原監督への質問(メモ)

8月22日に、原一男監督とトークショーをやらせていただくことになりました。

あの憧れの原一男氏!
やっぱり『ゆきゆきて』には並々ならぬ思い入れがあります。
トークショーといっても、僕が原氏に質問をする、という形しかありえないと思いますので、当日をむかえるまえに、僕の考えたことや、質問したいことをメモしてみました。
すべて質問できると思えませんし、まったく違う話になるかもしれませんけれど。


極私的エロスの感想
・心に残る名作。
・やっぱり武田さんの魅力かな。(理想、いらだち、とまどい)
・沖縄の黒人兵は、(おそらくみなさんが思っているほどは)イケてない、というのが僕の印象。
・黒人側からでなく黒人を捉えている映像を久しぶりに観た。
・〈被写体に自己表現させる〉という手法に納得
・やはり、1968年革命の尾びれの青春群像ということか。

質問その1 60年代について

「政治の季節(1968年の革命)に青春を過ごした経験」から、「勇ましい進撃に最後尾から付いていきたい」とをおっしゃっている。
それが映画をつくる原動力になっている、と発言されている。
僕・中田は、1972年生まれであるが、いくらか共感しています。
アメリカ音楽は、ベトナム反戦運動や公民権運動やブラックパワー運動と並行して、とても活気があった。
僕はその活気に憧れている。ずいぶん長いあいだ「自分は活気のない時代に生きている」という認識があった。
ところで、いま、「1960年代がまたやってきた」というのは、多くの人が発言しているところ。
人種差別の再燃(アメリカでも日本でも欧州でも)。三度目の安保闘争。基地問題。
原監督にはそのような「60年代がふたたび」という感覚はありますか。
あるとしたら新作とどのように関係づけられるか。


質問その2 70年代について

70年代前半、本格的にシラケていく前の、「1968-9年のシッポ」的に、「さようならCP」「極私的エロス」が存在していると思います。
それは、タブーに挑戦しよう、反体制的であればあるほど良い、というような感覚。
それは1970年(万博など)を境として、学園紛争の敗北、資本主義の勝利、というメインストリームへのアンチテーゼであったと思います。
ですので、作品の力強さの反面、「社会を変えよう」というような目的が希薄であるように感じられる。
そこが「表現者を撮る」という監督のテーマと連動するように思えます。
「監督である原氏は表現者では無い」と言っているようにもとれる。
「極私的」というタイトルにもそれが現れているように思われる。
この概観は合っているか、それともピントハズレか。どのように総括されているか。


質問その3 極私的エロスについて

・武田氏はなぜ沖縄に行ったのか。→武田氏が恋心をいだいた活動家を追いかけて沖縄へ行ったとのこと。
・武田氏は「演技している」と思われるが、それでよいか。
・武田氏の自己表現としての「(彼女なりの)フェミニズム活動」と考えるが、それでよいか。
・武田氏の自己表現は、作品とどのように関連づけられるか。彼女の自己表現を捉えたのが映画なのか、映画が彼女の自己表現なのか。
・やはり、「ゆきゆきて」と非常に似ている。本質的に違うところはどこか。
・最近、荒木経惟という写真家が、彼の被写体を務めた人物から告発されるということがあった。そのことについて感想はありますか。
・それほど「極私的」「エロス」という印象はうけません。僕には武田さんの自己表現にみえる。その点について。


質問その4 80年代について

奥崎謙三なるものとは、あの凄惨をきわめた日中戦争・太平洋戦争の傷跡である。『ゆきゆきて』は、日本の戦後が終わっていないことをえぐり出した。
1980年代とは、日本が世界一の金持ちの国になってしまった時代。
戦争とは何か、戦争責任はどこにあるのかという重苦しいテーマを、逆手にとったような不思議なポップさを帯びていた。
その点において秀逸であった。
ただし、同時に、『ゆきゆきて』は、ポップなものとして(つまり面白いものとして)成功し、消費されていった。
戦争とは何だったのかという問いさえもおカネ(映画作品という商品)におきかえて飲み込んでしまうというところに、80年代の凄さ、恐ろしさがあった。(また、それは残念ながら現代の日本にも受け継がれているだろう。)

これは作品において、コインの表裏、左右の車輪のように機能している。
「面白いドキュメンタリーを撮りたい」と考える映画人ならば当然なのかもしれないが。
これを、いまどのように総括されているか。
たとえば、「まったく面白味に欠けているが、ずばり本質をついた映画をつくる」という行為はやはり意味がないのか。


質問その5 現代と原監督について

「現代なら奥崎のような生き方は成り立たないと思う」と発言されている。
僕はそれは逆ではないかと思う。
奥崎謙三は笑われて消費された。(ただしそれは表層だったので、いまでも映画は語り継がれているから消費され尽くしたあとに大事なものは姿を表していると思う。)
奥崎氏を笑うことのできた「余裕」は、日本がお金持ちだったから。
いま奥崎謙三は必要とされていない。
必要とされているのは、もっと現実的な英雄であったり、もっと実効的なデモ運動だと考える。


質問その6

私見ながら、1960年代から70年代、80年代を経て、いま時代は大きく、元にもどってきているように思う。
2018年に、映画や音楽に求められているのは、抽象的な「表現の爆弾」ではなく、直接的な抗議ではないか。
もっと直接的に政治を正していくような力が求められているのではないか。
映画や音楽も良いのだけれども、もっと、デモをしたりとか具体的な抗議をしたりとか。
平和な戦後が終わって、新たな戦前に向かっている。
(奥崎氏のようなテロリズムやアナーキズムというのは、僕には「平和な戦後」における極左運動のようにみえたので。)
それは原監督の題材のシフト(表現者から生活者へ)と符合しているように思われる。この解釈は合っているか。

(・・・質問が大雑把すぎる。もうすこし考える!)

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