平成は終わり。

 
時代について。
今年は平成が終わります。ほんとうは、「元号」なんて、あまり好ましくないただの制度・慣習であって、それによって何かが変わったり終わったり始まったりする筈もありません。それはそうなのですが、それでも、平成って一体なんだったんだとみんなが話題にしているので僕もかんがえを巡らせてしまいます。

平成とは、うしろばかりをみて前にすすめない時代、だったのではないかと思う。

昭和から平成にかわった1989年とは、ベルリンの壁がこわされ、ヤルタ会談で東西冷戦構造の終焉が宣言された年。歴史の大転換点だった。日本では、バブル崩壊まであと三年。

そこからの十年間、平成の幕開けごろ、つまり九十年代前半は、音楽の方面では六十年代や七十年代へのあこがれが支配的でした。僕はそういうものに影響をうけてバンドをつくりました。また、全世界的に隆盛したヒップホップはそういったものを再利用する音楽でした。

経済では、平成四年ごろにバブル崩壊したあと「失われた十年」。そこから立ち直ろうと、ああでもないこうでもないとやった時代でした。金融再編、住専、郵政民営化、派遣法改正、異次元の金融緩和。
結局、いまでは「失われた三十年」なんて言われています。いつまで失われたままなのだろう? 本当は、「失われた」は「迷える」の誤訳なのだけれど。言葉さえも、さまよっている。

僕自身は、高校二年生が平成元年でした。そのあと三十年間にわたって、いろんなことを体験してきたことになります。
学校に行ってバンドを結成したり、あちこちで演奏したり。
ちいさな会社をつくって色々やってみた。結婚もして家族もできた。
すべて平成でした。

それなのに、「自分は、昭和の人間。」というふうに認識しています。これは少しオカシイ。
自分は平成に生きてきた人間であるにも関わらず、平成に属すると云われてもしっくりきません。
むしろ、すこし誇らしく、昭和の人間であると思っているのです。
これは大問題です。つまり、自ら誇ることのできる時代を、平成生まれの人たちへ僕たち昭和生まれからプレゼントしてあげることができなかったことになります。

そんなことを思うと、数本の映画があたまに浮かびます。ものすごく似ている三本の映画について少し触れてみます。
『ALWAYS 三丁目の夕日』と『20世紀少年』と『クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』です。いきなりですが。

『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)
これは大ヒットして続編が二本もつくられたようです。僕は一作目だけはみました。
僕はこの映画はよいと思わない。大嫌い。
なぜかというと、この映画は昭和三十年代というものにまったく向き合っていないから。郷愁で人々の興味をひく材料にしているだけ。
僕のカンにサワるのは、劇中、すべてのものが「古い」ということです。家具や畳や看板が、サビだらけだったり汚れていたりします。昭和三十年代当時に住んでいた家なら、家は建てたばかりで畳もあたらしいはずだし、看板はサビもなくピカピカのはず。なのに、この映画のなかではすべてがクスんでいて、すべてがカスんでいる。セピア色。これは本当に観客をバカにしている。
現代からみた「理想」の昭和、つまりノスタルジーに訴えるように都合良く描いているからです。
もちろん、娯楽作品である時代劇がウソをつくことは構わないのです。(「時代劇」はお侍さんモノだけでなく、いろいろな時代を含んで。)本来、時代劇のあるべきすがたとは、フィクションの体裁をとって現代を描くことです。
この作品はそれではない。この映画は、単に、「昔はよかったね」と言っている。
表面上は、戦後復興期・高度成長期のころの活気を、ふたたび日本に呼び起こそうというメッセージを発しているようにみえる。しかしそれはウソで、日本の未来を切り開いてゆく手がかりは、そこには無い。将来を切り開くためのヒントが昭和三十年代に隠されているかのような幻想をふりまきながら、じつのところはただのノスタルジーという麻薬。
そしてこの映画が描きだしていたもの、空虚なノスタルジーは半ば現実のものとなりました。安倍首相はこの映画を大絶賛して、オリンピックを再開催するはこびとなりました。ほんとうに、日本は、なにかのネジが何本かぬけている。
あげくのはてに万博まで決まった。つづく二作品は、万博の再開催を描いたものです。

『本格科学冒険漫画 20世紀少年』
これは面白かった。映画でなくてマンガのほう。僕は映画はキチンとはみていません。漫画は1999年(平成11年)連載開始。2007年(平成19年)連載終了。
ストーリーを要約すると、〈20世紀末に大人になった自分のところへ、幼少時の友人が襲いかかってくる〉というものです。つまり、大雑把にいえば「平成 vs 昭和」です。そして「昭和」が勝って「平成」は敗北します。おまけに「西暦」も敗北して、無茶苦茶になりますが最後はいちおうハッピーエンドです。
子供のころのつくり話が現実におこる、というストーリーなのですが、よく考えると、さらに「それさえも子供のころのつくり話」というのがミソです。主要な登場人物は全員が小学校・中学校のときに接点のある人になっています。たとえば、ロボットを開発する科学者は「家業の酒屋の配達先の大学教授」。悪の帝国を取り仕切っているのは「小学校の前にいた行商のおじさんとその愛人」というふうに。ちなみに、犯人をつきとめる伝説の刑事は「僕の姪の義理の祖父」です。たぶん、そういうことでしょう。
当時の子供が考えたことなのです。攻撃される都市がロンドンだったりサンフランシスコだったりする(近所の喫茶店の名前)のはそのためです。また、細菌をばらまくロボットのなかが空洞になっているのもそのためです。曰く、「だって、本当に子供が考えたことなんだから・・・。」作品のタイトルが「本格科学冒険漫画」と銘打たれているのも、つまりは「本当の科学漫画ではない、こども向け」という意味なのです。
つまり、これは「平成から見た昭和の話し」ではなく、「昭和からみた平成の話し」です。これがノスタルジーという批判をかわすために使われている妙なロジックです。
うわべの主要テーマは「子供のころに思い描いていたような強い自分になれるか」です。「平成のじぶん vs 昭和のじぶん」です。その意味では、ものすごく簡単に言うと浦沢直樹氏のミッドライフクライシスです。それを、これでもかというほど壮大に描いて笑い飛ばそうとしているのでしょう。その気分は僕も共感できるものです。
この漫画はとても面白いのですが、ダメな点は、未来のことを描いている漫画なのに、未来への展望が一切ないことです。唯一、未来への希望の例示として登場するのは「ボウリングブームの再来」。これには、力なく笑うしかありませんでした。

『クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』(2001年)
これは名作ですが、子供向けの映画なのでご覧になられていない人は多いかもしれません。
僕のような心あたりある人にとっては、この映画をみるとグウの音もでませんので、ぜひ観て下さい。
昭和四十五年の大阪万博や、怪獣があばれるテレビ番組の思い出にひたるヒロシ(お父さん)を、幼稚園児のしんちゃんが叱る、という話しです。なぜなら、麻薬におぼれるかように、お父さんやお母さんが子供のころの思い出にひたってばかりいると、子供たちは何を指標に生きて行けばよいのか分からなくなってしまうからです。親の世代は子供たちに、「今」や「未来」を提示しなくてはならないのです。
この映画では、大人たちは、カリスマ指導者(なぜかジョンレノンとオノヨーコ)のもとで洗脳されていて、なつかしい昭和30年代や40年代が再現されたテーマパークのようなところに暮らしています。そこは大人だけのユートピアで、子供には居場所はありません。子供はテーマパークの外に居て、大人の帰りをまっています。
映画の最後には、しんちゃんがジョンレノンに引導を渡します。ものすごい名作ですから是非みてください。


クレヨンしんちゃんの映画がすべてを語ってくれているので、何も書くことがなくなってしまうのですが、とにかく、そうやって後ろ(昭和)をみているあいだに、次に何をしたらよいか分からなくなってしまって、いろんなものが崩れ去っていったのが平成だったと思います。
日本をぶっ壊したもの。バブル崩壊、新党ブーム、小選挙区制、小泉政権、安倍政権。日本は、フランスのマクロンやアメリカのトランプより数年早くに極右政権が誕生した。
大阪の、たかじん、読売テレビ、維新。
建前トークは良くないこととされて、「ぶっちゃけトーク」がもてはやされた。「ぶっちゃけ」というのは百害あって一利もない。建前が成り立たない世界は恐ろしい。倫理が機能しない。弱い人が戦々恐々とする社会だ。
昭和の時代にみんながつくった、ないがしろにしてはいけない「理想」「建前」がどんどん壊れていった。
じつのところは、議会制民主主義による国家統治なんて、ものすごく高度なことであって、みんなで建前を共有しないと成り立たないものだった。
平成とはそんな時代だったと思う。

なんの歯止めもきかないまま暴走をつづける安倍政権なるものが日本を壊しまくったあげく、当然、自民党だって自壊してゆくでしょう。そのあと残された僕たちは、壊されてしまった日本をどうするか。またあたらしい未来を提示してゆかなくてはいけない。
新元号なんて本当にどうでもよいことだが、とにかく、あたらしい時代には、振り返ることをやめて、未来を切り開かないといけない。すくなくとも模索を開始せねばならない。

僕は、要素やスタイルとして六十年代の音楽を扱うことはやめないけれど、ノスタルジーという要素は排除しなくてはならないし、着地点は未来を切り開くようなことがやりたい。

"YOU HAVEN'T DONE NOTHING" by Stevie Wonder, 1974



デカい話ばかりするくせに
いい話は聞いたことがない
あれをやるとかこれをやるとか言うばかり
こっちに大いに関係あることが
こっちはまったく蚊帳の外で
勝手にいろいろ決めてしまう

 「世の中を良くします!」なんていう
 あんたの鼻歌にはもうウンザリしてる
 オレたちの感想を聞きたいなら教えてやるよ・・・
 〈お前、何ひとつ出来てないじゃないか!?〉

みんなから嘲られて気の毒だけど
自分でまいた種だろ
民衆をだまらせようったってムダさ
本当のことを言ってもらおう

 「世の中を良くします!」なんていう
 あんたの鼻歌にはもうウンザリしてる
 オレたちの感想を聞きたいなら教えてやるよ・・・
 〈お前、何ひとつ出来てないじゃないか!?〉

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ


悪夢のような現実があっても
目をつぶらずにいこう
でも ウソをついていたのなら
ヒドいお仕置きが待ってるぜ

 「世の中を良くします!」なんていう
 あんたの鼻歌にはもうウンザリしてる
 オレたちの感想を聞きたいなら教えてやるよ・・・
 〈お前、何ひとつ出来てないじゃないか!?〉

 (ジャクソン5も一緒に!)
 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ

 ムニャムニャムニャ
 ムニャムニャムニャ



We are amazed but not amused
By all the things you say that you'll do
Though much concerned but not involved
With decisions that are made by you.

But we are sick and tired of hearing your song
Telling how you are gonna change right from wrong
'Cause if you really want to hear our views:
You haven't done nothing!

It's not too cool to be ridiculed
But you brought this upon yourself
The world is tired of pacifiers
We want the truth and nothing else.

And we are sick and tired of hearing your song
Telling how you are gonna change right from wrong
Because if you really want to hear our views
You haven't done nothing!

Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop

We would not care to wake up to the nightmare
That's becoming real life
But when misled who knows
A person's mind can turn as cold as ice.

Why do you keep on making us hear your song
Telling us how you are changing right from wrong
Because if you really want to hear our views
You haven't done nothing!

Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop
Doo doo wop

ついに1969年、〈サー・ジョー・クォーターマン&フリー・ソウル〉を結成したところからお話をします。

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 このバンド名を考案したのは、当時マネージャーの役割を担っていたジョーのお姉さんなのだそうです。ちょうど、ジョーをふくむメンバー全員が、それぞれに所属していた別のバンドから離れて独立してつくったのがこの新しいグループだったので、「フリーソウル」(解放された魂たち)と命名したのでした。こういうのは、ある種の、半分ジョークで半分は大マジメなんだと解釈します。つまり、他人のバンドの構成員だったところから自分のバンドをつくることを、農園から解放される労働者になぞらえているようです。
 〈フリーソウル〉という言葉を選んだことについては、明確に、フリージャズ(スピリチャルジャズ)を意識していたということです。当時に沸き起こっていたファンク&ソウルの大ブームに、スピリチャルジャズや社会派の感覚を加えようとしていたのです。
 結成直後の音源は残されていませんが、コンセプトとしては、時代を反映してファラオズ/アースウィンド&ファイアーのようなものだったのでしょうね。
 (それから、ソウルという言葉からは、同郷・同時期のワシントンD.C.ファンクである「ソウルサーチャーズ」も思い出します。)

 ワシントンDCシーンで人気がでてから、かの「I GOT SO MUCH TROUBLE IN MY MIND」を録音しました。1972年のことです。


 ズシリと重いファンクのリズムに、ホーンが前面にでたサウンド。ジャズとゴスペルのハーモニー。そして、敗戦が色濃くなっていたベトナム戦争や、地元での不景気のこと、ゲットーでの身近な風景を描いて、同時代をギュッと凝縮させたような歌詞が大いにウケました。ビルボードR&Bチャート30位を記録したのです。

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 名曲「I Got So Much Trouble」が録音されたのは、1972年3月のこと。メリーランド州シルバースプリングスにある「トラック・レコーダーズ・スタジオ」だそうです。メンバーは下記のとおり。
Sir Joe Quarterman (vocal & trumpet)
George "Jackie Lee" (guitar)
Chrles Steptoe (drums)
Willie Parker, Jr. (rhythm guitar)
Gregory Hammonds (bass)
Karissa Freeman (keyboard)
Leon Rogers (sax)
Johnny Freeman (trombone)

 そうなんです、サー・ジョー・クオーターマンって、作曲編曲とボーカルはもちろんなんですが、トランペット奏者だったのです。この「I Got So Much Trouble」冒頭の印象的なリフで「プゥア~」と音程をわざと少し下げて吹いているのはサージョーさん本人だったのです。(これがモダンかつブルージーな雰囲気をつくっていて、とても良い。)

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  歌とトランペットの両方を担当していますが、この二つは同時に鳴っています。オーバーダビングですね。時はすでに1972年。マルチトラック・レコーディング(つまりオーバーダビングが可能)が一般的に普及した時期です。(この「So Much Trouble」のようなインディーでもマルチ録音なわけですから。)16トラックのテープレコーダーを使ったのだろうと思います。1970年代の幕開けっていう感じですね。

 これはちょっと重要じゃないかと僕は思います。というのは、よく聴くと、この曲(それから後のアルバムの他の曲すべてそうですが)アレンジがとても良くできているんです。アレンジと各楽器の音量バランスが緻密につくられている。かなりの部分が楽譜におこされたうえで演奏されているような雰囲気です。(60年代のジェイムズブラウンのFunkなどとは正反対の世界ですね。)

 ジョーさんによると、この曲だけを録りおえるのに、なんと丸一日を費やしたそうです。これは当時としては、しかも駆け出しのアーティストとしては異例の長時間レコーディングではないでしょうか。サウンド・曲の設計図が頭のなかで出来上がっていたんでしょうね。コダワリのサウンドです。

 「たんにギグのオファーが来るようにレコーディングをしたんだ。プロモーター(興行主)に我々のサウンドを聴かせたかった」とサージョーさんは語っています。地元ワシントンD.C.や、東海岸・南部のほうへ足をのばすために「名刺がわり」として録音したのでした。まさかこのシングルがヒットするなんて思っていなかったんですね。

 はじめはナイトクラブや地元ラジオ局で人気がでてきて、そのあと全国流通されることによってブレイクし、最終的にはビルボードR&Bチャート30位を記録しました。

 このヒットをうけて、さっそくアルバム制作にとりかかります。(当時は、まずは地元ラジオを中心に一曲のヒットをだしてチャンスをつかみ、レーベルとアルバム契約にこぎつける、というのが成功への道のりだったのです。)

 ここでつくられたアルバムは、本当にすごいと僕は思っています。全曲、むちゃくちゃキャッチーで、それぞれがシングルヒットしてもまったく不思議でない曲ばかり。やっぱり、サージョーさんは、作詞作曲の能力がものすごいんだと思います。
 9曲のうち7曲は地元の「トラックレコーダーズスタジオ」で録音されたとのことですが、2曲はなんとマッスルショールズ録音です。あのFAMEスタジオで録音されたのです。その曲がこちらです。





 「オレを兵士にさせて、この人生を狂わせようとする奴ら。負けてたまるか」と歌う「The Way...」。ベトナム戦争のことですね。それから、「Find Yourself」のほうは、「どんなに困難があっても、自分自身が傷ついても、本当の自分の道をみつけるんだ」と歌います。

 アラバマ州マッスルショールズまで行ったストーリーを直接本人から聞きました。「えっ! アラバマまで行ったんですか?」「そーやで、行ったがな。すごいやろ。これが忘れられへん旅になったんや」
 やっぱり、アメリカ人にとっても凄いことだったのですね。当時、フェイムといえば大人気スタジオだったはず。レーベルの人(GSF)とサージョーさんの二人で行ったそうです。僕は訊きました。
 「そんな予算を、よくレーベルの人が出してくれましたね」
 「そう、僕もビックリしたよ。〈あそこで録音したらイイってみんなが言うから、行ってみよう〉っていわれたんだ」
 飛行機で行ったのかなと思いきや、車で二人で運転していったそうです。13時間くらいですので、ざっくり感覚的には東京から福岡ほどですかね。

 つまり、電話で予約してから、自分で書いた曲の楽譜をもっていくわけです。そうしたら、かのリックホールさんやFAMEギャングさんたちが待ち構えていて、彼らのフレイバーを加えつつ演奏して録音してくれるわけです。それでマルチテープ(当時は16トラックでしょうね)を「ありがとうございましたー」といって持ち帰るんだそうです。
 ですので、この「FIND YOURSELF」と「THE WAY THEY DO MY LIFE」は、リズムトラックがFAME録音で、あとのボーカルとホーンは持ち帰ってワシントンDCで録音したそうです。

 さきほど「忘れられない旅になった」と書きました。サージョーさんがアメリカ深南部まで足を運んだのは初めてだったのです。「深南部(ディープサウス)」というのは、サウスカロライナ州より南のことで、とくに差別の激しい地域として知られています。ミシシッピ州、ルイジアナ州、ジョージア州など、そしてフェイム録音スタジオのあるアラバマ州もここに含まれるのです。
 サージョーさんたちは、スタジオに到着するすこし手前のところで、レストランに入りました。そこで差別の眼差しを感じたのだそうです。そのあと、突然の激しい腹痛にみまわれ、嘔吐すると、驚いたことに緑色のものだったそうです。ジョーさんは、そのレストランで毒を盛られたのだと確信しています。
 特にこの地域は、沼地の、ものすごい田舎ですから、さもありなん、ということなのでしょう。同行していたレーベルの人は白人だったのでしょうね。そういうところにFAMEスタジオがあった。ソウルミュージックとは何かを考えさせられるエピソードです。

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 さて、このアルバムの他の曲も紹介します。
 「So Much Trouble」のアンサーソング(続編ソング)というべき「Trouble With Trouble」です。これも名曲ですね。「学校で勉強しようにも、いい学校が近くには無い、バスに乗ったら、こんどはバス代で父ちゃんが怒りだす。トラブルがトラブルを呼ぶんだ」という歌。


 さて、傑作と評して良いと思うこのアルバムですが、発売元であるGFSレコードが弱小だったこともあり、全国的な話題を呼ぶまでには至りませんでした。
 ジョーさん直筆の、「こういうアートワークにしたい」というスケッチがそのままジャケットになってしまったお話は前回にしました。
 GSFはメジャー流通でしたが、お金をかけてプロモーションする気はなかったようです。しかしジョーさんによると「アルバムは口コミでうまくいくんじゃないかって思ってたんだ。ドンコーネリアス(テレビ番組『ソウルトレイン』の司会者・プロデューサー)にニューヨークのパーティーで会ったとき、《君のアルバムは特別にズバ抜けている。グラミーの可能性だってあると思う》って言ってくれたんだ」。
 かのドンコーネリアスも太鼓判をおしてくれていて、実際に彼の番組で使ってくれたのですが、それ以上のヒットにはつながらなかったわけです。



 サージョーさんほどの作詞作曲センス、それから時代に敏感に反応していたサウンドをもってすれば、もっとヒットを出して、大きなレコード会社と契約することもできたのかもしれません。
 このアルバムのあとも、1976年ごろまで、カッコいいシングルを連発するのです。それを次に見て行きましょう。


(その4へつづく)


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 サー・ジョー・クオーターマンは1944年ワシントンDC生まれです。ワシントンDCは「チョコレートシティ」と呼ばれるくらい黒人の割合が多いところで、黒人文化とくに音楽がさかんな場所です。なんと約50パーセントが黒人といわれています。(ホワイトハウスや連邦議会がある首都で、政治家やロビイストが生息しているところ、というイメージが強いかもしれませんが、どうやらそれは東京でいう永田町や霞ヶ関のような調子で、街の一部分ということなんでしょうか。)

 全米屈指の「黒人大学」であったハワード大学もここにあります。そして、後にチャックブラウンという英雄を生んで、ファンクの別の顔「ゴーゴー」がいまでも受け継がれている街です。


 若きジョーは1950年代のワシントンDCを、教会の合唱団やストリートで過ごしたそうです。子供のころからレイチャールズ、エルビスプレスリー、フランキーライモンなどから影響を受けて歌の才能を伸ばしました。中学生でトランペットを吹き始める前は、少年団でビューグル(軍隊ラッパ)を吹いていたそうです。高校生のとき初めての自身のバンド「The Knights」を組んだそうです。そのバンド名に応じて栄誉称号「サー」(勲爵士)というステージネームを使いだしたそうです。「この名前には深い意味は無いんだ。あの当時は、高貴なステージネームをつけて目立とうとするのが流行ってたのさ。《デューク(公爵)》とか《カウント(伯爵)》とか《ロード(卿)》などね。《サー》を選んだのは、僕の知る限りでは誰もそれを使っていなかったからさ」。

 なるほど、そういえば、古くはデュークエリントンやカウントベイシー、それからアール(伯爵)ハインズとか。B.B.キングなんかもこのジャンルに入るのかな? そういう黒人音楽の伝統があるみたいですね。しかし、それにしては時代が違いすぎるゾ。そういったもののリバイバルってことだろう。とりあえずそう理解しておこう。そういう名前を名乗るのが、ミュージシャンがストリートでキザに振る舞う一つのスタイルだったってことなんだろうナ。


 The Knightsがレコーディングを始めてまもなく、地元レーベルのオーナーであるローランドコヴェイ(ドンコヴェイの兄弟)に、女性ボーカルを加えようと言われたらしく、それが元でこのバンドは解散してしまいました。

 次に「サージョー&メイデンズ」というグループを結成。「Pen Pal」というローカルヒットをだしました。ジェリーバトラー、メイジャーランス、インプレッションズといった、ワシントンDCにやってくるソウル界のスターの前座で演奏したそうです。

 くわえて地元では人気のあった「The El Corols Band」にトランペットと歌担当で加入します。スティーヴィーワンダー、レイチャールズ、ナットキングコール、ディオンヌワーウィック、テンプテーションズ、スモーキーロビンソン、グラディスナイト&ピップス、オーティスレディングなどのスターのバックバンドを務めたそうです。このバンドは「The Magnificent Seven(荒野の七人)」というグループになり、ツアーで全国を廻っていました。リトルリチャードやソロモンバークのバックを務めたことがあるそうです。

 しかしバックのバンドメンバーに徹することに疲れたサージョーはヴァージニア州ピーターズバーグに移住します。そこでヴァージニア州立大学へ入学して、トロージャン・エクスプロージョン・マーチングバンドと学内の交響楽団に入りました。「僕の音楽教育のほとんどはピーターズバーグで得たものだよ」とジョーさん。日銭を稼ぐために、バージニアの州都リッチモンドでのたくさんの地元バンドで演奏し、週末にはチトリンサーキット(アメリカ南部の黒人ナイトクラブやライブハウスを巡業すること)をまわったそうです。

 1966年に、ジョーはワシントンDCに戻ります。The Uniquesの音楽監督の仕事の話があったり、地元のジャズグループ「Orlando Smithクインテット」に参加しました。ジャズの技術を身につけて自信がついたことにより、ついに自身の新しいグループの結成を決意します。「その頃ジェイムズブラウンは本当に大きな存在で、みんなファンクに夢中になり始めていたんだ。僕もやってみたかったんだが、ただのコピーはやりたくなかった。自分らしさを表現したかったんだ」。

 「ファンクをやる」という明確なコンセプトで1969年に結成されたその新しいバンドこそ、「サー・ジョー・クオーターマン&フリーソウル」でした。(つづく)


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 来週12月19日開催、オーサカ=モノレール主催イベントのメインアクトは、なんと、あのFUNKレジェンド、サー・ジョー・クォーターマン再来日です!

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 それでは、せっかくなので、ここでサー・ジョー・クオーターマンのことを色々と紹介してみたいと思います。
 ジョーさんと言えば、もちろんこの曲です。

"(I Got) So Much Trouble In My Mind" Sir Joe Quarterman & Free Soul


 初めて聴いたときの衝撃は忘れられません。レアグルーヴ・クラシックとして、Bobby Byrd "I Know You Got Soul" とタメをはるかんじです。1991年くらいだったかレコード屋で初めて聴きました。

 アメリカで小ヒットを果たした1973年から四半世紀も経った1980年代終わりごろ、「レアグルーヴ」として、突然イギリス・ロンドンのクラブシーンやラジオで人気がでて大カムバックを果たしたんですね。(僕はそのころ田んぼだらけの奈良県で高校生やってましたんで、そんな現場は知るはずないですが。)
 ちなみに、サージョーさん本人が、イギリスや日本でのリバイバルがあることを知ったのは1990年代後半になってからだったそうです。

 録音されたのは1972年の暮れのようです。時代は「ファンク(的なもの)」がもはやメインストリームになっていた頃と思います。スティーヴィーワンダーは「Talking Book」。JBは「There It Is」とか「Get On The Good Foot」「Doing It To Death」など。「スーパーフライ」「110番街交差点」。そして大ヒット「裏切り者のテーマ」。

 JBサウンドをひきあいに出すなら、リンコリンズの「Think」あたりの「アレンジがしっかり詰めてある完成度高い〝歌ものファンク〟」っていう雰囲気が共通の時代感を持っているように思いますがどうでしょうか。
 加えて、いわゆる「ニューソウル」的な、ハーモニーがリッチで、歌詞にベトナム戦争のことがでてきたり、というあたりがこの曲の聴きどころでしょうか。
 このポップ感とファンキー感のブレンドが、90年前後の僕たちにド真ん中に響いたんだと思います。

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 忘れがたい、ジャケットのイラストは本人によるもの。「こういうジャケットにして欲しい」とレコード会社にアイデアを伝えるために描いてみせたら、なんとそのまま使われてしまったというエピソードです。
 タイトル曲の歌詞どおりに、サー・ジョーたちの頭の中にいろんな「トラブル」がある、というイラストです。(裏ジャケの写真も「夢見る地元バンド」感があってイイですね〜。)

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 せっかくなんで、この「いろんなトラブルがあって頭がいっぱいだあ」という歌詞を書き出してみました。

  *   *   *

I got so much trouble in my mind
I got so much trouble in my mind
Give me the strength to carry on
Give me the strength to carry on
Cause everything I got is just about gone
I think about it, I think about it, and I got to shout!

トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
もう耐えられない 力をお与えください
もう耐えられない 力をお与えください
すべてがダメになりそう
心配だ 心配だ ああ心配だ 叫びたいよ

I got so much trouble in my mind
I got so much trouble in my mind
I got an eight hour job
I got an eight hour job
Everyday my work gets so hard
I worry about it, I worry about it, and I got to shout!

トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
いまの仕事は一日八時間なんだ
いまの仕事は一日八時間なんだ
それが毎日どんどんキツくなっていく
気が滅入る 気が滅入る ああ気が滅入る 叫びたいよ

Look here, there is:
Air pollution, much confusion, drug addiction, no convictions,
vietnam war, junkies at your door

聞いてくれよ 問題だらけさ
大気汚染 社会混乱 麻薬中毒 社会不安
ベトナム戦争 ジャンキーの強盗

I got so much trouble in my mind
I got so much trouble in my mind
Marriage I thought I never bother
Marriage I thought I never bother
Now my girl tells me I am a father
I dream about it, I dream about it, and I got to shout!

トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
トラブルだらけで頭がいっぱいなんだ
結婚なんて一生ないと思ってた
結婚なんて一生ないと思ってた
なのにガールフレンドが「あなたの子供がお腹に」だって
楽しみだ 楽しみだ ああ本当に楽しみだ 叫びたいよ

  *   *   *

 なんだか、説得力のある不思議な歌です。
 最後に、この曲は当時ヒットだったのか、そうでないのか?

 後述しますけれど、シングルとしてはビルボードR&Bチャート30位を記録しています。 「スーパーヒット」とはいいがたいですが、FUNKの聖地の一つであるワシントンD.C.で、地元の人気バンドがここまで駆け上ったということで相当盛り上がっていたのでしょうね。そのヒットを受けてアルバムがつくられたんですね。
 しかしアルバムのほうは(内容は傑作といえるものですが)セールスは芳しくなかったのです。

 レコード会社であるGSFも宣伝費をかけてプロモーションする気はなかったのです。なにせジャケットデザインを、本人の落書きで済ましてしまう(本人の承諾もなく)くらいですからねえ。

 そんなわけで、来週12/19のサー・ジョー・クオーターマン初来日をお楽しみに!
 これから、合計4回ほど(?)にわたり、サー・ジョーのお話をしていきたいと思います。

(↓もしかして世界初公開かも、、、? これが、Sir Joe Quarterman & Free Soulのライブ写真だ! おーッ!)

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 今回は、皆さんご存知の基本情報でした。
 次回からは、もうすこし突っ込んだストーリーを探ってみたいと思います。
 サー・ジョーの地元であるワシントンD.C.のことや、アルバム全体のこと、サー・ジョーさんの物語(60年代、70年代後半や80年代)、などなど、盛りだくさんで「予習」をしてまいりたいと思います。

 よろしくおねがいします。

(その2につづく)

"IF I HAD A HAMMER"

 




もし私にハンマーがあったなら
朝方にハンマーをたたく
夕方にハンマーをたたく
この辺りいっぱい響き渡るように

そのハンマーで
みんなに危険を知らせよう
みんなに注意をうながそう
わたしたち兄弟姉妹
愛し合おうと呼びかけよう
この辺りいっぱいに聞こえるように


もし私に鐘があったなら
朝方に鐘を鳴らす
夕方に鐘を鳴らす
この辺りいっぱい響き渡るように

その鐘で
みんなに危険を知らせよう
みんなに注意をうながそう
わたしたち兄弟姉妹は
愛し合おうと呼びかけよう
この辺りいっぱいに聞こえるように


もし私に歌があったなら
朝方に歌をうたう
夕方に歌をうたう
この辺りいっぱい響き渡るように

その歌で
みんなに危険を知らせよう
みんなに注意をうながそう
わたしたち兄弟姉妹は
愛し合おうと呼びかけよう
この辺りいっぱいに聞こえるように


正義をつげるハンマー
自由をならす鐘
愛をうたう歌
わたしたち兄弟姉妹のため
この辺りいっぱい響きわたる

正義をつげるハンマー
自由をならす鐘
愛をうたう歌
わたしたち兄弟姉妹のため
この辺りいっぱい響きわたる



If I had a hammer
I'd hammer in the morning
I'd hammer in the evening
All over this land.

I'd hammer out danger
I'd hammer out a warning
I'd hammer out love between my brothers and my sisters
All over this land.

If I had a bell
I'd ring it in the morning
I'd ring it in the evening
All over this land.

I'd ring out danger
I'd ring out a warning
I'd ring out love between my brothers and my sisters
All over this land.

If I had a song
I'd sing it in the morning
I'd sing it in the evening
All over this land.

I'd sing out danger
I'd sing out a warning
I'd sing out love between my brothers and my sisters
All over this land.

It's the hammer of Justice
It's the bell of Freedom
It's the song about Love between my brothers and my sisters
All over this land.

It's the hammer of Justice
It's the bell of Freedom
It's the song about Love between my brothers and my sisters
All over this land.



『あの人に会いたい』アマチュアカメラマン 増山たづ子
(NHK、2015年9月5日放送)



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増山さん:
 本当に、本当に諦めるなんてないでしょう? 人間は。
 本当の諦めってあるでしょうか、人間は。
 あんたはどう思いますか。
 どう思う、あんたは? 人の心って。


(ナレーション)
失われてゆくふるさとの姿を記録しつづけたアマチュアカメラマン、増山たづ子さん。
〈カメラばあちゃん〉の愛称で親しまれました。
60歳をすぎてから撮りためた写真は、アルバムにしておよそ六百冊。
10万カットにも及びます。
亡くなる直前まで、ふるさとへ想いを馳せ、シャッターをきりつづけました。

 増山さん:
 これは、大事なふるさとを失ってみた者でないとわからんわ。
 親がおるうちは、おうちゃくも言うがな。
 親が死んでまうと、そうすると、親のありがたさというものが、しみじみ分かるがな。
 それと一緒じゃ。
 失ってみた者でないと、こういうな、悲しみというものは、なかなか、、、。


(ナレーション)
岐阜県、徳山村。
大正六年、増山さんはこの村の宮大工の家に生まれました。
勉学に励むいっぽうで、山深い自然のなかの暮らしを愛する少女でした。

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 増山さん:
 まあ、山のなかで、町のもんが見りゃあな、
 「あんな山のなか、どこが良うて」っちゅうなもんやけどな。
 困ったときはお互いに助け合って、そして、「あれがないか」「これがないか」って助け合うし。
 笑いながら、歌いながら、仕事をした。うん。

 でな、町のもんから見るとな、豪雪地帯やろ?
 雪が大変じゃろなと思うけれども、
 こりゃあな、極楽のようなとこ、私たちには。

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(ナレーション)
昭和11年、同じ村の宮大工と結婚。
一男一女にも恵まれます。
しかし、昭和16年、夫が二度目の応召で、インパール作戦へ。
生死不明と告げられます。

戦後、夫の無事を信じて、留守を守りつづけた増山さん。
昭和52年に、ダム建設で村が消えるという計画がうごきだすと、
カメラを手にとり、カメラばあちゃんになりました。


 増山さん:
 家のとうちゃんがな、もし戻ってきたとき、
 夢にまで見たであろうアガデのふるさとがダムになってまっとっちゃな、
 「どうやって、ダムになったんじゃ」って訊かれた折に、説明のしようもないわと思ってな。
 昭和32年から、「明年はダムになる」「さ来年にはダムになる」って、こうやって、引き延ばされてきたんやしな。
 あんまり長うなったし、それから、だんだんと、反対しとる明治生まれの気骨のある人間も死んでいくしな。
 こりゃあ、国がいっぺんやろうと思ったら、戦争もダムも、必ずやるに違いないで。
 こういうな、大川にアリが逆らっとるようなことをな、しとっても、しようがないでな、
 ちぃとでも、これは残しとかんてぇと。


(ナレーション)
村を記録するという、強い決意。
生まれてはじめて手にしたカメラで、徳山村で生きる、村の人たちのポートレイトを写し始めました。

まもなくダムに沈んでしまう・・・。
切迫感を、笑い声を打ち消しながら、シャッターをきりつづけました。

 増山さん:
 この人とも、もう、これでお別れ、
 この人ともお別れ、と思って、
 もう、ひと月も無いんじゃからと思って、撮った。

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(ナレーション)
その視線は、花や樹木にも向けられます。
苦しいとき、悲しいとき、本音を語った、ふるさとの友を失うという気持ちでした。

 増山さん:
 何百年も立っとる樹が、まあその、ずうっとそこにあって、
 「何をトロくさいことを言うとるんじゃ、このワシを見よ」ってな、
 「大水に  根をあらわれ、台風がくりゃあ枝を折られても、こうやって何百年も立っとんじゃぞ、トロくさいこと言っちゃあアカンぞ」ってな、
 励ましてくれる、いつもかも。

 これなんかも、生きながらにして、こうして、ダムに徐々に沈んでいくんかしらんと思うとな・・・可哀相な気がしてな。

(ナレーション)
写真を撮りはじめて六年目、最初の写真集を出版し、村の人たちに配りました。
しかし、ダム建設をめぐって、人々のあいだに亀裂がはいり、翌年、村外への移転もはじまりました。
家を壊し、更地にした人々・・・それが、保証をうけるための条件でした。

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最後の祭りが行われた夜も、増山さんはシャッターをきりつづけました。
初めてカメラを手にしてから、九年の年月が流れていました。

(村人の祭りのかけ声)
ワッショイ ワッショイ
ワッショイ ワッショイ

(ナレーション)
写しても、写しても、写しきれない。
村が地図から消えたあとも、増山さんは活動を続けます。
移転先を一軒一軒たずね、声をかけ、交流をつづけました。

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増山さん(訪問先の友人に写真を渡しながら):
 これ見てみよ、あんたにもあげたじゃろ、これ。
 ハッハッハッハ。
訪問先の友人:
 いかにも嬉しそうなこと!
 どうやね、こりゃあ、やれ嬉しい。
増山さん:
 憶えとるか、これ?

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増山さん(写真を撮影する):
 えー、とー、さん、と。

(ナレーション)
新たなポートレイトも撮影します。

増山さん(訪問先の知人に):
 忘れたことはないぞ、うん。
 ときどきな、わしゃあ、あんたのとこに電話するんや。
 泣くなて!
 せっかく楽しいのに泣いちゃあかん。

増山さん(取材に応じて):
 やっぱし思い出してくれるんだろうな、ふるさとのことを。
 どういうわけか知らんけど、わたしが行くと、みんな笑いだすんでなあ。
 わたしも、また、ワハハって笑うしな。
 うん、うれしいな。

 人間は、いつ、ぶっ倒れるかも分からんし、どういうことがあるかも分からんし、もうこれが最後、これが最後、と思って撮らしてもらうし、明日が今日あるかどうか分からんですから。

 その時その時に、あたえられた(聴き取り不可)なんか、
 すこしでも幸せを見つけていかんとな、
 人生が暗くなる。

(ナレーション)
失われていくふるさとと人々の姿を記録しつづけた増山たづ子さん。
「ふるさとは心の宝。」と、カメラを手に闘いつづけた人生でした。


 増山さん:
 本当に、本当に「諦める」なんて無いでしょう? 人間は。
 どう思う、あんたは?
 人の心って。

 もうね、スパッとね、仕方がないっちゅうて、
 例えば、大根の尻っぽをピシャッと切ってね、
 そうやって、パッと離れられるような「諦め」って、人間にはあるんでしょうか?
 あなたはどう思いますか。

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(エンドタイトル)
 アマチュア カメラマン 増山たづ子 1917-2006

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