目覚まし装置としてのブラックスプロイテーション

目覚まし装置としてのブラックスプロイテーション
(『ブラック・クランズマン』に寄せて) 

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 メルヴィン・ヴァン・ピーブルズは、「ブラックスプロイテーションは〈カウンターレボリューショナリー〉なのだ」と言いました。そのとき、僕は頭をハンマーで殴られた気分でした。
 「カウンター」というのは「反」という意味です。カウンターレボリューショナリーは「反革命的」ということです。「似非革命的」ならまだしも、「反革命」にはびっくりです。「非進歩的」でさえない。「反動」。時計の針を進めることがないばかりか、遅らせるのでもなく、時代を逆戻りさせるものということになります。
 『黒いジャガー』も『スーパーフライ』も『コフィー』も『クレオパトラ危機突破』も、僕はレボリューショナリーだと信じていたのに、すべてカウンターレボリューショナリーだったのです。カタカナをつかわずに平易にいえば、「差別を無くす映画ではなくて差別をつくる映画」。これにはショックを受けたのです。

   *   *   *

 ハンマーで殴られるその15年前です。大学生になりたての僕も、『ドゥ・ザ・ライト・シング』で雷にうたれた。でも、分からない。難解なわけでもないが、前提がわからない。ブルックリンって何処にあるの、ニューヨーク? もちろん「ベッドスタイ地区」も知らない。「暴動をおこしちゃえ」なのか「暴動はダメ」なのか。ムーキーが、ピザ屋の窓ガラスにゴミ箱を投げつける心情がわからない。ラジオ・ラヒーム君を殺したのはピザ屋じゃなくて警察なのに? そもそも、なぜラジオ・ラヒームが死ぬのかもよく分からない。とりあえず抵抗をやめればよかったんじゃないか、とか。そんな調子。僕には、肝心のメッセージを受け止めることなんてできっこなかった。
 暑い夏の日に暴動がおこるっていうストーリーは分かる。でも、それだと一番わるいのはお天気みたいで、なんだかオカシイ。とにかく、楽しくてイケてるのだけれど意味はサッパリ分からない。

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 僕の九〇年代はそんなふうに幕をあけて、とにかく、セリフをぜんぶ覚えてしまうくらい『ドゥ・ザ・ライト・シング』や『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット/彼女の欲しいものは』を観た。『スクールデイズ』や、それから『ジャングル・フィーバー』やら『マルコムX』やらがあって、ずっと追いかけた。ブルックリンにあったスパイク・リーの店にも行ってみた(あれはどこだったんだろう、地区の名前は忘れた)。店員さんが、本当に「ジェイミー」みたいでびっくり。
 しばらくして〈ブラックスプロイテーション〉と呼ばれている七〇年代の黒人映画がわんさかあることを知る。パム・グリアやタマラ・ドブソンの映画のビデオを買いにハーレム125丁目に行くと、露天商が、カゴの中にVHSを山盛りにして一本10ドルで売っている。こりゃ、大阪のおっちゃんが東映の実録ヤクザとかATG映画が好きなのとよく似たノリやなと。現地へ行ったことで、僕もちょっと分かってきた気がした。
 数年後、あげくのはてにブラックスプロイテーション二本『コフィー』と『スーパーフライ』の配給権を買った。字幕も自分でつけた。日本で観ることができないから自分でやっちゃえと、二年ほどかけて劇場公開やビデオ化をやった。パム・グリアに会うためコロラド州デンバーにも行った。パムさんは言った。「これは女性のエンパウアメントの映画なの。それから、七〇年代ファッションの映画よ」。

 いよいよ、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ監督に話を訊くことができたのは2005年。彼の、黒人映画の金字塔『スウィート・スウィートバック』がDVD化されるので字幕監修で関わらせていただいた。この縁でインタビューする機会をえた。たくさんの人から資金をあつめ、心血をそそいで『コフィー』『スーパーフライ』を配給した僕は、あのメルヴィン節で、「ブラックスプロイテーションというものはカウンターレボリューショナリーなのじゃ」と告げられたのでした。
 うーん、そりゃあ、たしかに娯楽作品ではあるけれど、「白人は悪者で黒人は正義の味方」っていう漫画性のなかにレボリューショナリーな文脈を読みとってもいいんじゃないの? 既存の価値感をひっくりかえしてくれる「頭の体操」でいいんじゃないの? それもダメなの?

 やっぱりダメなのです。メルヴィンは言いました。「ハリウッドの大手映画会社というものは、サブリミナルといってもよい手法を駆使して、政治的な文脈を骨抜きにしたり、カウンターレボリューショナリーなメッセージを含ませてくるのだ」。それは、大きくプロットを追うことによって見えてくるのです。『黒いジャガー』のプロットは何だったでしょうか。主人公の私立探偵・シャフトは警察に脅されてハーレムの情報をとりにいきます。ラストシーンでは、わざわざ警部に報告の電話をかける。つまりシャフトは同胞を警察に売っているのです。『スーパーフライ』のプロットは「高飛び」です。逃げることが唯一の解決策として提示されます。しかも相棒二人を見捨てていく。黒人解放運動では、いつだって「団結」が最重要のテーゼなのですから、これはカウンターレボリューショナリーそのものである。
 看護婦が一人でイタリア人の麻薬組織に闘いを挑む『コフィー』は、女性解放運動に1ミリ程度なら役立っているのかもしれませんが、画面を賑やかすのは、滑稽な衣装のポン引きや、スイカ割りみたいに頭をショットガンで吹っ飛ばされる麻薬売人です。『クレオパトラ危機突破』も反革命的であることは、『ブラック・クランズマン』のなかでも説明されています。その理由は「警察だから」です。(厳密にはクレオパトラジョーンズはCIAです。)この世に「善良な警官」がいることは否定しませんが「レボリューショナリーな警官」など存在しません。現実の世界では、警官が黒人を殺しているのです。または路上の黒人の子供たちを微罪で刑務所におくります。
 こうしたハリウッドの二枚舌は現在にいたるまで長々とくりかえされています。「バディもの」「救世主もの」「警官もの」。最近では『ヘルプ 心がつなぐストーリー』『ドリーム』『それでも夜は明ける』などがカウンターレボリューショナリー作品の典型的な例でしょう。スパイク・リーがアカデミー賞受賞に際して『ドライビング・ミス・デイジー』や『グリーンブック』を批判したのはこのことを言っています。

 『ドゥ・ザ・ライト・シング』の冒頭がどんなだったか憶えている人はいますか。ユニバーサル社ロゴの地球儀が映し出されるやいなや、伝統派・ブラウンフォード・マルサリスの独奏による黒人国歌「Lift Every Voice and Sing」が聴かれます。まるで、六〇年代おわりにコルトレーンの死とともに途切れてしまったアフリカ系アメリカ人の誇りの結晶としてのジャズの歴史がここから甦るかのようです。
 次に、「40エーカーとラバ一頭」。これはスパイクの会社の名前で、「アメリカの欺瞞」を糾弾し、これから一歩も譲ることのないアフリカ系アメリカ人の闘いを表しています。その次に、「正しいことをしろ」というタイトルが表示されます。今でもこの言葉の意味を尋ねる人は少なくないと思いますが、ようするに、お馴染みの「ウェイク・アップ!」とまったく同じ意味と考えればよいのです。
 そして、パブリック・エネミーの「ファイト・ザ・パワー/権力と闘おう」が流れます。いわく、〈さあ、1989年! また夏がやってきた!〉です。この最初の一行だけをとっても、どれだけの破壊力があるか。
 「1989年!」というのは、「(キング牧師がワシントン大行進をやった)1963年じゃねえぞ」と言っているのです。つまり、「いまから、キング牧師とはちがう新しい戦術をひねりだして、もう一度アレと同じことをやるぞ、おいコラ!」という意味です。同時に、映画のプロットを捉えれば明らかに「1965年かよ!」という意味も含んでいるでしょう。1965年夏というのは、かのロサンゼルス・ワッツ暴動。そして1967年夏にはニューアーク暴動やデトロイト暴動。そして1968年春には......。チャックDは、〈時代は変ったぞ、いや変っていない。また暴動の季節がやってきたのか? どうやってオレたちは未来を切り開くんだ?〉と問いかけているのです。ここでは、スパイク・リーが提示するまったく新しい映画と、パブリック・エネミーの新しい音楽が、アメリカ黒人の現代の闘争の武器となることを宣言しています。
 そのあと、ご存知のように映画本編の最初の、あのセリフへと相なります。「目を覚ませーーー!」

 さあ、2019年です! 三十年たちました。『ブラック・クランズマン』です。
 今回の主人公も、おきまりの「目の覚めていないキャラクター」で、寝坊して遅刻ばかりのロン・ストールワース青年。革命家のガールフレンドから何度も「目を覚ましなさい」と叱られます。いくら「目を覚ませ!」なんて叫んだところで、そうそう誰も目を覚ましません。だからスパイクは同じことを言い続けているのです。
 劇部分は、ブラックスプロイテーションのパロディー(オマージュではない)としてとても好感がもてます。たとえば、アンジェラ・デイビスに憧れる黒人大学の学生と、警官であることを隠しているボーイフレンドの二人が渓谷の公園でデートしているところをロングショットで演出するなんて、七十年代前半のノスタルジーとしてはすごくてイイと思います。
 しかし、本筋は、ブラックスプロイテーション(トホホ感。カーチェイスがショボいとか、爆弾がやたらデカいとか)が、さきほど説明したようなカウンターレボリューショナリーなプロットを観客が批判的に認識するための仕掛けとして機能しているのでしょう。レボリューショナリーな部分(たとえばストークリー・カーマイケルの演説)と、カウンターレボリューショナリーの部分を見極めて受容しなければなりません。「警察が、署をあげてレイシスト警官を自主的に排除するはずねえだろ、アホ!」とか、「主人公がFBIの使い走りだなんて、どこまでカウンターレボリューショナリーな映画なんだよ、バカ!」とか、スクリーンにむかって叫びながら映画を観なくてはいけないのです。面倒くさいのですが民主主義というのはそういうものなのです。
 スパイクは、「映画は真実を伝えない。だから、みんな、目を覚ませ!」と言っています。

 ドン、ドン、ドン(ノックする音)。朝がきました。今年、2019年は、僕たちの住む街でも、三年に一度の国家の大イベントがおこなわれます。準備はよろしいでしょうか。「はい、とっくにできてます」。


(本稿は、『ユリイカ』2019年5月号のために書かれたもの。許可をいただいて転載しました。)

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