安倍政権の記憶

 あの写真、「桜を見る会」の、なにがそんなに楽しいのですかと尋ねずにはおれないあの大きな笑いに溢れた、安倍晋三が晴れ晴れしく人々にとりかこまれている絵づらほど、この十年の日本の落日をあらわしているものはないように思えます。僕からピューリッツァー賞を差し上げたい。ああいった写真は「民衆の記憶」として後世に伝えられてゆくと思う。

 安倍長期政権によって日本はいったいどう変ったか。それは、「首相」というものが、エライものであり、有り難いものになった。知己を得ると何かイイことがあるものになった。首相とつながっている者は得をすることができて、首相にたてつく者は損をすることになった。
 もちろん、そんな考えは間違っていると誰もが理解しています。そういうのは江戸時代の考えで、もう百年以上前におしまいにしたはずでした。
 でも、しきたりというのは実は簡単に変わってしまう。短いあいだにパッとひろがったようでした。まるで古くから日本にそんな慣わしがあったかのように。

 森友事件や加計学園疑獄だけのことではありません。
 だいたい、「自公連立政権」なるものだってそうじゃないのか。公明党にはじまり、維新の会や幾多の極右政党がぶらさがっている。安倍官邸につうじていればトクをする、そうでなければソンをするということを、まるで、わざわざ絵に描いて国民に説明しているようです。
 オリンピックだって同じです。放射能は完全にコントロールされているなどとウソをついて誘致したのは子供にも知れ渡ってるでしょう。しかし、その嘘のことは忘れなければならない。オリンピックの権限の中枢にパイプをもつ者はトクをして、そうでなければソンをすると誰しもが考えている世の中になったのです。
 よこしまな心を持つ人々が我れ先にと権力の中枢にちかづこうとした。それがあの「桜を見る会」のプロパガンダ写真があらわしているものです。

 国がこのような段階にあるとき、安倍のように矮小な者が権力の座にいると、それが拡大するのを自ら止めることができない。自分の力で自分の腐敗を食い止めることができない。自分がモンスターになる。なにも歯止めはないのです。

 2012年からの十年弱、日本はそのような時代だったと思います。小泉政権が登場させた「勝ち組と負け組」。安倍政権は「勝ち組」に居場所を提供しつづけ、都合の悪い「負け組」を視界から消し去っていった。
 そろそろ国のすみずみまでゆきわたったでしょう。「強いものになびけばトクをする。弱いものの側についてもイイことは何もない」

 鶴見俊輔が「民衆の記憶というのが大事なんだ」と言っていました。
 日本にだって過去何百年のあいだに幾度も、自由を求めて民衆がたちあがった、さまざまな瞬間があったはずです。その記憶は人々の心のなかで眠っている。それを呼びおこさなくてはいけないというのです。
 安倍政権はもうすぐ倒れるのかもしれません。そんなに甘くはないかもしれない。とにかく、まるで江戸時代の殿様による治世のような、心から憎むべき人治政治を「僕たちの記憶」「民衆の記憶」にしよう。
 

2020年2月

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