策など、さまざまな大きな要因(なにより大きな格差)のなかに生きているのに。
情報はある。だから、瞬発的に行動して収入につなげることのできない各個人がわるいのだと。
本当は情報なんて無いし、情報があってもどうしようもないことだらけなのに。
そこを悪用しているのが、ホリエモンとか橋本徹とか、そういうたぐいの輩だと思います。
おれが教えてやるよ、とカモに拝金教みたいなのを広めている。

スマートフォンを使っていることは悪くないのです。
もちろん、僕もスマートフォンを持っています。
スマホに反対することとスマホを使用することは、矛盾しません。たとえて言えば、何パーセントかは原子力発電でつくられた電気を毎日つかっている人が、「原子力発電反対!」と訴える。それは当然のことです。
あ、そもそも、マスクの配給に反対しても、そのマスクを装着するのは悪いことであるはずがありません。

マスクはスマホだ。スマホはマスクだ。
そういえば、スマホを格安にしたのはスガ官房長官でしたか。同じような理屈でしょう。

でも、マスクに対しては、国民は怒っています。
当然です。あまりにもバカにされたもんだと。
いつか、人々がスマホに怒るときがくると思います。100年後くらいに、そういう時が来ると思います。
産業革命や都市化が貧富の差を生んだことを100年くらい経ってから怒ったように。
・・・もちろん、いま怒るべきだけと思うけど!


映画『US』

 

image_US.jpg

僕は『US』はとても良かったと思っています。
星はいまのところ、四つくらいかな。いや、三つ半くらいか。
なにが良かったって、ラストの空撮がよかった。はるか向こうのほうまで繋がっているのです。
革命です。あれを見て、1963年のほうを思い出す人のほうが多いでしょう。86年のほうではなく。
むろん、63年のほうはヨコ一列でなくて、もっと幅のある行列のかたちをしていました。
だからフォームがちがいます。でも、やっぱり、63年のほうを思い出さなくてはいけないのだと考えます。
63年のほうを思い出して、どこが違うのか、を考えることが重要なのだと思う。
訴えの内容はどう違うのか?
規模や効果はどう違うのか?
なにより、五〇年まえとくらべて、前進しているのかしていないのか?

このさい、86年がどうだったかなんて、とるに足らないことなのです。
それは監督が子供の頃に体験したもので、よくもわるくも脳裏に焼き付いているのでノスタルジーとして、小ネタとして、オタクごころで、採りあげただけなのでしょう。
80年代のほうも、それはそれなりの成果があったはずです。それは素晴らしいことだと思います。
でも、いまや、反省したり、乗り越えるために存在するものであって、わざわざ讃える必要はありません。
僕はそう考えます。あれは物語の中心ではあるが、ネタとしては小ネタにすぎないと。
あれを入り口として観る者に考えさせるための小道具にすぎません。

この映画は欠点も多い。一番おおきな問題点は、革命がカタストロフィックに描かれていること。暴力革命であることです。赤い者たちが人を殺してまわっている。赤い者たちは、怖がらせるのは上手だけど実際には人に手をかけない、という存在であるべきではなかったか。非暴力革命にしなくちゃいけないのに。
いくらコメディでも、暴力革命を描いてしまえば、それはただの映画、つまりエンターテイメントになってしまいます。
(この点で、『スウィート・スウィートバック』は秀逸だったのです。実際の革命がおきるところまで行かずに映画が終わってしまうので。)
そういえば、『ジョーカー』は、おなじく、格差問題を描く映画でしたが、あちらは暴動を描いた映画でした。暴動を描くならそれはそれで良いと思う。暴動は起こるものであるから。「暴動寸前だぞ」と警告のメッセージは悪くなかったと思う。
『パラサイト』は、革命の話ではなく、いち家庭のサバイバルのはなしだった。最後にお父さんが暴発してしまいます。なんとか警察からは逃げのびるけれども、いくらもがいても最終的には階級構造のなかから抜け出せないことを示していました。(ラストで描かれる息子の救出劇は「不可能な妄想」だと思います。「希望を描きたいけど希望が描けないという希望」ということでしょう。)
『US』は、革命の映画です。ならば革命を描かねばならなかったと思います。でも、やっぱりエンターテイメント映画だった。いや、言い方がちがう。エンターテイメント映画のなかに革命を描き込むのが中途半端だった。

ホラーと思わせておいてコメディ。
コメディと思わせておいてレボリューション(レボリューショナリー)。
そこまでやってほしかった。
たしかに最後の空撮は、カッコよくて、爆笑で感動だったのだけれど。
『スウィート・スウィートバック』なら、
ポルノと思わせておいてアクション。
アクションと思わせておいてレボリューション。
そんなふうが良いのではないでしょうか。

さて、この映画の素晴らしいところはなにかというと、このタイトルが『US』というところです。
つまり「抑圧されている人々は、わたしたちである」と言っているのです。
「あの人とわたしで、わたしたち」という意味ではなく、「あの人たちはわたしたち」すなわち「あの人はわたし」という意味です。
映画の評論では「ドッペルゲンガー」とか「デカルコマニー」とか云うのを耳にするのですが、そんなのは演出の問題なので、ほんと、どうでもよいのです。メッセージが薄れてしまうだけのような気がします。もし監督がそんなのにこだわっているのだとしたら(すこしその様子があるが)、僕はがっかりです。

これは、このブログでも前に採り上げたステイプルシンガーズの曲「RESPECT YOURSELF」とまったく同じフレージングです。「あの人は自分自身なんだよ、あなたが自分自身を大切にできないなら、いったい誰があなたのことを大切にしてくれるの?」という歌でした。つまり、(アメリカ黒人の)団結をうたっています。団結という言葉をひっくりかえしているわけですね。
この歌は、基本的には、アメリカの黒人どうしは「自分自身どうし」としていたわり合わなければいけない、という意味なのですが、これは「おなじアメリカ人」でもよいし「おなじ人間」でも構いません。また、「おなじ労働者」でもかまいません。
http://osakamonaurail.com/nakata/2017/06/respect-yourself-1971.html

「団結」や「連帯」という言葉とほぼ同じなのですが、その先をゆくような意味でしょう。「他人だけれども手をつなごう」も「あの人はじつは私自身」も「個人として尊重される」も、結局のところおたがいに矛盾しないのです。
僕は、たまたま、ここに生まれただけなのだ。あの人だって、たまたま、あそこに生まれただけなのだ。僕はあの人なのだ。

この映画『US』は、アメリカ黒人の解放の映画ではなくて、アメリカの格差社会のことをテーマにしています。だから「US(アメリカ合衆国)」なのでしょう。「おなじアメリカ人なのだ」という意味です。
言うまでもなく、日本に住む僕なんぞから見れば、それは視野が狭すぎるやろ、と思ってしまいます。
しかし、理屈は間違っていないといえるでしょう。「アメリカ人は手をとりあおう。」「世界中の人たちは手をとりあおう。」いや、手をとりあおうどころか、もともと一つだった(またはこれから一つになる)自分自身なのだ、ということです。

クローン人間がどうのこうの、みたいな設定はげんなりしましたが、ラストシーンの絵柄だけが僕の心にのこっています。それから、最初に、夜に攻めてくるときの時点で家族が手をつないでいるのが良かった。何回みても笑いがこみあげてきます。

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