ギルスコットヘロンの論じている革命は「黒人革命」(すくなくとも狭い意味では)でしょう。ときは、1970年。歴史的には、進歩的であった「公民権運運動」が勢いを落としてしまい、そのあと1960年代後半の急進的な「ブラックパワー運動」が手詰まりとなった直後です。こういった運動の全体が、見直しを迫られていた時期といっていいでしょう。その文脈としては、武装闘争、つまり警察や軍隊を相手にドンパチするようなものではないということです。
ここでは、「武器をとれ」とか「組織をつくれ」とか、そういったことは一切いっていません。「ブラックパンサーを支持しろ」とか「ストークリーカーマイケルを応援しろ」も言っていません。「キューバ革命を見習え」とか「フランス革命を見習え」というような、革命の最終的な段階のことは言っていません。
ギルが伝えていることは、〈革命というのは段階的なものである〉ということなのです。彼はその最初の段階だけを描いています。明確に理解されているのが最初の段階だけだからです。最初の段階とは、一人ひとりが目を覚ますことです。目を覚ました者は、テレビのスイッチを消す。テレビのブラウン管(いまならば液晶画面だけれども)の向こうにあるものは、企業や政府などのアンチ革命的な者たちがつくりあげるイメージの世界だから。そのイメージによる束縛から自由になり、現実の自分、現実の社会に目をむけるということ。広告の魔の手から逃れて本当の自分と向き合うということ。それをしなければ、自分より強くて大きいものである企業や政府に簡単に釣り出されてしまい、自分たち(自分や仲間)の暮らしを良くすることはできない。人間ひとりひとりの尊厳は、いつまでたっても勝ち取ることができない。
革命の次の段階は何でしょう。テレビを消したあとは、どうするのでしょうか。それは第六段落とつぎの最終段落で語られています。僕たちは、テレビを消したあと、外にでなければいけないのです。何のために? 仲間に「みんな、テレビのスイッチを消すんだ! そして外に出よう!」と伝えるために。本当に大切なことを仲間と共有するために。目のまえでなければ、本当に大切なことは共有できないのです(第二段落)。
革命とは、劇的な武装闘争である必要はまったくありません。かならずしも、即座に憲法や国家体制が一変するようなものである必要もないのです。なぜなら、革命は段階的なものだからです。言うまでもなく、革命のもっとも身近な成功例は、公民権運動(およそ1955-1965)であったでしょう。それは、バスのボイコット、ワシントン大行進、セルマ行進などの、非暴力主義を掲げた行進・ボイコット・座り込みなどでした。
チリのアジェンデ社会主義政権の誕生は1970年の暮れですから、この歌と直接的なつながりは薄いのかもしれません。けれども、むしろ「同時性」のことは考える必要があると思われます。また、いわゆる「アメリカ性革命」(女性解放運動、性表現の自由化、LGBTの権利運動)も、革命の一端というでしょう。
八十年代には、おとなり韓国での全斗煥大統領に対する民主化運動、中国での天安門闘争がありました。記憶にあたらしいものは、エジプトのムバラク大統領政権を崩壊させた革命(2011年)がありましたが、残念ながらそのあとふたたび軍事政権になっているようです。2017年に韓国でおきた朴槿恵大統領にたいする大規模な弾劾要求デモは記憶にあたらしいところです。
これらの革命はすべて、デモ・集会をひらくこと、によっておこっているのです。それ以外に方法論は無いのです。だから、ギルは必然的に外に出なければならないと言っているのです。
ギルは革命の初期のプロセスのみを描いています。目覚めて外へ出ることです。そのあとどうなるのでしょうか。この詩では、「目が覚めれば、広告や麻薬や酒などが自分の敵であるとはっきり認識できる。そして目覚めを共有するために家の外へ出る。そこまでは分かる。それ以上のところはまだ分からない」と言っているように僕には思えます。
そうです、そんなことは分からなくたって、よいのです。ギルも私たちも、いち市民であって、運動家でも政治家でもないし、ましてや占い師ではないのです。とにかく半世紀前のギルは僕たちに警告を発してくれています。「分かるところまで」を僕たちに教えてくれています。僕たちは「分かるところまで」の知識を共有していかなくてはいけないのです。
もちろん僕も、そのつづきはハッキリとは分かりません。ただ、きっと、目覚めて外に出たあとは、そこに居合わせる人たちどうしで連鎖反応的に目覚めを加速させるべきだと思います。だから、そのような集会をひらくのがもっとも良いと思うのです。
つまり、みんなに知らせるために外にでる。外にでたみんなで集会をおこなう。集会の目的はみんなに知らせることである。知らされた人たちは、おなじく外にでる。みんなに知らせるために。 いずれにせよ、革命とは外に出ることなのです。
(最終段落)
そうです、そんなことは分からなくたって、よいのです。ギルも私たちも、いち市民であって、運動家でも政治家でもないし、ましてや占い師ではないのです。とにかく半世紀前のギルは僕たちに警告を発してくれています。「分かるところまで」を僕たちに教えてくれています。僕たちは「分かるところまで」の知識を共有していかなくてはいけないのです。
もちろん僕も、そのつづきはハッキリとは分かりません。ただ、きっと、目覚めて外に出たあとは、そこに居合わせる人たちどうしで連鎖反応的に目覚めを加速させるべきだと思います。だから、そのような集会をひらくのがもっとも良いと思うのです。
つまり、みんなに知らせるために外にでる。外にでたみんなで集会をおこなう。集会の目的はみんなに知らせることである。知らされた人たちは、おなじく外にでる。みんなに知らせるために。 いずれにせよ、革命とは外に出ることなのです。
(最終段落)
The revolution will not be televised, will not be televised, will not be televised, will not be televised. The revolution will be no re-run, brothers. The revolution will be live.
革命はテレビ中継されない。革命はテレビ放送されない。もちろん再放送もできない。なあ兄弟よ、革命が起きるときはーーー目の前で起きるのだ。
革命が起きるとき、それはライヴ(目の前)で起こる。ブラウン管やスマホによって目覚めが訪れるのではないのです。テレビ放送局やインターネット企業はすべて広告に乗っ取られているからです。
目覚めとは、「本当に有るものを見られるようになる。」ということです。寝ぼけている者は、無いものを見ています。無いものを見ている人は有るものを正しく見ることができません。本当に存在しているものだけを見れば、自分は誰か、自分の仲間が誰か、がわかります。その暮らしを本当に良くするために何が必要か、おのずから答えがでてきます。それが革命です。
目覚めのあと、僕たちは何人かで(または何万人かで)道のうえにいるのです。
革命は、段階的なものです。目覚めも、集会も、運動も、それぞれに段階的なものだと思われます。先に述べたようなことで、どのレベルでも発生するし、それを革命と呼ぶと僕は思います。
(おわり)