2018年10月アーカイブ

"IF I HAD A HAMMER"

 




もし私にハンマーがあったなら
朝方にハンマーをたたく
夕方にハンマーをたたく
この辺りいっぱい響き渡るように

そのハンマーで
みんなに危険を知らせよう
みんなに注意をうながそう
わたしたち兄弟姉妹
愛し合おうと呼びかけよう
この辺りいっぱいに聞こえるように


もし私に鐘があったなら
朝方に鐘を鳴らす
夕方に鐘を鳴らす
この辺りいっぱい響き渡るように

その鐘で
みんなに危険を知らせよう
みんなに注意をうながそう
わたしたち兄弟姉妹は
愛し合おうと呼びかけよう
この辺りいっぱいに聞こえるように


もし私に歌があったなら
朝方に歌をうたう
夕方に歌をうたう
この辺りいっぱい響き渡るように

その歌で
みんなに危険を知らせよう
みんなに注意をうながそう
わたしたち兄弟姉妹は
愛し合おうと呼びかけよう
この辺りいっぱいに聞こえるように


正義をつげるハンマー
自由をならす鐘
愛をうたう歌
わたしたち兄弟姉妹のため
この辺りいっぱい響きわたる

正義をつげるハンマー
自由をならす鐘
愛をうたう歌
わたしたち兄弟姉妹のため
この辺りいっぱい響きわたる



If I had a hammer
I'd hammer in the morning
I'd hammer in the evening
All over this land.

I'd hammer out danger
I'd hammer out a warning
I'd hammer out love between my brothers and my sisters
All over this land.

If I had a bell
I'd ring it in the morning
I'd ring it in the evening
All over this land.

I'd ring out danger
I'd ring out a warning
I'd ring out love between my brothers and my sisters
All over this land.

If I had a song
I'd sing it in the morning
I'd sing it in the evening
All over this land.

I'd sing out danger
I'd sing out a warning
I'd sing out love between my brothers and my sisters
All over this land.

It's the hammer of Justice
It's the bell of Freedom
It's the song about Love between my brothers and my sisters
All over this land.

It's the hammer of Justice
It's the bell of Freedom
It's the song about Love between my brothers and my sisters
All over this land.



『あの人に会いたい』アマチュアカメラマン 増山たづ子
(NHK、2015年9月5日放送)



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増山さん:
 本当に、本当に諦めるなんてないでしょう? 人間は。
 本当の諦めってあるでしょうか、人間は。
 あんたはどう思いますか。
 どう思う、あんたは? 人の心って。


(ナレーション)
失われてゆくふるさとの姿を記録しつづけたアマチュアカメラマン、増山たづ子さん。
〈カメラばあちゃん〉の愛称で親しまれました。
60歳をすぎてから撮りためた写真は、アルバムにしておよそ六百冊。
10万カットにも及びます。
亡くなる直前まで、ふるさとへ想いを馳せ、シャッターをきりつづけました。

 増山さん:
 これは、大事なふるさとを失ってみた者でないとわからんわ。
 親がおるうちは、おうちゃくも言うがな。
 親が死んでまうと、そうすると、親のありがたさというものが、しみじみ分かるがな。
 それと一緒じゃ。
 失ってみた者でないと、こういうな、悲しみというものは、なかなか、、、。


(ナレーション)
岐阜県、徳山村。
大正六年、増山さんはこの村の宮大工の家に生まれました。
勉学に励むいっぽうで、山深い自然のなかの暮らしを愛する少女でした。

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 増山さん:
 まあ、山のなかで、町のもんが見りゃあな、
 「あんな山のなか、どこが良うて」っちゅうなもんやけどな。
 困ったときはお互いに助け合って、そして、「あれがないか」「これがないか」って助け合うし。
 笑いながら、歌いながら、仕事をした。うん。

 でな、町のもんから見るとな、豪雪地帯やろ?
 雪が大変じゃろなと思うけれども、
 こりゃあな、極楽のようなとこ、私たちには。

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(ナレーション)
昭和11年、同じ村の宮大工と結婚。
一男一女にも恵まれます。
しかし、昭和16年、夫が二度目の応召で、インパール作戦へ。
生死不明と告げられます。

戦後、夫の無事を信じて、留守を守りつづけた増山さん。
昭和52年に、ダム建設で村が消えるという計画がうごきだすと、
カメラを手にとり、カメラばあちゃんになりました。


 増山さん:
 家のとうちゃんがな、もし戻ってきたとき、
 夢にまで見たであろうアガデのふるさとがダムになってまっとっちゃな、
 「どうやって、ダムになったんじゃ」って訊かれた折に、説明のしようもないわと思ってな。
 昭和32年から、「明年はダムになる」「さ来年にはダムになる」って、こうやって、引き延ばされてきたんやしな。
 あんまり長うなったし、それから、だんだんと、反対しとる明治生まれの気骨のある人間も死んでいくしな。
 こりゃあ、国がいっぺんやろうと思ったら、戦争もダムも、必ずやるに違いないで。
 こういうな、大川にアリが逆らっとるようなことをな、しとっても、しようがないでな、
 ちぃとでも、これは残しとかんてぇと。


(ナレーション)
村を記録するという、強い決意。
生まれてはじめて手にしたカメラで、徳山村で生きる、村の人たちのポートレイトを写し始めました。

まもなくダムに沈んでしまう・・・。
切迫感を、笑い声を打ち消しながら、シャッターをきりつづけました。

 増山さん:
 この人とも、もう、これでお別れ、
 この人ともお別れ、と思って、
 もう、ひと月も無いんじゃからと思って、撮った。

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(ナレーション)
その視線は、花や樹木にも向けられます。
苦しいとき、悲しいとき、本音を語った、ふるさとの友を失うという気持ちでした。

 増山さん:
 何百年も立っとる樹が、まあその、ずうっとそこにあって、
 「何をトロくさいことを言うとるんじゃ、このワシを見よ」ってな、
 「大水に  根をあらわれ、台風がくりゃあ枝を折られても、こうやって何百年も立っとんじゃぞ、トロくさいこと言っちゃあアカンぞ」ってな、
 励ましてくれる、いつもかも。

 これなんかも、生きながらにして、こうして、ダムに徐々に沈んでいくんかしらんと思うとな・・・可哀相な気がしてな。

(ナレーション)
写真を撮りはじめて六年目、最初の写真集を出版し、村の人たちに配りました。
しかし、ダム建設をめぐって、人々のあいだに亀裂がはいり、翌年、村外への移転もはじまりました。
家を壊し、更地にした人々・・・それが、保証をうけるための条件でした。

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最後の祭りが行われた夜も、増山さんはシャッターをきりつづけました。
初めてカメラを手にしてから、九年の年月が流れていました。

(村人の祭りのかけ声)
ワッショイ ワッショイ
ワッショイ ワッショイ

(ナレーション)
写しても、写しても、写しきれない。
村が地図から消えたあとも、増山さんは活動を続けます。
移転先を一軒一軒たずね、声をかけ、交流をつづけました。

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増山さん(訪問先の友人に写真を渡しながら):
 これ見てみよ、あんたにもあげたじゃろ、これ。
 ハッハッハッハ。
訪問先の友人:
 いかにも嬉しそうなこと!
 どうやね、こりゃあ、やれ嬉しい。
増山さん:
 憶えとるか、これ?

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増山さん(写真を撮影する):
 えー、とー、さん、と。

(ナレーション)
新たなポートレイトも撮影します。

増山さん(訪問先の知人に):
 忘れたことはないぞ、うん。
 ときどきな、わしゃあ、あんたのとこに電話するんや。
 泣くなて!
 せっかく楽しいのに泣いちゃあかん。

増山さん(取材に応じて):
 やっぱし思い出してくれるんだろうな、ふるさとのことを。
 どういうわけか知らんけど、わたしが行くと、みんな笑いだすんでなあ。
 わたしも、また、ワハハって笑うしな。
 うん、うれしいな。

 人間は、いつ、ぶっ倒れるかも分からんし、どういうことがあるかも分からんし、もうこれが最後、これが最後、と思って撮らしてもらうし、明日が今日あるかどうか分からんですから。

 その時その時に、あたえられた(聴き取り不可)なんか、
 すこしでも幸せを見つけていかんとな、
 人生が暗くなる。

(ナレーション)
失われていくふるさとと人々の姿を記録しつづけた増山たづ子さん。
「ふるさとは心の宝。」と、カメラを手に闘いつづけた人生でした。


 増山さん:
 本当に、本当に「諦める」なんて無いでしょう? 人間は。
 どう思う、あんたは?
 人の心って。

 もうね、スパッとね、仕方がないっちゅうて、
 例えば、大根の尻っぽをピシャッと切ってね、
 そうやって、パッと離れられるような「諦め」って、人間にはあるんでしょうか?
 あなたはどう思いますか。

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(エンドタイトル)
 アマチュア カメラマン 増山たづ子 1917-2006

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『あの人に会いたい』やなせたかし

 
『あの人に会いたい やなせたかし(NHK、2014年3月15日放送)


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漫画家、やなせたかしさん。
子供たちに大人気、『アンパンマン』の生みの親です。
アンパンマンは、困っている人に自分の顔を食べさせて助けるヒーロー。
やなせさんは、自らの考える「正義」を伝えようとしたのです。

やなせ:
正義の味方だったら、そこにひもじい子供がいれば、その子供になんか食べるものをあげるっていうほうが、一番正しいんだと思ったんですね。
つまりですね、怪獣をやっつけるよりもですね、まず、お腹が空かないようにしてあげることが正しいんだ、と思ったんです。

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やなせさんは大正八年生まれ。
少年時代を高知県で過ごしました。
子供のころから漫画が大好きで、絵にかかわる仕事をしたいと学生時代はデザインを学びました。
しかし、夢へと向かう道へ、戦争が影をおとします。
昭和15年、徴兵され、その後 中国の戦地に送られました。

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当時、やなせさんは戦争の正義を信じて戦いました。
ところが、終戦を境に、自分の信じた正義は一転してしまいます。

やなせ:
正義というのはね、逆転するんですよ。僕らは、兵隊にいって向こうへやられたとき、「これは正義の戦いで、中国の民衆を救わなくちゃいけないんだ」と言われた。ところが、(戦争が)終わってみれば、おれたちが非常に悪いやつで、侵略をしてたってことになるわけでしょ。
だから、ようするに、戦争に、真の正義というものは無いんだ。


「正義」への疑問をかかえたやなせさん。戦後は、プロの漫画家を目指します。
しかし、漫画だけでは食べていく事ができず、イラストレーターや舞台美術など、さまざまな仕事をします。
そうしたなかで、やなせさんが作詞した「手のひらを太陽に」は、NHK『みんなのうた』で流れ、注目をあつめました。

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やなせ:
漫画の仕事が無いんだよ。で、夜、仕事をしていてですね、わびしいんだよね。それで、電球のところで、こう、手を見ているとですね、血の色がすごく赤くみえるんですよ。オレは元気が無いんだけど、血は元気なんだな、と思ってね。
「手のひらを太陽に透かしてみれば」っていう歌をつくったんだ。


いっぽう、本業の漫画ではなかなかヒット作にめぐまれません。悩みつづけたやなせさんは、ずっと心にかかえてきた「正義」をテーマとする作品を描きはじめます。
昭和44年、はじめて「アンパンマン」が登場します。
アンパンマンは、お腹をすかせた子供にアンパンを配って廻る、小太りの男。
当時流行していた正義の味方とはまったく違うヒーローでした。

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その後の作品で、アンパンマンはいまの姿におおきく、ちかづきます。
主人公は、売れない漫画家。
「アンパンマン」という作品を出版社に持ちこみますが、門前払いです。
お腹がすいて倒れそうになったときに現れたのが、アンパンマン。
《さあ、オレのほっぺたをすこしかじれよ。遠慮するな。ガブリといけ。》
やなせさんの考える本当の正義が作品として描かれました。

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やなせ:
正義をおこなう人はですね、自分が傷つくということを覚悟しなくじゃいけない。だから、アンパンマンは自分の顔をあげる。
自分のエネルギーは落ちるんだけど、それは、そうせざるをえない、そうしなくては仕方がない。つまり、正義には、一種の悲しみというんですか、傷つくというところがある。そんなにカッコいいもんじゃない。

昭和48年、やなせさんは、ストーリーと絵をわかりやすくして、幼児向けの絵本を出版します。大人たちからは、自分の顔を食べさせるという設定がグロテスクだと不評でした。しかし、子供たちの反応は違いました。幼稚園や図書館でアンパンマンの絵本を夢中になって読んでいたのです。

昭和63年に、テレビアニメも始まります。漫画家になって35年。69歳になってやっと手にした代表作でした。
アニメの主題歌も、作品への想いをこめて作詞しました。

やなせ:
   なんのために生まれて
   なにをして生きるのか
   こたえられないなんて
   そんなのは いやだ!
   今を生きることで
   熱い こころ 燃える
   だから 君は いくんだ
   微笑んで


アンパンマンを描きつづけたやなせさん。
そのいっぽうで、三十年以上、無報酬でつづけた仕事があります。
イラストレーターや詩人を目指す人たちが作品を発表する雑誌の、編集長です。

やなせ: この世の中へ出ていくときに、なんにも無いんですよね。なんにも無いところへ、僕らは売り出していくわけだから。どっかで、手掛かりが欲しいんだけど、なかなか無い。だから、僕の場合は、そういう手掛かりをね、いくらかでもチャンスをあげられるようにしたい。

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2011年3月11日、東日本大震災。
当時、やなせさんは九十歳をこえ、引退を決意していました。
そこへ、本人もおどろく知らせがとどきます。
ラジオで、「アンパンのマーチ」にリクエストが殺到しているというのです。
(ファックス)《アンパンマンに元気をもらいました》
(ファックス)《子供が「ぼく頑張るよ」とつぶやいていました》

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やなせ: ですから、現地の子供から手紙がくるんですけどね、「わたしはすこしもこわくない。いざというときは、アンパンマンがたすけにきてくれるから」って書いてあるんだよ! そう信じてるならですね、やっぱり、それに価することをしなくちゃいけないなあ、と。

やなせさんは病気に冒された体をおして、被災者の支援にのりだしました。
直筆の色紙には、《きっと君を助けるから》とアンパンマンの言葉をしるしました。

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漫画家、やなせたかしさん。
自らの想いをアンパンマンに託して、亡くなる直前まで描きつづけました。


やなせ: 僕はもう死んじゃいますしね。でもね、アンパンマンそのものは、どうも、生きるんじゃないかと思います。
自分が晩年になって、このヒーローにめぐりあったわけなんで、もう夕日なんですね。
そのなかで、きみに会えてよかった、と思ってます。

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(エンドタイトル)
 漫画家 やなせたかし 1919-2013

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なんとかするための方法

 
平和をまもっていく方法、戦争をなくす方法、経済格差や貧困をなくす方法。若い命をまもったり、誰でも何もおそれることなく生きていけるような社会にする方法。
いったい、そんな方法は、あるでしょうか。

それは、僕はあると思うようになりました。

そのための、もっとも簡単で、もっとも優れている方法とは、「ひとが集まること」であろうと思われます。
唯一の方法、といってもいいかもしれない。

大規模がよいかもしれないけれど、小規模でも良いのです。
たった一人や二人であってもいいのです。
数十人や数百人の集まりもよいでしょう。

数千人や数万人なら、国家的に何かが変わる可能性が生まれると思います。さらに、数十万人なら、確実に国家をうごかす力が生じます。
しかし、数千人や数万人が集まらなければ何も変わらない(または、何もまもれない)と言ってしまうのはオカシイと思います。
それは自分一人の力を棄ててしまっているからです。
自分一人の力を棄ててしまうと、ガラガラと平和はくずれさり、弱いものから順番にひどい目に合わされる世の中がやってきます。

ひとが集まること。これ以外に方法論は無いといっていいんじゃないかと僕は考えています。
これが僕が、「どうしたらいいんだろう」と浅知恵でかんがえて、この数年間(たったの数年間なのですが)で、たどりついている結論です。
言うまでもありませんが、こんなことは、数十年、いや数百年前や数千年前から、すでに得られている答えですし、日本中や世界中で膨大な数の人たちがすでにそのように行動しています。

でも、ちがうかもしれません。
僕は、つい最近に、見たり聞いたり読んだりして考えただけのことです。
ただ、どうやらほんとうに、たくさんの人が実践していますから、僕は確信は増すばかりです。(それこそが、「人が集まる」ということの意味だと思うのですが。)

どう思われますか。
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