「極悪人のつくる素晴らしい音楽」


 高校生のときに読んだ本なのですが、五木寛之の小説で『青年は荒野を目指す』(1967年)というのがありました。
 青年がトランペットを片手に世界中を旅する。さまざまな体験や出会いを経て、ひとりの音楽家、ひとりの人間として成長してゆく物語です。
 この小説のなかで、主人公があるものに出くわして真剣に悩むエピソードがでてきます。それは、《ナチスの将校が描いた、ものすごく美しい絵》というものです。(うろ覚えですので詳細が違っていたらご容赦ください。)
 高校生だった当時から今にいたるまで答えは出ていませんが、僕も、いまだにしょっちゅう考えているのですが。

  極悪人であっても素晴らしい芸術を生むことはできるのか?
  (善人でなければ人を感動させることはできないのか?)
  作品が、それの持つ意味や制作背景やメッセージを超えて、「ただ美しい」ということは可能なのか?

 という問いです。

 僕の知りたいのは、「作者の人がら」「制作された文脈」「作者が意図したメッセージ」などを越えて、芸術表現の価値が存在しうるものなのか、それとも、そういった「意味」そのものが表現と考えるべきなのか。
 自分で書いていてアタマがしっちゃかめっちゃかですが。
 ・・・はっきり言いまして、僕なんかにはよく分かりません。難しいです。まあ、われながら「美」なんて云ってみても胡散臭くて仕方がありません。
 その五木寛之の本、ちかいうちに読み直してみようかなと思っています。

 今日のところは、話が長くなるんで、どうせ文才も時間もないので、スッ飛ばして僕なりの、いまのところの結論だけ書きます。
 僕は次のように考えています。

  ・音楽の能力があれば、人に快感をあたえることは可能。
  その快感と、作品が素晴らしいかどうかは、かならずしも繋がらない。
  ・なにかしら邪悪な意義をもちつつも、音楽の力で人に快感を与えるとは可能。それどころか、とても容易。
  ・もちろん、その場合、作品としては〈素晴らしくない〉ということになる。
  ・また、物理的な快感をまったく感じさせない音楽であっても、素晴らしい意義をもたせることは可能。
  ・その場合は、作品としては、〈素晴らしい作品〉となるだろう。

 しかし、こうなってくると、「じゃあ、音楽(空気の振動を利用した時間の芸術)なんて存在理由ないやん」ということになりかねない。
 しかしそれは、そんなことは無いと僕は思う。
 音楽的に優れていて、かつ素晴らしい意義を持っているものをつくるように努力すれば良いのだろうと思う。
 そうして、最終的なところでは、音楽の力というものと、作品のもつ力というものは結び付くのだろうと予想される。そう、そこにたどり着いたら良いのだ。
 たどり着ける気はしませんが、まあ理屈としてはたぶんそういうことなのでしょう。

2019年12月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31