四月になって、ほとんどの会社・学校は、新しい期をむかえています。
僕の子供たちも、新しい担任の先生、新しい級友にかこまれて、学校がはじまりました。
楽しくて頑張り甲斐のある一年になってほしいものです。
さて、この学区の小学校はひとつの学年はクラスが2組か3組までです。
小学校全体で約470人。いちクラスは30人くらいです。
いまは少子化の時代といわれる。
現役世代が高齢者の福祉をささえることが出来なくなってきた。
しかし、子供が少なくなることは今に始まったことではありません。
いつ始まったかというと、子供がいちばんたくさん生まれたのが1970年代前半、つまり僕が生まれた頃で、それからずっと今にいたるまで、生まれてくる子供の数は減りつづけているのです。
高齢者が多くて若い人が少ないという時代がやってくることは、もう40年以上前から知られていたことなのです。
ですから、「少子化問題」ではなくて、「少子問題」です。
言葉がオカシイ。
「少子化」は1970年代や1980年代にとりくむべきだった課題で、それは誰かがサボっていたので解決できずに、とっくの昔に敗北に終わっているのです。
今の課題は「少若多老」であって、それにどのように対処するか、いま僕たちが最も考えなければいけない問題です。
さて、その話しをふたたび後半で書くとして、別のことを書いてみます。
子供の話しをしましたので、つぎに僕の親たちのことを書きます。
四月のまえは三月。
僕の母は終戦の半年前、1945年3月にうまれました。そして、その三月は、東京大空襲をはじめ、大空襲のあった月です。
東京大空襲は3月10日。この一晩だけで十万人をこえる死者がでたとされています。
大阪大空襲の一回目は3月13日の夜から14日の未明にかけてであり、夜中におこなわれた市街地への集中的な空襲で約五千人が死亡したとされています。
僕の母の家は大阪市旭区にありました。町は大火災となって火の粉がふりそそぐなか、産まれて一週間もたっていない赤ん坊だった母がいたため、僕のおばあちゃんは逃げ出すこともできずに家にこもって観念していたのだそうです。結果、たったの数軒さきの家まで焼け落ちたけれども、母たちのところまで火が及ばずに済んだのだそうです。
七十年後のいまでは想像できません。いや想像しないといけないことです。アメリカから(ハワイやグアムなどを経由して)戦闘機が飛んできて、僕たちの住む街のうえに焼夷弾がふりそそいだのです。
焼夷弾(しょういだん)というのは、ふつう家というものは石や土でできているものですが、日本の家屋は特殊ですべて木造であることから、屋根に落として火災をおこすように、日本の本土空襲のために特別につくられた火炎爆弾です。街全体に大火災をおこせば「効率よく」市民を焼き殺したり住民の生活基盤を破壊することができて、そうすれば早く政府が降参すると考えたわけですね。なんと恐ろしいことでしょう。
逆にいえば、およそ、戦闘機B29から焼夷弾がふりそそぐイメージこそが、僕たちの世代の日本人がまっさきに思い浮かべる「戦争の記憶」といえるのではないでしょうか。くわえて、ふたつの原爆。僕たちの世代は実際には体験していませんが、なんども映画やアニメで再現されて語り継がれているのでそのように想起します。
つまり、僕たちの考える「先の戦争」とは「空のうえから爆弾がふってくるもの」です。
そして、モンペ姿のお母さんたちが子供と一緒に逃げまわっているというように連想されます。
戦争というものは本来は、戦闘員どうしが戦場で殺し合うものなのに、一般市民の頭のうえに爆撃機がおそってくるというのは、戦争の最終局面の極限状態です。そんなことに気付いたのは僕はたしか二十歳もこえてからでした。日本人がつよく記憶している空襲や原爆の悲劇は、国際法に反した非人道的行為であって、もっと早くに降伏していれば、すべて回避することができたことです。
また、モンペ姿というのは、ほんとうは農村でつかわれていた農作業用のズホンなのですが、太平洋戦争が開戦した直後に、「おそらく、数年後にアメリカの爆撃機が飛んできて日本の都市が大火災になるので、女性が消火作業をしなければならなくなる。動きやすい衣類を身につけておかなければならない」ということで、全国的に、鬼畜の国家が国民に強いた戦時服装です。
僕は、ながいこと「昔のひとはモンペを着ていた」と思っていました。
「先の戦争」は、満州事変から数えて十五年、日中戦争から数えて八年、日米開戦から四年間のあいだに、さまざまな凄惨なシーンがあったことでしょう。中国での悲劇、満州での悲劇、南方での悲劇、海戦での悲劇、沖縄戦での悲劇、シベリアでの悲劇、など。
それらを、正しく絵画的なイメージとして僕たちは伝えていかねばならないと思います。
さて、日中戦争と太平洋戦争で約六百万人もの人が死んだといわれています。中国をはじめ日本以外の国の方々も数百万人が死亡しているはずです。
しかし僕個人としては実感がすこしうすい。つまり、僕のおじいちゃんは父方母方ともに戦死をまぬがれましたし、僕のおばあちゃんは空襲で死にませんでした。なぜでしょうか。
僕の父方の祖父(大阪府池田市)は、横須賀や呉で海軍の士官学校の教官をやっていました。船でつかう手旗信号やモールス信号を若い兵士に教えていたのです。ですので、実際の戦闘には参加することなく終戦をむかえました。
母方の祖父は、いちど大陸のほうへ出兵してから復員しました。戦争末期に二度目の招集があって大阪から熊本の港へ行き、南方へおくられるために滞在していました。そこで終戦となり、混乱のなか熊本から歩いて大阪まで帰ってきたのだそうです。
僕の祖父や祖母は戦争を生きのびました。だから、先の大戦で多くの人の命がうばわれた、というのが実感がわきません。僕のおじいちゃん二人とも、生きて帰ってきたからです。
いま僕は、あたり前田のアホのクラッカーなことを書いています。そうです、おじいちゃんたちが命をおとしていたら僕は生まれてこなかったのです。
僕の父方の祖父の弟は、ニューギニアのワイゲオ島というところで26歳で戦死しました。
僕の子供たちも、新しい担任の先生、新しい級友にかこまれて、学校がはじまりました。
楽しくて頑張り甲斐のある一年になってほしいものです。
さて、この学区の小学校はひとつの学年はクラスが2組か3組までです。
小学校全体で約470人。いちクラスは30人くらいです。
いまは少子化の時代といわれる。
現役世代が高齢者の福祉をささえることが出来なくなってきた。
しかし、子供が少なくなることは今に始まったことではありません。
いつ始まったかというと、子供がいちばんたくさん生まれたのが1970年代前半、つまり僕が生まれた頃で、それからずっと今にいたるまで、生まれてくる子供の数は減りつづけているのです。
高齢者が多くて若い人が少ないという時代がやってくることは、もう40年以上前から知られていたことなのです。
ですから、「少子化問題」ではなくて、「少子問題」です。
言葉がオカシイ。
「少子化」は1970年代や1980年代にとりくむべきだった課題で、それは誰かがサボっていたので解決できずに、とっくの昔に敗北に終わっているのです。
今の課題は「少若多老」であって、それにどのように対処するか、いま僕たちが最も考えなければいけない問題です。
さて、その話しをふたたび後半で書くとして、別のことを書いてみます。
子供の話しをしましたので、つぎに僕の親たちのことを書きます。
四月のまえは三月。
僕の母は終戦の半年前、1945年3月にうまれました。そして、その三月は、東京大空襲をはじめ、大空襲のあった月です。
東京大空襲は3月10日。この一晩だけで十万人をこえる死者がでたとされています。
大阪大空襲の一回目は3月13日の夜から14日の未明にかけてであり、夜中におこなわれた市街地への集中的な空襲で約五千人が死亡したとされています。
僕の母の家は大阪市旭区にありました。町は大火災となって火の粉がふりそそぐなか、産まれて一週間もたっていない赤ん坊だった母がいたため、僕のおばあちゃんは逃げ出すこともできずに家にこもって観念していたのだそうです。結果、たったの数軒さきの家まで焼け落ちたけれども、母たちのところまで火が及ばずに済んだのだそうです。
七十年後のいまでは想像できません。いや想像しないといけないことです。アメリカから(ハワイやグアムなどを経由して)戦闘機が飛んできて、僕たちの住む街のうえに焼夷弾がふりそそいだのです。
焼夷弾(しょういだん)というのは、ふつう家というものは石や土でできているものですが、日本の家屋は特殊ですべて木造であることから、屋根に落として火災をおこすように、日本の本土空襲のために特別につくられた火炎爆弾です。街全体に大火災をおこせば「効率よく」市民を焼き殺したり住民の生活基盤を破壊することができて、そうすれば早く政府が降参すると考えたわけですね。なんと恐ろしいことでしょう。
逆にいえば、およそ、戦闘機B29から焼夷弾がふりそそぐイメージこそが、僕たちの世代の日本人がまっさきに思い浮かべる「戦争の記憶」といえるのではないでしょうか。くわえて、ふたつの原爆。僕たちの世代は実際には体験していませんが、なんども映画やアニメで再現されて語り継がれているのでそのように想起します。
つまり、僕たちの考える「先の戦争」とは「空のうえから爆弾がふってくるもの」です。
そして、モンペ姿のお母さんたちが子供と一緒に逃げまわっているというように連想されます。
戦争というものは本来は、戦闘員どうしが戦場で殺し合うものなのに、一般市民の頭のうえに爆撃機がおそってくるというのは、戦争の最終局面の極限状態です。そんなことに気付いたのは僕はたしか二十歳もこえてからでした。日本人がつよく記憶している空襲や原爆の悲劇は、国際法に反した非人道的行為であって、もっと早くに降伏していれば、すべて回避することができたことです。
また、モンペ姿というのは、ほんとうは農村でつかわれていた農作業用のズホンなのですが、太平洋戦争が開戦した直後に、「おそらく、数年後にアメリカの爆撃機が飛んできて日本の都市が大火災になるので、女性が消火作業をしなければならなくなる。動きやすい衣類を身につけておかなければならない」ということで、全国的に、鬼畜の国家が国民に強いた戦時服装です。
僕は、ながいこと「昔のひとはモンペを着ていた」と思っていました。
「先の戦争」は、満州事変から数えて十五年、日中戦争から数えて八年、日米開戦から四年間のあいだに、さまざまな凄惨なシーンがあったことでしょう。中国での悲劇、満州での悲劇、南方での悲劇、海戦での悲劇、沖縄戦での悲劇、シベリアでの悲劇、など。
それらを、正しく絵画的なイメージとして僕たちは伝えていかねばならないと思います。
さて、日中戦争と太平洋戦争で約六百万人もの人が死んだといわれています。中国をはじめ日本以外の国の方々も数百万人が死亡しているはずです。
しかし僕個人としては実感がすこしうすい。つまり、僕のおじいちゃんは父方母方ともに戦死をまぬがれましたし、僕のおばあちゃんは空襲で死にませんでした。なぜでしょうか。
僕の父方の祖父(大阪府池田市)は、横須賀や呉で海軍の士官学校の教官をやっていました。船でつかう手旗信号やモールス信号を若い兵士に教えていたのです。ですので、実際の戦闘には参加することなく終戦をむかえました。
母方の祖父は、いちど大陸のほうへ出兵してから復員しました。戦争末期に二度目の招集があって大阪から熊本の港へ行き、南方へおくられるために滞在していました。そこで終戦となり、混乱のなか熊本から歩いて大阪まで帰ってきたのだそうです。
僕の祖父や祖母は戦争を生きのびました。だから、先の大戦で多くの人の命がうばわれた、というのが実感がわきません。僕のおじいちゃん二人とも、生きて帰ってきたからです。
いま僕は、あたり前田のアホのクラッカーなことを書いています。そうです、おじいちゃんたちが命をおとしていたら僕は生まれてこなかったのです。
僕の父方の祖父の弟は、ニューギニアのワイゲオ島というところで26歳で戦死しました。
父方の祖母の弟は、ものすごく可愛がっていた弟だったと聞くのですが、復員したものの戦争が元で身体をこわして終戦すぐに亡くなってしまいました。
母方の祖母の兄は、もともと身体の弱いひとだったので徴兵されませんでしたが、戦争末期に、祖母の言葉によると「丙の丙」で徴兵検査を合格してフィリピンに行きました。
復員しましたがマラリアにかかっていて先が長くないことを悟り、迷惑をかけないようにと家に戻らず東京の病院へいくことを選択し、家族にも会わずに、そこで亡くなりました。
その人が出征するときには、大阪駅の駅前で大規模な壮行会があり、たくさんの家族が見送ったそうです。最後に一目見ることができるかもしれない、もしかしたら話しができるかもしれない、とどうせ渡すことのできないおにぎりをつくって家族で出掛けたのだそうです。
その亡くなった僕の大叔父さんたちのことは、僕の祖父や祖母が戦後七〇年にわたって毎日お線香をあげたりお供え物をして供養していました。 おそらく、日本が平和のうちに復興・発展してゆくにつれて、愛しい兄弟を戦争で失ったことへの無念は、年をおうごとに増していったのではないかと想像します。 その人たちが生きていれば、僕にはたくさんのハトコが居たのでしょう。
ところで、去年に堺屋太一という人が亡くなりました。彼は「団塊の世代」という言葉をつくった人として有名です。団塊の世代というのは、戦争がおわって平和がおとずれたのでたくさんの子供がうまれたので、そのベビーブーム世代をさします。
僕は1972年生まれで、ふつう、第二次ベビーブーム世代といわれます。
僕が子供のころ、小学校は児童であふれかえっていました。僕は「分校」を二度も体験しています。(大阪府枚方市立)田口山小学校は子供が教室が間に合わず校庭にプレハブを建てて授業をしていました。1980年4月に藤阪小学校と分校になりました。また、そのあと引っ越しをして通うことになった(奈良県生駒郡平群町立)平群東小学校は、1985年に平群南小学校と分校になりました。僕の通った平群中学校はたしか11組までありました。
不思議なことがあります。僕の父は一九四六年二月の生まれで、母は一九四五年三月生まれです。僕の妻の両親も終戦より前に生まれています。四人とも、いわゆる「平和がおとずれて生まれた子供たち」ではないのです。戦争のさなかに生まれた人、または戦争のさなかに授かって生まれた人です。じつは、そういった人はたくさん居るのです。 だから、とても有名な「第一次ベビーブーム」「団塊の世代」というこの言葉は、大事な何かを曇らせているのではないかという気がします。
僕の両親の世代は、戦局が厳しくなるいっぽうの時代にあって、「もう会うこともできないかもしれない」というような夫婦の焦燥から生まれてきた子供たちです。すくなくとも僕の父と母は明らかにそうだ。その子供が僕なのです。僕は「団塊の世代の第二世代」ではない。僕は一般にかんがえられているような「第二次ベビーブーム」の子供ではなかった!
僕はどこから来たのか、僕の子供たちはどこへ行くのか、これからの日本はどうなるのか。
「団塊の世代」「少子高齢化」などの戦後の日本を言い当てる言葉も、いまだしっくりきていない。
その言葉がしっくりきていない以上、問題が解決されるはずもない。
母方の祖母の兄は、もともと身体の弱いひとだったので徴兵されませんでしたが、戦争末期に、祖母の言葉によると「丙の丙」で徴兵検査を合格してフィリピンに行きました。
復員しましたがマラリアにかかっていて先が長くないことを悟り、迷惑をかけないようにと家に戻らず東京の病院へいくことを選択し、家族にも会わずに、そこで亡くなりました。
その人が出征するときには、大阪駅の駅前で大規模な壮行会があり、たくさんの家族が見送ったそうです。最後に一目見ることができるかもしれない、もしかしたら話しができるかもしれない、とどうせ渡すことのできないおにぎりをつくって家族で出掛けたのだそうです。
その亡くなった僕の大叔父さんたちのことは、僕の祖父や祖母が戦後七〇年にわたって毎日お線香をあげたりお供え物をして供養していました。 おそらく、日本が平和のうちに復興・発展してゆくにつれて、愛しい兄弟を戦争で失ったことへの無念は、年をおうごとに増していったのではないかと想像します。 その人たちが生きていれば、僕にはたくさんのハトコが居たのでしょう。
ところで、去年に堺屋太一という人が亡くなりました。彼は「団塊の世代」という言葉をつくった人として有名です。団塊の世代というのは、戦争がおわって平和がおとずれたのでたくさんの子供がうまれたので、そのベビーブーム世代をさします。
僕は1972年生まれで、ふつう、第二次ベビーブーム世代といわれます。
僕が子供のころ、小学校は児童であふれかえっていました。僕は「分校」を二度も体験しています。(大阪府枚方市立)田口山小学校は子供が教室が間に合わず校庭にプレハブを建てて授業をしていました。1980年4月に藤阪小学校と分校になりました。また、そのあと引っ越しをして通うことになった(奈良県生駒郡平群町立)平群東小学校は、1985年に平群南小学校と分校になりました。僕の通った平群中学校はたしか11組までありました。
不思議なことがあります。僕の父は一九四六年二月の生まれで、母は一九四五年三月生まれです。僕の妻の両親も終戦より前に生まれています。四人とも、いわゆる「平和がおとずれて生まれた子供たち」ではないのです。戦争のさなかに生まれた人、または戦争のさなかに授かって生まれた人です。じつは、そういった人はたくさん居るのです。 だから、とても有名な「第一次ベビーブーム」「団塊の世代」というこの言葉は、大事な何かを曇らせているのではないかという気がします。
僕の両親の世代は、戦局が厳しくなるいっぽうの時代にあって、「もう会うこともできないかもしれない」というような夫婦の焦燥から生まれてきた子供たちです。すくなくとも僕の父と母は明らかにそうだ。その子供が僕なのです。僕は「団塊の世代の第二世代」ではない。僕は一般にかんがえられているような「第二次ベビーブーム」の子供ではなかった!
僕はどこから来たのか、僕の子供たちはどこへ行くのか、これからの日本はどうなるのか。
「団塊の世代」「少子高齢化」などの戦後の日本を言い当てる言葉も、いまだしっくりきていない。
その言葉がしっくりきていない以上、問題が解決されるはずもない。
言葉だけでなく、僕が教わってきた「戦争のイメージ」も間違っていることは多い。すくなくとも、十分とは言い難い。
戦争の解明をすればするほど、僕たちは平和にちかづく。
戦争の解明をすればするほど、僕たちは平和にちかづく。
それなのに、フェイクニュース(いわゆる「歴史戦」)のほうが勢いをます時代に僕たちは生きています。
だらだらと書いてしまいましたが、とにかく、そんなことを考えながら、早いところ、明るい日本の未来像が、モヤモヤのなかから姿をあらわしてほしいものです。
とにかく、大人は、子供のために、過去を明らかにする責任を負っています。ふわふわと未来のことばかり言うのは無責任。
とにかく、大人は、子供のために、過去を明らかにする責任を負っています。ふわふわと未来のことばかり言うのは無責任。