MISSISSIPPI GODDAM(ニーナシモン 1964年)

 
MISSISSIPPI GODDAM by Nina Simone, 1964




つぎの曲のタイトルは「ミシシッピ州くそくらえ」です。 
これは皮肉でもなんでもないんですよ・・・。 

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ
テネシー州にも一言もうしあげます
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ 
テネシー州にも一言もうしあげます 
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

あなたも知ってるでしょう? 
肌で感じるでしょう? 
たちこめる独特の空気 
重苦しくて耐えられない 
ああだれかお祈りを

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ
テネシー州にも一言もうしあげます
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

これはミュージカルでつかうために書かれた曲なんですが、 ミュージカルのほうはまだ書かれていないんです。 

路上には警察犬
留置場には学校の児童たち 
黒猫がまえを横切る 
いつ殺されてもおかしくない 

ああ神よ 私たちのこの国 
いつか必ず自分の国に住むはずだけど 
どこにいってもわたしに居場所は無い 
神に祈っても意味がない 

だまって私の話をききなさい 
わたしたち同胞はもう時間切れ 
この目でみたからよく知ってる 
わたしたちは「急ぐな!」ばかり言われるの 

急ぐのか、急がないのか そこが問題なわけ
窓を拭くにしても「早くしろ!」 
綿をつむいでも「早くしろ!」 
「まったくあきれた奴だな、早くしろ!」 
「たいした怠け者だな、早くしろ!」 
「考えなくていいから、早くしろ!」 
どこに行けばいいのか
なにをすればいいのか
ああ分からない 

とにかく最善をつくしましょう 
みんなでたちあがりましょう 
ミシシッピ州の惨状は知れ渡っています ・・・くそくらえ!

ジョークを言っていると思ったでしょう?

デモ行進も学校ボイコットも
共産主義者の陰謀だなんて
わたしたちは平等をもとめるだけ
姉妹のため 兄弟のため 黒人全体のため
そして私自身のため

うそにまみれたこの国
ハエみたいに全員死んじゃえばいい
もうあなたたちのことは信用しない
あなたたちは「急ぐな!」ばかり言う

急ぐのか、急がないのか そこが問題なわけ
人種隔離の廃止にしたって「おそすぎる」 
大衆参加にしたって「おそすぎる」 
市民統合にしたって「おそすぎる」 
社会変革がゆるやかで「おそすぎる」 
これではさらなる惨状をまねくだけ 
気づかないの? 
感じないの? 
ああ分からない 

私のとなりに住めと言ってるんじゃないの 
わたしとあなたは平等だと言ってるだけ 
ミシシッピ州のことは知れ渡ってる 
アラバマ州のことも知れ渡ってる 
誰でも知っている 
あのクソみたいなミシシッピ州

おしまい!




The name of this tune is Mississippi Goddam. And I mean every word of it. 

Alabama's got me so upset
Tennessee made me lose my rest
Everybody knows about Mississippi Goddam

Can't you see it? Can't you feel it?
It's all in the air
I can't stand the pressure much longer
Somebody say a prayer

Alabama's got me so upset
Tennessee made me lose my rest
Everybody knows about Mississippi Goddam

This is a show tune, but the show hasn't been written for it yet.

Hound dogs on my trail 
School children sitting in jail 
Black cat cross my path 
I think every day's gonna be my last 

 Lord have mercy on this land of mine 
We all gonna get it in due time 
I don't belong here I don't belong there 
I've even stopped believing in prayer 

Don't tell me I tell you 
Me and my people just about due 
I've been there so I know 
They keep on saying "Go slow!" 

But that's just the trouble "Too slow" 
Washing the windows "Too slow" 
Picking the cotton "Too slow" 
You're just plain rotten "Too slow" 
You're too damn lazy "Too slow" 
The thinking's crazy "Too slow" 
Where am I going, what am I doing 
I don't know, I don't know 

Just try to do your very best 
Stand up be counted with all the rest 
For everybody knows about Mississippi Goddam 

 I made you thought I was kiddin' 

Picket lines, school boycotts
They try to say it's a communist plot 
All I want is equality 
For my sister my brother my people and me 

 Yes you lied to me all these years 
You told me to wash and clean my ears 
And talk real fine just like a lady 
And you'd stop calling me Sister Sadie 

But this whole country is full of lies 
You're all gonna die and die like flies 
I don't trust you any more 
You keep on saying "Go slow!" 

But that's just the trouble (Too slow) 
Desegregation (Too slow) 
Mass participation (Too slow) 
Reunification (Too slow) 
Do things gradually (Too slow) 
But bring more tragedy (Too slow) 
Why don't you see it, why don't you feel it 
I don't know, I don't know 

You don't have to live next to me 
Just give me my equality 
Everybody knows about Mississippi 
Everybody knows about Alabama 
Everybody knows about Mississippi Goddam 

 That's it!

一(いち)の発見

 

題名に惹かれて、じつに興味ぶかい本をよみました。

数学者によって書かれた本。

数学の歴史をおおざっぱに、ふつうの人がたのしめるように書かれたもの。

初版は戦前だが、いまだに人気のある、とても有名な本だとききます。

「零の発見:数学の生い立ち」という読み物です。


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古代のひとびとが数(かず)をあつかうようになり、一やニや三は知っていても、零(れい)すなわちゼロは知らなかったといいます。

ゼロの概念はインドの商人によってみつけられたそうです。

それまではゼロというのは誰も知らなかった、そういうことになります。


ゼロのことを誰も知らない・・・どういう意味かな。

「無」というのは意識できたのだろうけど、ゼロというものが数字の一つとして考えられていなかった、ということだろう。

僕なりに解釈してみると、きっと、

 2 ー 2 = ?

と尋ねられると、当時の答えとしては「そんなの、わかりきってるじゃん、なくなっちゃうんだよ、なにをばかな質問してるんだよ」ということになったのであろう。

大真面目な顔をして、

「こたえは、ゼロです」

なんて言わなかったんだろう。

それも分かる気もしなくもないけど。


それが、何世紀のころか知らないけど、インドのひとが、「1や2や3ばかりじゃなくて、〈無〉をあらわす数字もつくったほうが便利だよ」と言い出したと。

それは何年もかけた大革命だったのだろう。

いうまでもなく、そのあとさらにマイナスの概念が発見される。それはもっともっと後の話。マイナスの発見も、大革命だったにちがいない。


そういえば、高校で「虚数」というものを習った。

たしか、「二乗したらマイナスになる」という存在しない数のこと。

存在しないのだが、いちおう存在すると自分自身をだましてみることで、わからなかったことがわかる、新しい世界が見えて来るという。


古代の人はゼロを知らなかった、と聞くとやはり古代のひとびとは数学的に未開だったのだなあ、なんて思うが、人のことを嗤っていられない気もする。

日本人は本当にゼロやマイナスを理解しているのか、心もとない。

そいうのは、やっぱり、あの、エレベーターの話があるから。


日本で「一階」というのは、諸外国のエレベーターでは「0」というボタンを押す。

日本でいう「二階」というのは、英語では「The first floor」と呼ぶ。エレベーターのボタンでは「1」になる。


だから、ホテルに宿泊するときには、大きなホテルは困らないのですが、小さなホテルだと頭がこんがらがる。

エレベーターのない小さな宿で、レセプションの人から「あなたの部屋は12です。一階にありますから、そこの階段をあがってください」と不気味な指示をもらう。

そのあと、うちのバンドメンバーとの会話で、

「中田さんの部屋はどこですか」

「オレは二階だよ」

「それって、ようするに一階っていう意味ですか」

などという意味のわからない会話をするはめになる。


これは西洋と東洋で、階(かい)がひとつずれている、という単純な話ではありません。

つまり、地上階(The ground level)のことを「一階」と呼ぶのか「零階」とかんがえるのか、の違い。

地下一階が、マイナス1なのであれば、日本で云う「一階」は、「零階」とよばなければつじつまが合わないことになる。

ご存知のように、この矛盾は日本の習慣では無視されています。


かりに、どこかの外国からのお客さんが日本に来て、

「ああ、日本のひとはゼロの概念が希薄なんですね」

などと言われちゃうかもしれない。


僕がその本「零の発見」を手にとったのは、ファンクの手がかりになるんじゃないかと思ったからです。

ジェイムズ・ブラウンは「The one」なるものを発明/発見した、と云われています。

ファンクというものに魅せられたひとたちは口をそろえて「The oneだよ! すごいよ! 大発明だよ!」と嬉しそうに言う。


「1、2、3、4、ときて、ふたたびあの1がくるんだ。すごい!」

とあたりまえのことを言う。さらには、

「1、2、3、4、の四つのそれぞれも、やはりおなじ1なんだよね、すごい!」

とか、

「2と4が大事だと思ってたら、じつは音楽は1と3から始まってるんだ、すごい!」

とあたりまえのことをさも大発見のように言う。

つまり、さっきの零(ゼロ)のはなしとおなじで、その概念を知る人は「これがなくちゃやってられない」となるのだけど、まだくっきりと概念がみえていない段階の人は「なにをあたりまえのことを言ってるのだ?」となる。


「The one」をよく知るひとは皆、その話をしだすといきなり「イエーイ! The one!」とか、うれしそうなスイッチがはいって、宇宙と交信するような感覚となる。

ようするに、The oneというのは、神みたいなもん、それにちょっと似た存在なのだろう。


存在。

それが、そこにあるということ。

音楽における音符(ノート)というものは、たらたらと奏でられては時間とともに消え、川のように流れてどこかへ去ってゆくような感覚があるけれど、それを打ち破るような概念。

一つ一つの音符が、リズムが、なにかたしかな存在しているもので形成されていて、しっかりと支えられているという感覚。

それをつくっている支配的な物体(The one)の存在のなかにもまた、果てしない世界がひろがっているような。

果てしない時間をつくるビッグバンのような。

それがThe oneというもの・・・なのかな。


まあどこまでいっても意味不明かもしれないが、とにかくジェイムズブラウンは「一(いち)を発見」したとして知られる。

一(いち)というのは、そこにある。

もしかしたら無いのかもしれないけど、あると強く思えば、存在をつくることができる。

そうして、それをつくる主体もまた、「The one」だと云う。

NOPE (2022)

 

いまのところ、細部まではっきりとメッセージを受け止めた気分はしていないものの、映画「NOPE」とは一体何の物語なのか、どういう方向で考えたらいいのか、感想を書き留めてみようと思いました。

歴史上初めて撮影された連続写真(=映画)が動く馬であり、そこで「主演」している騎手の曾々々々孫にあたるのが主人公二人すなわち兄の「OJ」と妹の「M」ということですから、彼らは史上初の映画俳優という貴い血筋をひく兄妹ということです。(ただし、これはフィクションの設定。)
世が世なら映画業界のロイヤルファミリーとなる。そのプリンスとプリンセス。これは、あるある設定です。『ブラック・パンサー』のような、王家が流されている物語。
その一族が今は身をやつし、食うに困る暮らしをおくっている。映画スタジオからお払い箱にされる始末。
貴種流離譚は、主人公が王または女王として返り咲いて物語を終えるのが常だと思うので、さてここからどうなるのでしょうか。

その「王家」は「ヘイウッド」という姓を名乗っています。
これは「ハリウッド」をモジっているのでしょう。
すなわちヘイウッド家の人々(父、息子、娘)は映画産業そのものを表しているんだろう。
よーするに、兄妹は映画芸術表現の良心をあらわす、みたいな。そういう話だと思います。

空からやってくる敵は一体なんでしょう。
映画の敵。
現代における映画に対する脅威といえば一つしかありません。
インターネット。
YoutubeとかTiktokとか、そういうやつ。
ネットフリックスやらアマゾンプライムやら、そっちかも知れない。
とにかく、ソーシャルメディアっていうのか、そういうやつ。
Google社でもAmazon社でもいい。
とにかく、この映像業界の新参者たちが映画を殺そうとしています。
映画のことも人間のことも、これっぽっちも気にかけない、ミソもクソも右から左へ流して人々の欲望を煽るだけの、中身のない空虚な広告代理店たち。
それが映画の敵。
人類の敵でもある。

本編中、ずっと映画やお芝居のことばかり話をしています。
監視カメラ、フィルム撮影、レンズ、CG、テレビドラマ・・・。
この映画が、映画についての映画であることは疑いの余地はありません。

さあ、ついに映画界のロイヤルファミリーの反撃が始まった・・・というのがプロットです。
しかし、本人たちは何と戦っているのか、何のために戦っているのか、自覚がありません。
長い間、冷や飯を食わされて来て、自分が誰かさえも分からなくなっています。
(目覚めないといけない。しかし目覚めはまだやってこない。)
当人は、バズり動画を撮影してひと山当てようと考えているだけです。
ロイヤルファミリーのプリンセスともあろうものが、良心をまったく失っています。
それこそ、敵(「Gジャン」)の術中に完全にはまっています。

ラストシーンで、プリンセスは敵を滅ぼします。
しかし、誰を滅ぼすことに成功したのか、彼女に自覚はありません。
そもそもの動機が間違っていたのです。
「オプラ級」のショットを撮影することは出来ました。しかし、それこそ生き馬の目を抜くソーシャルメディアの世界のことです。瞬く間に他人に出し抜かれるにきまっています。「ひと山当てる」など夢のまた夢でしょう。
彼女は勝ってなどいません。

結局、どちらが勝ったのだろう。
映画はその答えをだしていないと思います。
両方ともが死んだ(父や兄は死んだようだし、Gジャンも死んだ。)
ただ、自らの秘めたる力に気付いていないプリンセス(妹)が立ち尽くすところで映画は終わりますから、そこに未来があるような気はします。
答えを出して欲しかった、というのは僕の意見。
映画がインターネットに勝つ、すくなくともGoogleやAmazonやNetflixといった敵くらいは、蹴散らすところまで描いて欲しかった。
僕の要望としては、すくなくとも、何らかの希望は描いて欲しかった。
このままでは希望さえ無い。

さて、元子役スターのジュープは、Gジャンを利用しようとして失敗します。
これは妹エメラルドとまったく同じ行動。
彼の最期、吸い込まれそうになるときには「飲み込まれて本望」とでもいうような複雑な表情を見せていたのが印象的でした。
彼に限らず、Gジャンの胃袋に入った人たちは、キャーキャーとまるでジェットコースターを楽しむ遊園地の客のような歓声をあげています。
きっとGジャンの胃袋の中は楽しいところなのでしょう。
そのへんを描くためにジュープという第二の主人公は登場している、たぶん。

僕はこの映画には納得がいきません。
一番意味がわからないのは、スピルバーグの「ジョーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク」のような、家族で楽しめる怪獣映画を期待した場合に、あのチンパンジーのシーンは見るに耐えないということです。
(さらに、被害にあった共演者の顔面のキズを「見せ物」として提示しているのは、他でもないジョーダン・ピールです。なぜそんな演出をするの!)
僕はこの映画を自分の子どもに観せたくない。
娯楽大作を批判する娯楽大作が娯楽大作じゃなかった・・・となってしまう。
もしかしたら、アメリカではこれくらいの描写は「家族向け」の範囲内なのかもしれない。
もしそうならあまりにもヒドいと僕は思う。

もう一点。
ジョーダン・ピールはオプラ・ウィンフリーを「見せ物をつくる者」と糾弾している様子である。
チンパンジーに襲われた被害者は、オプラの番組に出演したことで知られる。
でも、映画を観ていて彼がオプラをそこまで厳しく批判するというのも、にわかに信じがたいと思った。
なにかがオカシイ。僕が解釈を間違っているのかもしれない。
または、そもそも映画もテレビドラマもトークショーもソーシャルメディアと同じくらいの汚物だとでも言いたいのだろうか。
わけがわからない。理解力が足らないだけかもしれないけど。

とにかく、無駄な情報量が多すぎる。
もっと家族で楽しめる映画をつくったらええやろ!
映画の話をしたいんやったら、映画に一筋の光を見ることのできるような、よきメッセージを発することをなんでしないのか。
批判すべきは「見たい、見られたい人々の欲望」(=Gジャンおよび飲み込まれてゆく人々)じゃなくて「グーグル社」ではないのか!
・・・というのが僕の感想です。

ものすごく善意に解釈するならば、このあとプリンセスが目覚めて、本来の持てる力を発揮するのかもしれない。
続編を待て、的な。
そのとき「映画の復権」があるのかもしれない。
それくらいしか思いつきません。
今日はこれでおわり。

OUR DAY WILL COME by Ruby & The Romantics, 1964



わたしたちの時代がやってくる
すべてを手に入れる時が来る
愛し合えるよろこびを
分かち合いましょう

「まだ子どもだから分からない」
なんてもう言わせない
私はあなたを愛してる
あたたは私を愛してる

わたしたちの時代がやってくる
そこまで来てる もうすこし
涙はもう要らない
愛を信じて 笑顔でいましょう
この夢は魔法の力を持つ
愛があふれつづけて
わたしたちの時代がやってくる

わたしたちの時代がやってくる
わたしたちの時代がやってくる


Our day will come
And we'll have everything
We'll share the joy
Falling in love can bring
No one can tell me that I'm too young to know
I love you so
And you love me...

Our day will come
It will just wait a while
No tears for us
Think love and wear a smile
Our dreams have magic
Because we will always stay in love this way
Our day will come

Our day will come
Our day will come





下記引用は、平子義雄『翻訳の原理 異文化をどう訳すか』より。
どう訳すのかということが法の解釈を左右するーーつまり「言葉が現実をつくる」ということの例(失敗例)。


英〈right〉、独〈Recht〉は、自然法上の権利の概念を表す言葉である。これの訳語として今日、〈権利〉という日本語が用いられている。たとえば、日本国憲法の第26条に「教育を受ける権利」がうたわれている。しかし〈right〉の訳語としては、〈権利〉は正確でなかったのである。それが〈権利〉になっていったいきさつを、柳父が詳しく伝えている[柳父章(1982):『翻訳語成立事情』岩波書店:149ff]。
〈権利〉という語はその後、日本の社会に大きな影響を与えることになった。たとえば次のようなことがある。「教育を受ける権利」は、国民が国に対して社会的生活を要求できる社会権の一種である。国民には教育を受ける「権利」がある。それに応じて、国には教育を与える義務がある。そこで、国は教育の外的条件を与えるのか、それとも教育内容に立ち入るのか、という問題が出てきて、この点の解釈で学説と判例がいろいろになった。「教育権」をもつのは国である(国家教育権説)か、親である(国民教育権説)か、という家永日本史教科書裁判の論争である。
〈権利〉が〈right〉のことであれば、それは人権のひとつなのであって、国家の権利などではない、ということは明白になるはずである。柳父のいうように、〈権利〉には〈権力〉という日本語の〈権〉の意味(〈power〉に近いもの)が入り込んでいる[同書 158ff]。国がもつ〈権利〉というのなら、それは〈power〉(独 Macht)のことであり、近代の人権思想、自然法による概念である〈right〉をさすことはできない。親がもつ〈権利〉というのなら、〈right〉でよいのだが。〈権〉という文字(言語の言語現実)から、言語にないものが作られていったわけである。明治期の啓蒙思想では、国権と民権の区別が曖昧であった。日本の近代化を急いだという国家的事情が背景にある。自然法による人権思想(啓蒙主義本来の理念)と、国力をつけるというナショナリズムの要請とを、同時に目指したことによる歪みであった。



おつかれさまでございます。
オーサカ=モノレールというヘンな名前のバンドを三十年もやっているのですが、ずいぶん前に大阪から引っ越してしまい、いまは横浜市に住んでおります。
17年くらい神奈川県民です。

毎度恒例の「誰に/どこに 投票するべきか」、今週末の参議院選挙の神奈川選挙区編を考えてみたいと思います。 

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今回の選挙は参議院議員の議席248議席の半数を入れ替える選挙。
日本でかならず三年に一度おこなわれる国政選挙です。

僕の場合でしたら神奈川県です。これは大きな選挙区で、四議席が割り当てられています。

ところが、今年の神奈川選挙区の選挙はちょっと特別です。
といいますのは当選する人は四人ではなく五人なのです。
二年前に行われた横浜市長選挙のときに、松沢(維新)が立候補するので参議院議員を辞職したことにより欠員があるので、今週末の選挙で、五番目に票をあつめた人物がこの席に座ることになっております。(ただし任期は半分しかない)

横浜市長に当選できる可能性なんてどうせ無かったのに、何を思ったかわざわざ参議院を辞職してまで横浜市長選に立候補した。
選挙の裏側は知りませんが、維新の宣伝がしたかったのでしょうか。
または、野党候補(立憲民主党や共産党)の票をいくらか誘導して、自民党の候補を勝たせようとしたのでしょうか。
とにかく、いつもながら自民の覚えめでたい維新。あっちに行ったりこっちに行ったり、いちいちややこしい松沢です。
こういう輩が目立つのが一番悪いと僕は考える。日本の政治腐敗の元凶です。

そういうわけで、主な候補者は次のとおりです。

寺崎雄介(立憲)
水野素子(立憲)
内海洋一(社民)
松沢成文(維新)
三原じゅん子(自民)
浅尾慶一郎(自民)
深作ヘスス(国民)
浅賀由香(共産)
三浦信祐(公明)

まあ、よーするに、
三原(自民)、浅尾(自民)、松沢(維新)、三浦(公明)
の現職四名(松沢は前職だが)は手固く当選すると目されている。
あと残り一議席を下記の三名が奪い合う構図となっている。

水野素子(立憲)
朝賀由香(共産)
寺崎雄介(立憲)

このなかから一名が当選する。一体それは誰か、という話です。
でも、ちょっと待ってください。
僕は頭がこんがらがっています。
なにか手品でも見せられているような気がしています。
定員の四議席は自民二人、公明、維新でもう埋められているわけです。
維新も自民の別働隊みたいなもん(改憲勢力)なわけですから、すべての議席があっち側に抑えられているわけです。これは恐ろしいです。
そんななか、なんだか、おこぼれみたいな議席がひとつ、野党(立憲または共産)に与えられることになっているわけです。
めちゃくちゃラッキー、という話です。

うーん、そんなことってあるでしょうか。
自民側やら維新側もアホではないのです。
みすみす、一議席を立憲やらに譲り渡すなんてことがあるはずがない。
僕はなにか見落としているのだろうか。
狐につままれたような気分です。
いったい何なんだ、この詐欺みたいなおいしい話は。

三日三晩、寝たり起きたりしながら考えましたがわかりません。
この参議院の「三年ごとに半数が改選する」という制度で頭が混乱する。

A4コピー用紙をもってきて、表を書いてみたらわかった。

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よーするに、真山勇一(立憲)の持っていた議席が今回の選挙で松沢に取られてしまう見通し、ということである。
五議席目がなんとか野党にまわってくるが、これは任期が半分しかない席なので三年分損していることになる。
なんだ、このマジックは。

それって、よーするに
参議院は選挙で勝てる見込みがあれば、途中でやめちゃって、もう一度選挙やったほうがトク。
という、とんでもない反則技を松沢が使ったということでは!
それで横浜市長選を言い訳に辞職したんじゃないの。
もっと重要なことに、三年後の選挙で野党側が議席を減らすことは間違いない。
選挙制度の悪用。民主主義の破壊。

さすが維新。
さすがみんなの党やら次世代の党やら希望の党やら渡り歩いただけのことはある。
こういうしたたかな悪人が跋扈する現代は、まじめな共産党を応援するにかぎります。

この日曜日も僕は、前回、前々回の参議院選挙と同じです。
あさか由香(共産党)
に投票します。

立憲民主党もイマイチです。
立憲民主党が頑張ってくれなければ困ります!

みなさん、日曜日は投票所へ。


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オーサカ=モノレールというヘンな名前のバンドを30年もやっているとはいえ、僕はこの17年ほど神奈川県民です。
東京のみなさんにはおせっかいですが、
選挙ごとに恒例の、「もし僕が東京都民であったら」を書いてみたいと思います。
あれだけ狭いところで日本の人口の1/10くらいが集約されている巨大都市、東京です。
経済の規模でいえばもっとスゴい。日本の数十パーセントでしょう。
誰でも、「おせっかい」をしてもよいし、しなければならないでしょう。

2022年は、三年に一度かならずやってくる参議院選挙の年です。
参議院議員の定員は248名、衆議院議員の定員は465名。
あと一週間したらやってくる投票日で、参議院議員の半分(124名)が入れ替えになります。
ということは、国会議院の七分の一くらいかあ・・・そんなに多くない。
でも、日本は二院制で、一院の半分なわけですから、ある種、四分の一。
法律をストップさせることも、いちおう可能。
そう考えるとスゴいことだ。

参議院の選挙は三年に一度かならず行われる。
こんな基本的なことさえも、僕がハッキリ認識したのは、けっこう最近・・・。
恥ずかしながら告白しておきます。

人のせいにしたらアカンのですが、そういう話をみんなしないし、テレビのニュースもなくなっちゃって「ワイドショー」ばかり。
日本はほんとうにオカシイ。
ジャーナリズムが発達していなければ、こんな一億人以上も擁する大きな国で民主主義は成立しない。

どっかの街角にポスターやら貼り出して、「今年は、三年に一度の選挙の年!」とかなんとか、書いておいてください。
そうしたら、大人もそうだし、世の中の子どもたちも、「ふーん、選挙って三年に一度あるんだな」って知ることができる。
子どもたちは、大人よりよっぽど政治家のポスターや選挙掲示板をよく見ている。
アホなキャッチフレーズの政治家がいたら、子どもたちは「アホだな」とよく分かってる。
でも、「そんな奴らを追い出さなくては」って思うようになる子どもも居るだろうし、
「政治なんてアホのやるもの」って諦めちゃう子どもも居るだろう。
あと、子どもにも伝染してどんどんアホになっちゃう。
ていうか、もうなってる。自分。
僕より僕の父や母のほうが一所懸命だし、さらに祖父や祖母のほうがもっと一所懸命だったわけ。
日本の大問題。

そういうわけで、三年前って何があったっけ。
2019年。
この年はまだコロナが来ていなくて、年末あたり「中国で流行ってるらしい」って報道されていた頃。
僕はちょうど、東京オリンピックを批判するお芝居「アルトゥロ・ウイ」の準備をしていたのを覚えている。
2019年で一番大きかったことといえば、香港民主化デモだろうか。
民主化に至らなかった。本当に恐ろしい。歴史の転換点。
ああ、ちょっと大きなことを忘れていた。「令和」がはじまった年。
もちろん、僕は元号を使うのが大嫌いなのでわざわざ言う必要もないのだけど。
元号がかわったからといって何かが前に進むわけでもないのに大騒ぎする。日本はオカシイ。
そういえば、その時期、ブログで「平成」について書いた。マンガや映画のこと。
http://osakamonaurail.com/nakata/2019/02/post-179.html

あのときは、こういう結果だった。下記当選者、定員六名。

自民 丸川珠代・・・114万票
公明 山口那津男・・・81万票
共産 吉良佳子・・・70万票
立憲 塩村文夏・・・68万票
維新 音喜多駿・・・52万票
自民 武見敬三・・・52万票

立憲の二人目、山岸一生は善戦して49万票。もうすこしのところで落選した。
維新の音喜多を落選させないとアカンかったのに、惜しかった。
丸山珠代などという小物が110万票もとってトップ当選というのが、じつに納得いかない。
そういえば、タピオカドリンクの大ブームがやってきたとき、丸山珠代が、
「(タピオカで)プラスチック容器のゴミが大量にでるので、政治課題として解決したい」
などとトンチンカンなことを言い出して失笑を買ったのが記憶に新しいけど、あれって、 タピオカって中国語で「珍珠(チンスー)」って書く。だから、
「タピオカ大ブーム、あっ、私の名前!」
ってなって、大喜びして考えついたキャンペーンだったにきまってる。
(なんの証拠もないけど。)

そんなことより、今回改選となる、さらに三年前の選挙を見直さなくては。2016年です。
これは、五十年に一度という政治の嵐がまきおこった安保法制闘争の翌年の選挙だった。

民進 蓮舫・・・112万票
自民 中川雅治・・・88万票(今年で引退)
公明 竹谷とし子・・・77万票
共産 山添拓・・・66万票
自民 朝日健太郎・・・64万票
民進 小川敏夫・・・50万票(今年で引退)

ちなみに七位につけていたのは田中康夫で49万票という僅差だった。
そのときの田中は「維新」であり、近年ではみずから「あれは黒歴史」などと言っている。
政治家が「クロレキシ」などと冗談めかした言葉で過去を総括して、それでも叱られないというのは、本当にオカシイ。
こういうところに、日本の「無責任国家」の性質がよくあらわれている。
ええと、よーするに、維新がそこまで来とる、ということです。

前置きがながくなってしまいました。
あと一週間後に迫った、大激戦区 東京選挙区について考えてみたいと思います。
主な候補者は下記のとおり。

竹谷とし子(公明)現職 公認会計士
松尾明弘(立憲)前衆議院議員、弁護士
蓮舫(立憲)現職、元タレント
山本太郎(れいわ)前衆議院議員、党代表
乙武洋匡(無所属)作家
海老沢由紀(維新)前大阪市会議員
荒木千陽(ファ)党代表、前東京都議会議員
朝日健太郎(自民)現職、元ビーチバレーボール選手
服部良一(社民)党役員、元衆議院議員
山添拓(共産)現職、弁護士
生稲晃子(自民)俳優

まあいろいろな調査やら報道があるのですが、
よーするに、朝日健太郎と生稲晃子と蓮舫と竹谷とし子が落選するということは無い。
政権与党たる自民党が、日本最大の選挙区に、スポーツ選手とアイドル歌手の二人を出すという、日本の聚落を絵に描いたようなことをやっている。
当選しても何も仕事をできない人、しない人。お人形だけが国民の前に姿をあらわす。
それで票が入るのだからそうなってしまうのだろう。
各紙が朝日健太郎がトップ当選だと言っている。ついこないだまで60万票しかとっていなかったのに、東京のど真ん中でトップ当選か。本当にオカシイ。
ヘタしたら生稲晃子がまさかのトップ当選するんじゃないのか。・・・それはないか。
それに、もし蓮舫が90万票とか80万票とかになったら、すごくヘコむから、頑張って欲しい。
公明は、前よりは人気ないかもしれないけど、落選はないだろう。

上記四人は大丈夫で、のこり2議席。
山本太郎、山添拓、そして海老沢由紀、松尾明弘の四名が追いかけている。
よーするに、番狂わせがなければ山本太郎と山添拓が当選し、のこりが落ちる。

さっきも書いたが、維新はそこまで来ている。ええ加減に早いところ息の根をとめないとアカン。維新というものには信念が何もない。空洞。つまり、NHKナントカと一緒でどんな汚いことでもやる。

海老沢由紀が予想されるより得票数がすくなく、分析として浮動票が山本太郎に流れた、ということになれば、いちおう、山本太郎が来て結果的にはよかったやん、となる。(衆議院をやめて立候補するのはオカシイと思うし、どっちにしても立憲議席がれいわ議席に移っただけですが。)
そうはいっても、山本太郎もけっこう長く議員をやっているのだから、いつまでも「浮動票を動かす人」っていうゴマメみたいな言い訳は、そろそろ許されないというのもあると思う。(ゴマメというのは、僕が小さいときに大阪の地元でみんなが使っていた言葉。近所の子どもで遊ぶときの、鬼ごっこでデンをされてもオニにならない、年齢の離れている誰かの弟か妹のこと。)

今回の東京選挙区は、これ以外に選択肢はない。
共産党の山添拓は、とても若く、頭もキレて理論武装も行動力も非の打ち所がない、バツグンの人物である。
「学費を半額に」「憲法が希望」をかかげる、弱い者の味方である。
これから、何期も何期も、やっていただきたい。

もし僕が東京都民であれば、山添拓に一票を投じます。

下記は僕が勝手にかんがえた選挙心得です。どうだろう、有効だろうか。みなさんはどう思われますか。

一、民主主義に観客席はない。かならず投票に行く。
一、この世にスーパーマンはいない。「よりマシ」を選ぶ。
一、ジャーナリズムも井戸端会議も、選挙の話をしよう。
一、なるべく、候補者でなく政党で選ぶ。
一、投票の秘密は侵してはならない。
一、何十年のこととして選ぶ。国全体のこととして選ぶ。
一、選挙期間だけでなく、選挙にそなえる。

7月10日は、投票所へいきましょう。


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