今日7月15日の朝、起きまして、時差七時間先の日本では、かの戦争法案が衆議院で強行採決されたというニュースを読みました。そんな今日、僕にとって、とても大事なことを書いてみようと思います。ドイツ ドュッセルドルフからスイスへ向かう車中で書いています。
オーサカ=モノレールというバンドを結成して23年が経ちました。結成したのは1992年でした。僕はジェイムズブラウンのサウンドに取り憑かれていました。あれを<生>でやりたい、ライブをやりたい、カッコいいショーをやりたい。大学生の頃の僕は、それが唯一の関心事でした。明けても暮れても、バンド運営のことにエネルギーを注ぎ込みました。
そんな90年代前半でしたが、時間をもてあます大学生よろしく、とくにこの時期に、たくさんの感動的なものに出会うことができました。その感動を、自分なりに消化してアウトプットしてみたい、と今でも強く思っています。そんな欲望があって、こうして二十数年後もバンド演奏を続けています。もちろん、そんな大それた夢は容易に叶うはずもありませんが・・・。
バンド演奏だけでなく、ときには、映画を配給したりしました。『コフィー』『スーパ―フライ』という映画でした。配給以外にも、『モハメド・アリ かけがえのない日々』『魂の詩 SOUL TO SOUL』なんかをフィルムレンタル(つまり上映会)をしたこともありました。
それもこれも、「あの感動」を分け与えてみたい、少しでも良いから僕もそれに近づいてみたい、そんな夢をもっていたからでした。
それについて簡単に書きたいと思います。これまでも何度も「あの感動」を文章にして伝えようと試みたことがあるのですが、うまく書けたためしがありません。
ですから、今日のところは、文才も時間も、ありませんので、詳しく書かずに、「僕が感動した」という事実と、それにともなう結論だけを書いて、あとは皆さんの経験や想像にお任せしようと思いました。
これから、数冊の本と、数本の映画と、数本のテレビ番組のことについて触れます。
そして、これらが「なぜ感動を生むのか?」 そして「今日の出来事とどういう関係があるのか?」ということです。
(1)吉田ルイ子の『ハーレムの熱い日々』と本多勝一の『アメリカ合州国』の二冊です。どちらを先に読んだか、誰から教えてもらったか、思い出すことができません。おそらくアルトサックス奏者のN先輩に教えてもらったように記憶しています。ちょっと、この二冊は「セット」なんですよね。『アメリカ合州国』の表紙には、吉田ルイ子の写真が使われていて、二人の対談が掲載されています。
とくに前者から得た感動は、いまも消えることはありません。写真家の吉田ルイ子さんによる、ハーレム(ニューヨークにあるアメリカ最大の黒人居住地区)での1962年から約十年にわたる生活を写真と文章で綴ったルポルタージュです。ハーレムに暮らす人々が生き生きと描かれる大傑作です。
後者は、朝日新聞記者の本多勝一が、アメリカにおける人種問題(とくに黒人とネイティヴアメリカン)や貧困問題を取材するため、ニューヨークや、深南部(ディ―プサウス)と呼ばれるアラバマ州やミシシッピ州へ旅する1969年のルポルタージュです。
このルポによると、日本人が深南部へ旅する場合には、「白人側の者として旅する」のか「黒人の友人として旅する」のかによって全く異なるとのことでした。本多氏は「黒人側の者」として深南部を旅して、白人から猟銃で撃たれる危険に遭います。
(そんなわけで、僕が1997年に初めてアメリカを旅したときには、「黒人側の人間として旅してみよう」などという浅はかな発想で参りましたが、黒人教会に行くなど希有の体験をすることができました。)
(2)「<スタックス>という、60年代に存在したアメリカの田舎のレーベルの音楽が、再び若者のあいだで人気がでているそうです、不思議ですね・・・」なんていうレポートをNHKのドキュメンタリ番組で観たのも90年代はじめ頃でした。
そして映画『ワッツタックス』のVHSビデオが日本で発売されたのは1993年だったと思います。これは、1972年「ワッツ地区暴動の七周年記念イベント」として10万人の黒人観衆を集めたコンサートのドキュメンタリ映画です。
本編の冒頭で、リチャードプライアーが言います。「誰だって言いたいことはあるだろ。でも、その声が消されてしまう人もいるんだ。この映画はその声を聞く体験なんだ」
そのあと、キムウエストンが黒人国家「LIFT EVERY VOICE AND SING(ひとり残らず声をあげよう そして歌おう)」を歌います。キムウエストンの、ブラックパワーを表す拳が高くあげられます。これを観た人なら誰でも賛同してくれると思います。これほど感動的なシーンは他にありません。
ちなみに、前述と同じNHKの番組枠内だっと記憶していますが、90年代前半、もうひとつ僕の心に残っているTVレポートがありました。「アメリカの黒人居住区において、奇妙な都市伝説が流れている」という報告です。黒人のあいだで「アメリカの黒人を皆殺しするために、政府がコカイン(クラック)をニューヨークの黒人居住区にバラ撒いているのだ」という噂です。
当時、僕はそれを観て、このように思いました。「差別構造のなかで苦しむ黒人たちが〈あたらずとも遠からず〉の都市伝説を生み、信じているのだろうな」と。傍観者である学生らしく、社会学的な感想を持つにとどまったわけです。
ところが数年後、驚くべきことに、これは都市伝説などではなく、ほぼ事実だったことが明らかになりました。1998年に明らかになった「イラン・コントラ事件」の一端です。(ニカラグアのゲリラが米国内へコカインを流通させることに米政府が協力していた。結果として、もっとも貧困層である黒人の居住区に麻薬が大量に流入した。)
その惨状を、カメラに向かって必死に訴えていた少女の顔が忘れられません。「白人が私たちを殺しに来ているのよ」と。BBCやCNNなど大手メディアがそこまで入って、日本でも放送されて、それでも彼らを救うことができなかったのは何故か。
(3)スパイクリーの映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』と『マルコムX』は、ともに社会現象を巻きおこすまでに至りました。前者の劇場公開のときは僕は高校生でしたのでビデオで観ました。パブリックエネミーの「Fight The Power」が流れるなか、真夏のブルックリンの一角で、愛すべき人々、アフリカ系とイタリア系とプエルトリコ系と韓国系そしてワスプ系が、罪なくお互いに啀みあう暑い一日をコミカルに描きます。そして、その日のおわりに一人の黒人青年が警官に殺されるという話です。
1992年の映画『マルコムX』は世界に衝撃をあたえる傑作でした。映画産業のもつパワーというものを見せつけられた気がします。この一大ブームのおかげで、1972年制作のドキュメンタリ『マルコムX』も字幕付きでビデオ発売されました。本当のマルコムXがいかなる人物だったか、大阪の片隅で四畳しかない学生寮で鬱々としていた大学生の僕でさえ、知ることができるようになりました。それは、一心不乱に早口で、アメリカ白人による悪行を糾弾し、黒人の意識の目覚めを必死に訴えるマルコムの姿でした。
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そんなわけで、キリがないので、このへんにします。なぜ、ここにあげた書籍や映画などが感動を生むのか? なぜ、その感動はいつまでも消えないのか?
吉田ルイ子さんの本が感動を生むのは、ハーレムに暮らす人々、とくに子供たちを生き生きとシンプルに描き出したからです。貧困や差別構造に生まれついて、決してラクではない生活のなかにあって、人間の本当の意味や在りかたを僕たちに教えてくれるからだと思います。
なぜ本多勝一氏の取材に多くの人が共鳴するか。それは、弱い立場の人々(本多氏の言葉によれば「殺される側」)の側に立ち、強い立場の側(「殺す側」)からの脅しや圧力に決して屈しないという勇気をわけあたえてくれるからだと思います。
なぜ『ワッツタックス』が感動的なのか。それは、そこに、弱い立場の者が力を合わせて闘おうとする意思が結集しているからだと思います。それこそが、唯一の<絶対的な正義>といって良いもの、だと僕は思っています。
マルコムXがカッコいいのは、スーツを着ているからでもトークが上手だからでもありません。自分の命を投げうってでも、リンチや黒人差別の被害者を一人でも減らして、新しい黒人の時代を切り開こうと必死に闘っているからです。
『ドゥ・ザ・ライト・シング』がなぜカッコよかったのか。それは、本当の黒人の視点で、カラフルな人間模様を見せてくれたからです。それまでメディアに映る「黒人」は、スポーツ選手、エンターテイナー、ギャングばかり。映画でみる黒人は、麻薬売人、ポン引き、カラテの達人、売春婦、などばかりだったのに......。この映画では、もっと現実に迫る表情豊かな若者をコミカルに描きました。
そして、あの青年は殺される必要など無かった、ということを僕たちはよく理解するのです。この映画を観る前までは、仮に、テレビで「暴動で黒人が一名死亡しました」というニュースを見ても何も感じなかったかもしれないのに!
「黒人からみた世界」・・・それは僕たち日本人には馴染みの薄かった、<弱者からみたアメリカ>でした。まったく同じものを、表裏ひっくり返して、違う方向から視たとき、「ああ、オレは今まで何をやってたんだろう・・・、ここに目の前に真実があるじゃないか!」そういう体験をしたことはありませんか? そこに本当の命の姿みたいなものがあるように強く思ったことはありませんか?
仕方がないので、ものすごくスッ飛ばして結論を言います。これが、僕が自分の政治的信条を「リベラル」と規定する最大の理由です。60年代の黒人権利運動を知って感動した、ということです。
<リベラル>というのは「一人一人を大事にする」「緊急に、弱い立場の者を守り、貧しい人を少なくしていかねばならない」という思考回路のことです。<保守>というのは「従来の社会を大事にする」「金持ちがもっと金持ちになれば貧乏な人も豊かになるはずだから、社会の改善はゆっくりで良い」という考えの人のことです。僕はこのように理解しています。
日本にあるマイノリティ問題やレイシズムとは何でしょうか。在日朝鮮人、アイヌ民族、沖縄、被差別部落などについての課題。それから、身体障害者、女性、老人、子供についての課題など多くあります。もっとも大きなレイシズムは、貧困・経済格差にまつわる課題です。
もちろん、それだけではありません。「弱い立場」というのは限りなくあります。従業員と経営者。借主と家主。消費者と大企業。地方と都会。貧困国と富裕国。病気の人と健康な人。クラスでいじめられる子供。受験戦争に駆られる子供。校則で縛られる子供。顔の特徴や体型で判断される人、する人。年下と年上。「エラい人」と「エラくない人」・・・。
現在の世界は、弱い立場の者を踏みにじることによって成り立っているようです。そして、今の「安保法案」も、そこにつながっています。
リベラルの立場は明確なはずです。「弱い側の立場に立つ」ということです。それが何よりも優先します。「対米従属」だろうが「自主独立」だろうが、「国益」に適おうが適うまいが、安全保障に役立とうが役立つまいが、そんなことはあまり関係ありません。命を落とす若者がいるのであれば反対するしかありません。なぜなら、戦地に行くのは、僕たちの子供や孫の世代です。貧しい若者から先に戦地に行くのです。貧乏人が金持ちのために命を落すのです。これが「弱者を殺す」という意味です。戦地に行く者の目から見ればそういうことだと思います。
そして、よりによって、いま政府がやろうとしていることは「平和ボケしている現役世代は抵抗が強くて、戦地には行ってくれないだろう。だから、これからの子供に対して、学校で〝愛国心〟を教育して、自衛隊への志願者を増やしていこう」という方法でしょう。これを「子供殺し」と呼ばずして何でしょうか? 子供の目から見るとそういうことだと思います。
日本が武器を製造・輸出して、それがどこかの戦争や紛争に使われ、兵士や民間人が命を落す。そうやって儲けたカネで、日本が国債暴落の回避や景気回復をもくろむ。今の日本の経済成長や資産を確保する。そんなことが許されるでしょうか? そんなにまでして今の生活を続けようとするのなら、それこそ、鬼畜の政府をもつ国家・アメリカと同じではありませんか。世界のどこかで殺される兵士や民間人の目から見るとそういうことだと思います。
リベラルは、「弱者を殺さないことが良い社会づくり」と考えます。経済より人命・幸福が優先します。保守は「強者をさらに強くするのが国づくり」と考えます。僕はリベラルの立場をとります。そういう思想です。
エエカッコ言うてるかもしれません。しかしこれが一番大事なことなので。・・・闘いは始まったばかりです。衆議院で強行採決はされてしまいましたが、結束を固くして、暴走を続ける安倍政権とその最期まで闘いましょう!
(おわり)