太平洋戦争開戦の前夜、自由がうしなわれてゆく様をえがいたお芝居を見終えて、すっと戻った現実の世の中では、イベントの自粛要請や休学要請で大騒ぎしているので、まるで、突然この世界のうえに芝居小屋の屋根ができたような、もしくは、僕たちが芝居の舞台に乗っかっているような不思議な気分になりました。
戦争と伝染病はまったく意味が違うのかもしれませんが、やはりよく似ている点があると思います。それを僕たちは見過ごしてはいけないと思います。
それは、あの「自粛」というやつです。
政府は、コンサートなどの催し物の、自粛要請をだします。中止命令はだしません。
休学命令はださずに、休学要請をだします。
感染をふせぐために必要なことであれば、専門的知識にもとづいて「命令」をだせばよいのですが、否、命令をださねばならないのですが、政府は何故かそのような行動をとりません。
命令をだせば責任をともなうからです。
自粛という空気を煽るほうが、簡単なのでしょう。国民が国民を監視しあうほうが国の隅々までいきわたるし、なにより、政府はなにも責任をとらなくて良いのです。
その命令が適切でなかったことが後に判明したら誰が辞任するのか。
休学にあたって学校の先生はどうしたらよいのか。
給食をたべることのできない子供は大丈夫なのか。
日中に子供を預かる体制はどこまで政府が支援するのか。
給食センターであまった食料をどうするのか。
コンサートなどの中止にともなう金銭的な補償は何かあるのか。
中止命令にしたがわない者にたいしてどのような罰則をもうけるのか、もうけないのか。
そして何より、上記のようなことにたいして、政府への批判がたかまったとき、なんと説明するのか。
こういう責任をすべて有耶無耶にしてしまうのが、この国の政府のやりかたです。
これこそまさに、大西巨人が云っていた《累々たる無責任の体系》というやつでしょう。
誰も責任をとらずに問題を下へ下へと押し付けるという日本社会の本質。
『きらめく星座』は、時代の空気にのまれて結局は権力のいいなりになってしまうという運命のなかで、庶民がさいごの力をふりしぼっているところを描いていたと思います。
伝染病の発生は、政府が悪いわけではありません。
しかし、国の一大事があれば、政府はことなかれ主義ですぐさま責任をほうりなげて国民に押しつけ、そして国民はすすんでお互いの監視をはじめてしまうということを、ふたたび目の当たりにしているように思います。
せっかくだから、この機会によく見ておくべきだと思います。このような世界規模の危機が訪れたとき、政府がどのように逃げてゆくかを。