2017年9月アーカイブ

マーサ・ハイ物語(第二回)


 さて、前回(第一回)でも書いたように、マーサは1945年生まれワシントンDCで育ちました。
 ワシントンDCというのは、ご存知のようにアメリカ東海岸の真ん中あたりにあります。ニューヨークから車で4時間ほどですから、東京から名古屋くらいでしょうか。(そんな説明は要らんか・・・。)言うまでもなくアメリカ合衆国の首都で、議会議事堂やホワイトハウスがあるところ。「政治の街」として知られるところです。
 しかし、ワシントンDCは、それとはまったく別の顔をもっているのです。それは、黒人の人口比率が50%を超えるところで、FUNKファンの間では〈チョコレートシティー〉として知られるところなのです。
 ダニーハザウェイとロバータフラッグが通い、そして出会った、あのハワード大学のある街。
 デュークエリントンの出身地であり、あのハワード劇場がそびえる街。
 「ゴーゴー」という新しいFUNK(っていうのかな?)を産んだ、ひときわ音楽の盛んな街。
 これから、お話しするマーサハイの物語のなかにも、お馴染みのR&Bスターが何人も登場すると思います。

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(1940年代:デュークエリントン楽団、ハワード劇場にて)

 マーサは、そんなワシントンDCの「O(オー)ストリート」というところにあるアパートで幼少時代を過ごしました。一般的にはフッド(ゲットー)と言われている地域です。彼女自身は、「私は、貧困や差別を味わったことは無い」と言います。ちょっと話はそれるかもしれませんが、そういえばマーヴァホイットニーも同じようなことを言っていました。こういう発言をする人はたくさん居るのです。そういえば、ちょっと話は飛びますが、マイルズデイヴィスもよく言っていました。「オレの父親は歯医者だし、母親は、お前のガールフレンドより美人だったぞ。黒人がゆえの苦労なんてしたことがない」と。
 マーサは1940年代から50年代にかけて育ったわけですから、差別を体験していないはずはありません。この時代には、ワシントンDCでも、白人と同じレストランや公衆便所を使うことさえ許されていませんでした。黒人がバスに乗るときは後ろの専用席に座ったのです。ただ、そういった〈隔離〉が当たり前の時代だったので、子供のころは疑問を抱かずに育ったということです。それに、「中流」ということは決して無かったのでしょうが、黒人のステレオタイプとして思われるような貧困のなかに育ったのではない、ということを言っているのだと思います。

 話を元に戻します。中学生から高校生のころは、母親のレコードを聴くのが楽しみだったそうです。グロリアリン、エタジョーンズの「Don't Go To Strangers」などをよく聴いたそうです。それから、ラムゼイルイスやアーマッドジャマルのピアノのレコードも大好きだったそうです。特に、アーマッドジャマルの「ポインシアナ」が一番の愛聴盤だったそうです。
それから、当時もっとも人気のあった歌手は、ベイビーワシントンやマクシンブラウン。憧れの的だったそうです。

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71fvzSsep1L._SL1200_.jpgMI0001452777.jpg  高校一年生のころ、グロリアリンの歌をうたっているうちに、初恋の相手だった男の子に歌が上手だと言われて、自分の才能に気がついたそうです。いい話ですね。

 マーサには二人のお兄さんがいて、両親と五人家族でした。お父さんはワシントン国立公文書館での仕事と、副業として掃除業もやっていました。お母さんは総菜屋さんで働いていたので、両方からの収入があり、それほどまでに貧乏ではなかったと言います。生まれたのは三階建てのアパートでしたが、九歳のときにお父さんが昇進したのをきっかけに、ワシントンDC北西地区のヴァーナム通りにある一戸建ての家に引っ越しました。アパートが立ち並ぶOストリートから北西地区への引っ越したことは、本当に嬉しかった良い思い出だったそうです。

 わけあって高校三年生を二回やることになったマーサでしたが、そのルーズベルト高校で、高校三年生のとき「ゼオラ ゲイ」という友達ができました。さらに彼女の友達のイヴォンヌとも知り合いました。その三人でボーカルグループを結成しました。そのゼオラは、何を隠そう、のちに有名になるマーヴィンゲイの妹でした。ゼオラはやはり歌がうまかったそうです。
 彼女たちは、ワシントンでは有名な「チボリ劇場」というところの中のリハーサル室でよく練習したそうです。同じ部屋を使っていた人達に、「シンシアリー」や「恋の十戒」で知られるボーカルグループ・ハーヴェイ&ムーングロウズや、「I DO LOVE YOU」等で知られる歌手・ビリースチュアート、そしてジュエルズが居たそうです。マーサは、後にこのジュエルズに加入することになり、その後の音楽人生が大きく開かれたのでした。

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(改修された現在のチボリ劇場

 そのチボリ劇場で出会った人物から、「ボディドリーの自宅スタジオに遊びに来なよ」と言われました。ワシントンDCに住んでいた、R&B界の巨人・ボディドリーは、地元の才能あるミュージシャンや歌手の手助けをするのが常だったそうです。マーサたちは、これはスゴいことになるかも、と期待に胸をふくらませたそうです。




マーサ・ハイ物語(第一回)


マーサ・ハイの来日を記念して、このブログでじっくりと彼女の経歴を紹介していきたいと思います。
せっかく書くのですから、世界中でどの記事よりも一番詳しく、できるだけ分かりやすく紹介したいと思います。
パワフルな歌声と美しいハイトーンを持つ、JBファミリーのスーパーシンガー、マーサ・ハイ。ジェイムズブラウンの一座で通算32年、メイシオパーカーのバンドで15年、そして何よりR&B/SOUL/FUNK界のプロ歌手として52年という、ファンク歌姫としての彼女の輝かしいSOUL/FUNKヒストリーです。

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まず、第一回目は大まかな紹介を。
マーサハイは、本名メアリー・マーサ・ハーヴィンといいます。1945年1月9日にワシントンDCに生まれ、そこで育ちました。
再来日する今年は72歳です。(年齢のことを言うのもはばかられるのですが、まあ、ほとんどの人から、必ずといってよいほど訊かれますので。)でも、本当にその年齢に見えるか聴こえるか、ぜひ楽しみにしていてください! 実のところ、「元気な60歳」くらいにしか思えません。

 マーサ・ハイのもっとも知られた功績としては、ジェイムズブラウンのバックコーラス歌手としての活動です。
 JBショーには、1960年代から実に通算32年間も在籍したのです。この記録は、司会のダニーレイを除けば、歴代トップでしょう。何十人もいる(もしかしたら百人を超えるかもしれません)JB関連のミュージシャンのなかで一番というのはスゴいことです。

JB代表曲のひとつ「THE PAYBACK」(1973年)や「Make It Funky」(1972年)「Ain't That a Groove」(1967年)などでの印象的なバックコーラスはマーサが担当しています。とくに、ゴールドディクアルバム『THE PAYBACK』のほうでは、ほぼ全編にわたってマーサのバックコーラスが聴かれます。
 70年代、80年代のライブでは一人でJBをバックアップしていますし、90年代にはビタースイーツのリーダーとしてステージに立っています。

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 ところが、マーサは、ソウル業界用語(?)でいうところの〈フィーチャードシンガー〉としての経歴は少なく、彼女自身のシングルもアルバムは数少なくて、すべてバックコーラスとしての仕事なのです。ですから、リンコリンズやヴィッキーアンダーソンやマーヴァホイットニーほどには、名前が世界に知られてこなかったのです。本当は、「同じ釜の飯」で同じJBプロダクションズ仲間・・・なんですが。
 というのも、実のところそれには理由があって、・・・それは追って書きます。JBファンの間では、よく知られたことなんですが。

 マーサのソロアルバムは、JBプロダクションの下では一枚だけです。1979年、サルソウルレコードと契約したブラウンが、トミースチュアート制作でつくったアルバム『Martha High』です。

61b30Zn9sWL._SY355_.jpg このアルバムは、ディスコ/ブギーのサウンドが再評価されて、つい2015年に初CD化されました。

 マーサのソロアルバムはもちろんこれだけではないのです。
 とくにヨーロッパで人気が高くて、この10年はあちこちから招待を受けて、アルバムを制作しています。2016年のアルバムはこちら、イタリアのプロデューサー、ルカ・サピオの手による『Singing For The Good Times』です。

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 もちろん、50年以上にわたるマーサの活躍はこれだけではありません。これの前にもあるし、この後にもたくさんあるのです。
 その詳しい経歴を、次回からお話ししたいと思います。
 ソウルファン/JBファンの方には、とくに楽しんでいただけるのではないでしょうか。 また、ハードコアなJBファンでない方々にも、わかりやすくお話ししてみたいと思います。

その2へつづく

A CHANGE IS GONNA COME(サムクック 1964年)

 
A CHANGE IS GONNA COME by Sam Cooke, 1964




僕が生まれたのは
川沿いの 小さなテントだった
まるで あの川の水が 絶えず押し流されてゆくように
この半生は ずっと敗れては逃げるばかり

 生まれてこのかた こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 良い時代が来ると。
 ああそうだよ

生活は苦しく もう限界だ
でも 死ぬのも怖いんだ
だって 空の上には天国があるなんて
本当かどうか もう分からないよ

 はるか遠い昔から こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 この世は良くなると。
 ああそうだよ

映画を観に行った
商店街を歩くと
罵声を浴びせられるんだ
「この辺りでウロウロするな」

 遠い昔から こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 マシな時代が来ると。
 ああそうだよ

兄さんの家へ行って
「兄さん、お願いだから何とかしてほしい」
でも しまいには口論になって手があがった
僕は地面に倒れたんだ

もう この命は長くないと
幾度となく思ったさ
でも今は
なんとか耐え抜くことが出来るかも
そんな気がしている

 遠い昔から こうだったんだ
 でも 僕は信じている
 いつかきっと
 良い時代が来ると。
 ああそうだよ



I was born by the river in a little tent
And just like the river I've been running ever since
It's been a long time, a long time coming
But I know a change is gonna come
Oh yes it will.

It's been too hard living, but I'm afraid to die
Because I don't know what's up there beyond the sky
It's been a long, a long time coming
But I know a change gonna come
Oh yes it will.

I go to the movie and I go downtown
Somebody keep telling me, "Don't hang around."
It's been a long, a long time coming
But I know a change gonna come
Oh yes it will.

Then I go to my brother And I say, "Brother, help me please."
But he winds up knocking me
Back down on my knees.

There have been times that I thought I couldn't last for long
But now I think I'm able to carry on
It's been a long, a long time coming
But I know a change is gonna come
Oh yes it will.
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