「囚人のジレンマ」〈大阪府知事・市長ダブル選挙のあとに〉


 大阪の首長ダブル選挙がおわったことをうけ、以前の記事に大幅に書き足してみたいと思います。

 本当に、わかりきった当たり前のことを、わざわざ屁理屈をこねて書きます。《理論》をまず説明してから《練習問題》を解きます。それから《応用問題》をやって、最後に《実践》すなわち、実際の僕たちの生活にどのように使うのかを説明したいと思います。

   〈囚人のジレンマ〉という、ゲーム理論(意思決定理論)でつかわれるとても興味ぶかい「たとえ話」があります。いろいろな分野でよく引き合いにだされるのでご存知のかたは多いと思います。

囚人のジレンマ
 いまここに、二人の容疑者が警察の取り調べをうけています。じつはこの二人は真犯人であり、二人の共犯による犯行です。二人はべつべつの部屋で取り調べをうけていて、連絡をとりあうことはできません。あなたはこの容疑者のうちの一人です。
 二人とも黙秘をつづけており、そこへ取り調べ官が条件を持ちかけます。
 「別室にいるお前の相棒も黙秘をつづけている。そこで、お前だけ自白してくれたなら、お前だけ釈放してやろう」
 「逆に、相棒が自白してお前は黙秘をつづけるなら、相棒は釈放されるがお前は重刑となるだろう」
 あなたは次のように考えます。
 (このまま自分が黙秘をつづければ、自分だけ監獄送りになってしまうのは時間の問題だ。)
 (もし自白すれば、わずかではあるが釈放される可能性が開かれる。)
 (したがって、よりマシなのは、自白するほうの選択肢である。)
 そういうわけで、あなたは自白します。ところが、当然ながら、相棒のほうにもまったく同じ条件が持ち掛けられていますので、同様に自白します。かくして、二人そろってあっけなく刑務所に送られてしまいました。
 ・・・はて、よく考えて行動したはずなのに二人にとって最悪の結果を生んでしまいました。いったい、この意思決定のどこが間違ってしまったのでしょう?

 これが〈囚人のジレンマ〉と呼ばれる問題です。(本当は、数式が登場してマトリクスを書いて考えるのですが、エッセンスとしては上記の説明で十分です。)

 その答えを書くまえに、これとまったく同じような、現実に発生した事例を考えてみましょう。

《練習問題》
 2015年のことです。大規模な反対運動の起こった「安保法案」が国会に提出され、衆議院・参議院を通過したうえに成立しました。
 その際、「日本を元気にする会」という政党(当時代表=松田公太参議)がありまして、安保法案について反対寄りの姿勢をみせていました。しかし、切り崩し工作があったとみられて彼らは条件付きで賛成に転じました。「付帯決議」(この際、内容はともかく)というものを条件に、安保法制に賛成の側にまわったわけです。
 松田氏はおよそ下記のような釈明をしました。
「いまさら、いくら反対を叫んだところで、もはや法案の可決は避けられない。私たちは、無駄な抵抗はやめて賛成票に転じる交換条件として〈付帯決議〉というものを与党に承諾させた。効力はすくないとはいえ、安保法制にいくらかの縛りを与えたことは、よりマシな成果である。私のこの決断が正しかったことは歴史が証明するだろう」
 この判断は一見、合理的にも思われるかもしれません。「よりマシ」な結果をうんでいるからです。
 彼の選択は正しかったのでしょうか? 間違っていたのでしょうか? 間違っているとするならば、一体どこが正しくないといえるのでしょうか?

 僕なりの答えを書きます。
 先の〈囚人のジレンマ〉の設問において、この囚人がとるべきだった行動とは、「誰が何を言おうとも黙秘を続ける」です。それが出来ていれば二人とも自由の身となれたのです。つまり、タネを明かしますと、実のところ問われているのは「オプションAをとるべきか、オプションBをとるべきか」ではないのです。「Aをとればこうなる、Bをとればこうなる、どちらが得だろうか」と考えるところに間違いがありました。つまり、「自分は何者であるのかを考え、出来る出来ないに関わらず、何を為さねばならないのかを考えて行動すれば良い・・・これが「解答」です。
 別の言い方で説明すると、「長期的かつ包括的に考えなければならない」ということです。「長期的」というのは、つまり目の前の選択肢とそれにともなう結果だけで意思決定してはならない、ということです。「包括的」というのは、自分一人の行動とその結果だけで意思決定してはならない、自分と同じ立場のひとが他にも居るのですから、全体のことを考えて意思決定しなくてはならないという意味です。

 「日本を元気にする会」の問題については、もちろん「安保法制に反対しつづけるべきだった」が僕の意見です。なぜなら、「このまま反対しても、どうせ可決するのだから意味がない」という考えが「正しい」のであれば、ほかのすべての野党も条件付きで賛成票に回ることが「正しい」ということになります。そんなことになれば、その次の選挙で、有権者は一体どの政党に投票したらよいのか分からなくなってしまうでしょう。そうすると、いままでの支持者も失うことになり、その政党は崩壊への道をすすむでしょう。これは「正しくない」。
 まあ、よーするに、《目のまえだけの損得に惑わされてはダメ》《自分だけではなく全体のことを考えろ》って、なんだか、当たり前なことを書いています。けれども、これこそが、いつだって最善の意思決定法です。


 さて、やっとこさ、今日の本題です。上記をふまえて、応用問題にまいります。そしてそのあと、最も大事な「実践問題」にまいります。

 九〇年代後半ごろの話です。保険会社からもらってきた交通事故などの案件をさばく示談屋をやっていた弁護士がおりまして、とても口が立つので、テレビに出演するようになり、2008年しまいに大阪府知事になりました。知名度と口先だけで首長になったので活動基盤がありませんので、府議会に巣食っている出来そこないの世襲議員と手を組んで政党をつくりました。
 それから日本の悪夢を先取りしているとしか考えられない十年間がやってきました。
 行政改革主義。「とりあえず公務員を叩いといたらええんや。」とくに学校の先生など弱い立場のひとたちにシワ寄せがきて、教育現場がさらに悪くなれば、どのような恐ろしい結果をうむでしょうか。「都構想」とか「道州制」は、「なんでもええからデカい話をぶっときゃ人があつまるんや」にしか聞こえません。既得権益打破は、おきまりの「敵をつくって改革、改革ゆうといたら、やってる感でるんや」です。あとは、新自由主義「なんでも民営化、民営化いうといたらカッコつくんや、その後は知らんけど。」極めつけは、「福祉削減したら金持ちから支持されるからエエんや」と「高齢者福祉をカットして子育てにまわしたらウケがええんや。介護がきびしくなってもそれは知らん。」です。
 あと、とにかく腹がたつのは、自民党とケンカしているとみせかけて、地方組織とケンカしているだけなので、じつは自民党の中枢からは大変覚えが目出たいというところです。つまり、他人のふりをして、お互いに必要になるときをじっと待っているのです。
 これが〈ポピュリズム〉。人は誰でもそうですが、経済が堕ちてゆくときにはワラさえもつかみます。そこへ、おいしそうに見えるが実は食えないメニューを並べるのです。
 ・・・あっ、冷静に書くつもりが、怒りをぶつけてしまいました。話しを選挙にもどします。
 2019年4月に、市長と知事をひっくり返すという庶民をバカにしているとしか思えない選挙が行われました。ともなって、自民党はこの政党の二人に対抗するために対抗馬を各々たてることにしたのです。

《応用問題》
 さて、右派の二勢力が上記のような茶番をやっているところで、左派である共産党や立憲民主党はどのように対応するべきでしょうか。
 選択肢は三つあります。一つ目は、それぞれ独自の候補者をたてる。二つ目は、共闘の候補者を一人たてる。三つ目は、自民党の候補を推薦する、です。
 一つ目は、選挙では絶対に勝てません。二つ目でも、ほぼ勝てないでしょう。リベラル左派はそこまで盤石な層ではないのです。三つ目は、足し算どおりにうまくいけば勝てる見込みが少しあります。
 はたして、三つ目の選択肢がえらばれました。さて、これは正しかったのか。このような意思決定で良かったのか。どこかが間違っているのか。その理論とは何か。

《こたえ》
 明らかにこれは間違いです。
 長期的にみれば誤りです。「この際、自民党に投票しましょう」と言われてハイハイと素直に応じるリベラル層の有権者がいるでしょうか。「しかたないから、言われたとおりに投票するよ、でも、政党のひとたちは、一体いままで何をしていたんだ?」という不信だけが残るでしょう。同じようなことが二度三度つづけば、もう共産党も立憲民主党も存在していないに等しいこととなりますし、有権者との信頼関係は完全に崩れてゆくでしょう。これは自壊の道です。
 包括的に判断していないことも問題です。ふだん選挙にいかない市民のことを切り捨てています。受け皿となる政党・候補がいなければ投票率は下がるいっぽうに決まっています。
 選挙で勝とうが負けようが、これは、自分たちの自分たちに対する裏切り行為です。
 政治というのは数十年や数百年という長い期間における庶民と権力者の闘いです。たったの数年先だけを見て戦略を練っていると、資金や権力をもっているほうが必ず勝ちます。しかし、長期的・包括的な戦略をたてれば必ず庶民のほうが有利になります。頭数でも年数でも勝っている、つまり、たとえば経営者より労働者のほうが数が多いのだし、つねに企業よりも人間のほうが遠い将来を見据えて暮らしているからです。

 ではどうすれば良かったのでしょうか? 答えは(一)か(二)です。もし共産党や立憲民主党が、それぞれ数十年や数百年という期間にわたって活動するという覚悟があるのであれば(一)を選択し、そうでもなくて、数年かせいぜい十年がいいところなのであれば(二)を選択するべきだったでしょう。本当は、時間的にも(一)のほうが近道なはずです。(三)はもちろんのこと(二)でさえも、たいへん危険です。信頼関係よりも直接的成果を追求しているからです。
 長期的に、負けにいっているようなものです。はっきりいいますと、これこそが、大きな負け、すなわち国家の戦争へとひた走る仕組みといえると僕は思います。

《実践》
 さいごに、わたしたち一人ひとりはどのように行動するべきでしょうか。
 さきの選挙のことについていえば、政党が(三)を選択してしまったわけですから、「絶対にこれで最後だからな!」と厳しく叱りながら、「みんなで投票しよう!」と激しく応援して、自民党の候補に投票するべきです。僕個人としてもそのように表明しました。それしか選択肢は無いのです。
 ・・・いや、「選択肢が無い」はオカシイ。わたしたちがするべきことは、選択肢に惑わされずに、これからの時代にそなえることです。

 長たらしいことを書きましたが、こういった僕たちの目の前にたちふさがる迷路から抜け出す方法は一つで、実はまるで簡単で分かりきったようなことです。それは、僕たち庶民の一人一人が「市民としてとるべき行動をとればいい」ということです。
 具体的には、政治を椅子取りゲームのように弄ぶ者ではなく、平和や人権というものを大切に考えている政党・政治家を、ひごろから応援し、選挙のときには投票するということです。「しっかりやればやるほど得票数が増えるのだ」と野党に学んでもらわなければ何も起こらないのでしょう。
 残念ながら、「とるべき行動をとる」をやったところで、いますぐ平和や理想の社会は実現しないでしょう。自分が生きているあいだ、でさえも難しいでしょう。でも、「とるべき行動をとる」は、当面の選挙だけでなく次の選挙、次の次の選挙に力強くつながっていくはずなのです。

 僕のブログはいつも結論は同じなんですけど・・・「よりマシな政党を応援しよう」。
 いまのところ、選挙では、共産党、立憲民主党、社民党などを応援することが、僕たちの暮らしをよくする選択であり戦争回避の道です。分かりきったことです。

2019年4月

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