金曜日。朝11時に起床。お昼前にもなって目を覚ましました。しかし就寝したのが朝六時でしたので、「寝坊」ってわけでもないのですが・・・。
前の晩つまり木曜日、国会前でデモが終了するときに、SEALDsが「今日のところは電車のある時間で早く終了しましょう。明日は朝八時に集まりましょう」と言っていた。
さすがに朝八時に行くつもりは無かったにせよ、学生のみなさんが頑張っているのに、僕なんか、こんな時間まで寝ていて、ちょっと罪悪感です。
ところで、SEALDsが木曜の夜を早めに切り上げたのには、もちろん経緯がありました。
さらにひとつ前の晩(つまり水曜日の夜)が、ヤマ場だったからです。
雨だったにもかかわらず、戦争法案に対する抗議行動は夜遅くまで続き、電車がなくなって、老いも若きも国会前で、雨のなか朝までコールということになりました。
あの日は、みんなの団結力はすごいものがありました。風邪ひいた人も少なくないのでは? いくらなんでもちょっと無理があったかも・・・。
とにかく、あの晩はすごかった。(僕は、車で来ていたので朝3時半くらいに帰ったんですけど。)冷たい雨がつづき、余計にアツくなるものがありました。
水曜日は、たったの一日であまりにたくさんのことが起った長い一日でした。
午前中は地方公聴会があって新横浜で座り込み行動(僕は行っていないけど)、そして午後から参議院特別委員会の質疑開始をめぐって揉み合いがあった日。
結局、夜中2時くらいまでかかって、翌日に持ち越しが決まりました。
その水曜日の晩、とても印象的だったことがあります。
それは、深夜2時くらい、あの国会前の小さなステージの前にひろげられた、おにぎりやパンでした。
SEALDsの学生さん達が、交代で食料品を買い出しに行ったり、温かい飲み物を用意して頑張っているようでした。
動き回っていた彼らの姿を、傍らから、僕は惜しみない賞賛と憧憬をもって眺めました。「ああ、オレにもこんな時代があったなあ・・・」なんて、マジに胸がアツくなりました。
僕の場合のそれは、単なる学園祭やバンド活動だったわけですが、彼らの場合は「安保闘争」なわけです。僕の場合はとくに世間様のお役には立てなかったけど、彼らの場合は大勢の人をまきこんで、いま日本が本当に変わろうとしていると思います。
疑いなく、これは「60年安保闘争」や「70年安保闘争」の現代版です。誰かの表現によれば「バリケードのなかの青春」などという言葉で記憶されたりしたものの現代版・・・。
しとしと降る雨のなかで、そんな光景を僕は目にしたのでした。
いや、そんな〈感傷的〉なことを言っている場合じゃ無いことは重々承知しています。それどころか、僕は、今まさに、そのことについて書こうとしています。
話をもとに戻します。とにかく、水曜の夜が「オールナイト」になってしまったので、木曜は早めに終わって金曜日に備えたわけです。与党は金曜日に採決をしてくるということでしたので、さらに長い一日になると分かっていたわけです。
木曜の晩、国会前から自分の仕事場に戻ったのが深夜1時ごろ。そこから朝まで、いろいろ雑務を片付けながら、考えていました。
明日はいよいよ決戦の日やなあ・・・。この数ヶ月のあいだ、いろいろあった。そしてこの最後の一週間は、毎日、国会前に行ってもうた。やっぱり、本当にこの<戦争法案>は参議院も可決されてしまうんやろうか? 総がかり行動は「絶対に阻止する!」と言っていた。SEALDsは「本当に止める」って言っていた。でも、ほんまに、やっぱり止められへんというのが現実なんやろうか・・・?
〈言葉〉や〈目標〉や〈夢〉というのは、やっぱり<現実>と乖離していて、もしかして、もうすぐ、あの怪物、〈挫折〉という名前のアイツがやってくるんだろうか? 金曜日の深夜に、たくさんの人達のところへ。
「60年安保」で大挙して闘った末に、多くの人達が体験したと伝え聞くアレ。「70年安保」のあとには、約10年間の暗黒の時代を生んでしまったアレ。一体そのアレってどんなものなんだろう?
今晩と明日、僕一人に何かできることは、もう何も残されていないんだろうか? まもなく、その決戦の金曜の朝が明ける。4時ごろ考えた。
(とにかく、僕にできそうなことは、国会前でスピーチできる著名な音楽家を探すことくらいだ。)
そして、「誰かいませんか?」とフェイスブックに書き込む。日本がひっくり返るくらいの有名人が出て来てくれたらいいんだがなあ・・・そんな大袈裟なことを考えました。 朝6時ごろ 帰宅・就寝。
金曜日、午後1時すこし前 事務所につきました。仕事に手を付けるも、やっぱり国会の攻防のことが気になって、あまり仕事は捗りません。国会前では午後1時から「総がかり行動」の集会のはず。国会では安倍総理問責決議案が提出されました。
SEALDs・奥田氏がツイッターで「著名人出て来てほしい」という旨の書き込み。そうだよな、いま求められているのはそれだよな、と勇気をもらう。
午後2時ごろ 個別には書きませんが、僕の思いつくかぎり「有名な人」や「有名な人につながってる人」にメールや電話。
「今日、国会前に行って短いスピーチをしませんか?」
久しぶりの人や、全然知らない人にも勇気をだしてメールしてみたり。重要性を理解してくれた友人・知人も手伝ってくれました。
ちなみに、ツイッターはいままで頑にやらないと決めていたのですが、必要にかられ、初めて挑戦。新規にアカウントを作成。ヘンな感じです。
午後8時くらいまで、いろいろやるが、成果なし。こういうのは難しい。丁寧に返事をくださった方、返事なしの方、気のきかない返事をくれた人・・・いろいろでしたが、とにかく結果は出せませんでした。
この日に限らず、僕がこの三ヶ月間(たったの三ヶ月だが)トライしたのは、これでした。「音楽家に登場してもらう」ということです。沖野修也さんたちと8月12日に渋谷駅前でやった『World Peace Festival』でも、それがテーマでした。
アーティストは〈出てくること〉が大事・・・。僕はそう考えています。名前のあるアーティストが市民活動に赴くとき、何をスピーチするか、どういう思想を持っているか、はさほど重要ではないと思う。〈そこに出てくること〉が大きな大きな意味をもちうると思います。
World Peace Festivalについては、8月上旬のたったの一週間でしたが、手分けして、何組ものアーティストに声をかけさせて頂き、たくさんの人が出演してくださった。
このままだと今日 参議院で可決してしまうという最終的な局面で、誰でもいいから、影響力のあるミュージシャン/アーティストがデモに登場して、それをきっかけとして〈時代の空気〉が変わったら・・・なんて。
僕個人のエゴとしては、そんな絵を描いており、その目撃者になりたかった。その手伝いをしたかった。誰かに出て来てほしかったのです。
言葉はほんの一言だけで十分のはずだった。国会前に来るという〈行動〉で、音楽の力を、日本全国いや全世界に見せつけて欲しかった。
僕が勝手に思い描いていただけの夢物語です。しかし、そんな簡単に大きな山が動くわけはなかった。
ちなみに、最後の最後に、もっとも勇気ある〈行動〉をとって、影響力を行使したのは、ロックミュージシャンでもJ-Popアーティストでもありませんでした。
カーディガンをまいた俳優の石田純一さんでした。これには脱帽するほかありませんでした。
午後9時ごろ 結局のところ今日の5〜6時間は徒労に終わりました。とても残念でしたが、力不足を認めるほかありません。いい勉強になりました。
事務所を出て国会前に向かう。(つづく)
前の晩つまり木曜日、国会前でデモが終了するときに、SEALDsが「今日のところは電車のある時間で早く終了しましょう。明日は朝八時に集まりましょう」と言っていた。
さすがに朝八時に行くつもりは無かったにせよ、学生のみなさんが頑張っているのに、僕なんか、こんな時間まで寝ていて、ちょっと罪悪感です。
ところで、SEALDsが木曜の夜を早めに切り上げたのには、もちろん経緯がありました。
さらにひとつ前の晩(つまり水曜日の夜)が、ヤマ場だったからです。
雨だったにもかかわらず、戦争法案に対する抗議行動は夜遅くまで続き、電車がなくなって、老いも若きも国会前で、雨のなか朝までコールということになりました。
あの日は、みんなの団結力はすごいものがありました。風邪ひいた人も少なくないのでは? いくらなんでもちょっと無理があったかも・・・。
とにかく、あの晩はすごかった。(僕は、車で来ていたので朝3時半くらいに帰ったんですけど。)冷たい雨がつづき、余計にアツくなるものがありました。
水曜日は、たったの一日であまりにたくさんのことが起った長い一日でした。
午前中は地方公聴会があって新横浜で座り込み行動(僕は行っていないけど)、そして午後から参議院特別委員会の質疑開始をめぐって揉み合いがあった日。
結局、夜中2時くらいまでかかって、翌日に持ち越しが決まりました。
その水曜日の晩、とても印象的だったことがあります。
それは、深夜2時くらい、あの国会前の小さなステージの前にひろげられた、おにぎりやパンでした。
SEALDsの学生さん達が、交代で食料品を買い出しに行ったり、温かい飲み物を用意して頑張っているようでした。
動き回っていた彼らの姿を、傍らから、僕は惜しみない賞賛と憧憬をもって眺めました。「ああ、オレにもこんな時代があったなあ・・・」なんて、マジに胸がアツくなりました。
僕の場合のそれは、単なる学園祭やバンド活動だったわけですが、彼らの場合は「安保闘争」なわけです。僕の場合はとくに世間様のお役には立てなかったけど、彼らの場合は大勢の人をまきこんで、いま日本が本当に変わろうとしていると思います。
疑いなく、これは「60年安保闘争」や「70年安保闘争」の現代版です。誰かの表現によれば「バリケードのなかの青春」などという言葉で記憶されたりしたものの現代版・・・。
しとしと降る雨のなかで、そんな光景を僕は目にしたのでした。
いや、そんな〈感傷的〉なことを言っている場合じゃ無いことは重々承知しています。それどころか、僕は、今まさに、そのことについて書こうとしています。
話をもとに戻します。とにかく、水曜の夜が「オールナイト」になってしまったので、木曜は早めに終わって金曜日に備えたわけです。与党は金曜日に採決をしてくるということでしたので、さらに長い一日になると分かっていたわけです。
木曜の晩、国会前から自分の仕事場に戻ったのが深夜1時ごろ。そこから朝まで、いろいろ雑務を片付けながら、考えていました。
明日はいよいよ決戦の日やなあ・・・。この数ヶ月のあいだ、いろいろあった。そしてこの最後の一週間は、毎日、国会前に行ってもうた。やっぱり、本当にこの<戦争法案>は参議院も可決されてしまうんやろうか? 総がかり行動は「絶対に阻止する!」と言っていた。SEALDsは「本当に止める」って言っていた。でも、ほんまに、やっぱり止められへんというのが現実なんやろうか・・・?
〈言葉〉や〈目標〉や〈夢〉というのは、やっぱり<現実>と乖離していて、もしかして、もうすぐ、あの怪物、〈挫折〉という名前のアイツがやってくるんだろうか? 金曜日の深夜に、たくさんの人達のところへ。
「60年安保」で大挙して闘った末に、多くの人達が体験したと伝え聞くアレ。「70年安保」のあとには、約10年間の暗黒の時代を生んでしまったアレ。一体そのアレってどんなものなんだろう?
今晩と明日、僕一人に何かできることは、もう何も残されていないんだろうか? まもなく、その決戦の金曜の朝が明ける。4時ごろ考えた。
(とにかく、僕にできそうなことは、国会前でスピーチできる著名な音楽家を探すことくらいだ。)
そして、「誰かいませんか?」とフェイスブックに書き込む。日本がひっくり返るくらいの有名人が出て来てくれたらいいんだがなあ・・・そんな大袈裟なことを考えました。 朝6時ごろ 帰宅・就寝。
金曜日、午後1時すこし前 事務所につきました。仕事に手を付けるも、やっぱり国会の攻防のことが気になって、あまり仕事は捗りません。国会前では午後1時から「総がかり行動」の集会のはず。国会では安倍総理問責決議案が提出されました。
SEALDs・奥田氏がツイッターで「著名人出て来てほしい」という旨の書き込み。そうだよな、いま求められているのはそれだよな、と勇気をもらう。
午後2時ごろ 個別には書きませんが、僕の思いつくかぎり「有名な人」や「有名な人につながってる人」にメールや電話。
「今日、国会前に行って短いスピーチをしませんか?」
久しぶりの人や、全然知らない人にも勇気をだしてメールしてみたり。重要性を理解してくれた友人・知人も手伝ってくれました。
ちなみに、ツイッターはいままで頑にやらないと決めていたのですが、必要にかられ、初めて挑戦。新規にアカウントを作成。ヘンな感じです。
午後8時くらいまで、いろいろやるが、成果なし。こういうのは難しい。丁寧に返事をくださった方、返事なしの方、気のきかない返事をくれた人・・・いろいろでしたが、とにかく結果は出せませんでした。
この日に限らず、僕がこの三ヶ月間(たったの三ヶ月だが)トライしたのは、これでした。「音楽家に登場してもらう」ということです。沖野修也さんたちと8月12日に渋谷駅前でやった『World Peace Festival』でも、それがテーマでした。
アーティストは〈出てくること〉が大事・・・。僕はそう考えています。名前のあるアーティストが市民活動に赴くとき、何をスピーチするか、どういう思想を持っているか、はさほど重要ではないと思う。〈そこに出てくること〉が大きな大きな意味をもちうると思います。
World Peace Festivalについては、8月上旬のたったの一週間でしたが、手分けして、何組ものアーティストに声をかけさせて頂き、たくさんの人が出演してくださった。
このままだと今日 参議院で可決してしまうという最終的な局面で、誰でもいいから、影響力のあるミュージシャン/アーティストがデモに登場して、それをきっかけとして〈時代の空気〉が変わったら・・・なんて。
僕個人のエゴとしては、そんな絵を描いており、その目撃者になりたかった。その手伝いをしたかった。誰かに出て来てほしかったのです。
言葉はほんの一言だけで十分のはずだった。国会前に来るという〈行動〉で、音楽の力を、日本全国いや全世界に見せつけて欲しかった。
僕が勝手に思い描いていただけの夢物語です。しかし、そんな簡単に大きな山が動くわけはなかった。
ちなみに、最後の最後に、もっとも勇気ある〈行動〉をとって、影響力を行使したのは、ロックミュージシャンでもJ-Popアーティストでもありませんでした。
カーディガンをまいた俳優の石田純一さんでした。これには脱帽するほかありませんでした。
午後9時ごろ 結局のところ今日の5〜6時間は徒労に終わりました。とても残念でしたが、力不足を認めるほかありません。いい勉強になりました。
事務所を出て国会前に向かう。(つづく)