災害と表現

今年はとんでもない年となった。
記録的な猛暑、中国四国地方の豪雨、大阪の地震、大阪の台風、そして北海道の地震。
被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。

時期は良くないかもしれないのですが、「災害と表現」ということについて書いてみたいと思います。
僕は、あの、七年前の東日本大震災の、すぐ後のことをよく思い出すのです。
映画監督・宮崎駿が、『コクリコ坂から』の完成にともなって記者会見を開きました。2011年3月28日のことでした。

僕はそのとき、「えっ、よりによって宮崎駿が・・・。一体どんな顔をして登壇するのだろう?」と思いました。

ご存知のように、宮崎駿はずっと自分の作品で「洪水」や「溺れる」や「街が海に沈む」ということを何度も何度もメインテーマとして扱っているからです。
『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』『未来少年コナン』『パンダコパンダ』『雨降りサーカス』『カリオストロの城』など。他にもありますかね。(すべての作品を観ているわけではないので。)『天空の城ラピュタ』も原作は海に沈んだ世界の話だったはずです。『となりのトトロ』でも、メイちゃんが池で溺死したのではないかと疑われます。(実際には無事でした。)

じつは僕は、宮崎駿が、なんらかのかたちで反省の意を表明するかもしれないと思いました。
人が溺れたり、街が水の底に沈むことを、娯楽映画のなかで描きすぎた。いくらかは明るい情景として。
ところが実際は逆でした。そのとき彼はもっと意義のある説明をしました。

《私たちの島は、繰り返し繰り返し、地震と火山と台風と津波に襲われてきた島です。それでも実はこの島は、非常に自然の豊かな恵まれた国だと思います。多くの困難や苦しみがあっても、もう一度、もっとより美しい島にしていく努力の甲斐のある土地だと思います。今は本当に、埋葬されない人をいっぱい抱えながら、あまり立派なことは言いたくありませんが、この自然現象の中で国を作ってきたわけですから、そのこと自体を僕らは絶望したりする必要はない。(中略)今、僕は文明論的に高所からいろんなことは語りたくない。死者を悼むところにいたいと思います。》

つまり、日本人というものは、ここに住むかぎりは、つねに水難と向き合わなければならない。しかし日本列島は、その苦労に見合うだけの、山の幸、海の幸、川の幸のある素晴らしい土地であって、私たちの祖先はここに住みつづけようと、何百年か何千年かけて決心したのだ、と言っています。
これを聞いて僕は、宮崎駿によくよくの考えがあって、わざわざ水難を描いてきたのだと驚嘆しました。なんらかの個人的体験のみにもとづいてあのような作品をつくっているのだと思っていた僕はあさはかでした。
いうなれば、「千尋」が川で溺れた恐怖体験を乗り越えて大人になることや、「宗介」の家族が大波と闘いながらも海と共存していること、「コパンダ」が川に流されて父親に救われること、「コナン」が文明が海に沈んでしまった世界で生きること、これらはすべて、日本という列島にはつねに水難がつきまとうこと、そして日本人がその苦難と闘っている様子をあらわしているのだと言い切っても過言ではないのでしょう。

   *   *   *   

ところで、宮崎駿の映画は「震災前」の作品です。東日本大震災のあとに津波と原発事故を描いた映画といえば、『君の名は。』というのがありました。(よく引き合いにだされる『シン・ゴジラ』は僕は観ていません。)
じつは、僕は、こんな恐ろしい作品がはずかしげもなく映画館で上映されたこと自体、僕はいまだに信じられないのです。
この映画は、東日本大震災を「ひっくり返して描く」ということをやっているようです。「海」は「空」に、恐ろしい津波は美しい彗星に、海岸は山に、冬は夏に、空前の規模の原発事故は意図的な小さな変電所の火事に。そして男と女(これは東京と東北を表している)、過去と未来、が「ひっくり返る」ことによって、すべてがうやむやになり、最後は「助からなかった人たち」が「助かった」という、それこそ「ひっくり返し」がおきます。なんのメッセージも意味も持ち得ない作品です。ふざけているとしか思えません。
言いたいことは分かります。「東京と東北は深い〈絆〉で結ばれている。けれども、お互いのことを良く知らない。そして、このたびも、救いの手を差し伸べることも出来なかった。いつかは出会える日がきますように。」ということです。
最大の問題は、いうまでもなくエンディングです。家族などの大事な人を失った方々にむけて、「あなたの愛する人たちは、もう一つのパラレルワールドでは元気に生きているかも」・・・なんて、どんな神経の持ち主が言うのでしょうか。
商業作品だから、最後はハッピーエンドにすることが求められたのでしょう。それならば震災なんて扱わなければ良かったのに。だからこそ、この映画は決定的にダメです。あまり人を批判することはしたくありませんが、やはり、「ふざけるな!」と言いたい。

そしてこの映画は大ヒットしました。理由は簡単です。「もしあの震災で人々が助かっていたら・・・」なんて、日本人全員が望んでいるに決まっています。その願望を、ぼんやりと、あやふやにして映像化したからです。
こんな映画を許していいのでしょうか。

*     *     *

どうしたらいいのか。僕の思っていることを書きます。 
それは、僕たちは、表現の際には、表現を受けとる際には、問題の「中心」に向かうことが必要なんだと思います。 
雰囲気、空気、なんとなく、ふちどり、周り、その辺り、見た目、外側、包装、ビジュアル、には意味がないのだ。そんなものだけでやりすごしてこれた時代は終わったと思う。
この『君の名は。』でいうならば、「雲の絵がキレイ」とか「音楽が感動的」とか「女の子と男の子がワー」とか「時間と空間がワー」とかいくら言ったって、問題の中心が描かれていない以上、何の意味もないことなのだ。

外側を飾りたてて、周辺でお茶を濁していても絶対にたどりつけない。
表現とは、どうにかして、その中心を描かなければいけないと思う。

2018年10月

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