「ソサイエティ」

 

ご存知のように、もう三年になるでしょうか、ここ日本にも新型コロナというものががやってきて、「ソーシャル・ディスタンスをとりましょう」という話になりました。
その新語に、なんだか違和感をおぼえたのは僕だけでなかったと思う。 とっさに僕はこう思った。
「ソーシャルなディスタンスをとったらアカンやん、フィジカルなディスタンスをとるのは必要なんだろうけど」
ただでさえ人と人のあいだが遠くなっている世の中で、「もっと遠くしましょう」なんて、いくら感染症のことだから別の話だと理解していても、言葉が悲しい。

ところが、日本にかぎったことではなく、英語をつかう国々はもちろんのこと、世界中のひとが「ソーシャル・ディスタンス」と言っている。
つまり、僕の憶えた違和感はまちがいであった。
僕の英語のセンスが悪かった、という話。
何のことはない、「ソーシャル」というのはただ単に「人間の」という意味であって、この場合は人間という物体どうしのあいだに距離を置きましょうという意味にしかならない。

それで僕は膝を打った。
「ソーシャル」って「人間の」という意味だった・・・知らなかった。びっくり。
もしやと思って、「ソサイエティ」という言葉を辞書でひいてみる。そうしたらこう書いてある。

society
noun
UK /səˈsaɪ.ə.ti/ US /səˈsaɪ.ə.t̬i/
(People) A large group of people who live together in an organized way, making decisions about how to do things and sharing the work that needs to be done. All the people in a country, or in several similar countries, can be referred to as a society.

ソサイエティ
(名詞)
(人びと)①なんらかの秩序を保ち、運営方法を決定したり、やらねばならない任務を共同でおこないながら、大勢であつまって暮らしている人間。②ある国のすべての人びと、または似通った国が二国以上あってその人びと。

ようするに「ソサイエティ」って「大勢の人間」という、ただそれだけの意味の言葉である。
それを明治以来のことだろうけど、日本語では「社会」と翻訳している。 社会なんていう漢字二字の熟語に入れ替わったとたんに意味がわからなくなる。
地域に建ち並ぶ、区役所や郵便局、駅や鉄道、商店街や銀行のことが頭にうかぶ。
もしくは地理。なんとか山脈とか、なんとか性気候とか。
もしくは歴史。源頼朝とか徳川家康とか。または明治維新とか日清戦争とか。

「社会」で画像検索してみると、高層ビルや東京タワーのみえる東京の空撮写真ばかりがでてくる。
「Society」で画像検索してみると、人間があつまっているイラストばかりがでてくる。
本来「ソサイエティ」というのは大勢の人間(が共生している)という意味だったものが、日本語で「社会」という訳語となり、それの意味するところは、よーするに高層ビルのことである。
こんなアホな話があるか。

これが日本における、カギカッコ付き「社会」の実態であり、社会が無いからそうなのか、言葉が無いからそうなのか、もしくは言葉(概念)がないだけで実は「社会」に相当するものはどこかに存在しているのか。もしくは、そもそも人間(個人の集合)という概念が無いからこそ、そうなってしまうのか。

なにぶん言葉の話であるから、どこに元凶をもとめるか、頭のこんがらがることではあるけれど、僕の考えとしては、「わたしたちの社会」なんていう言葉を使っても解決が遠のくばかりだから、「世の中」とか「人びと」とか「地域のみなさん」とか「国民」などを使うほうが、まだ人の住む世をあらわすような気がしている。
ただ、その逆の立場で「社会という言葉をもっともっと浸透させ、その意味をつくり直してゆくべき」という立場もあると思う。

MISSISSIPPI GODDAM(ニーナシモン 1964年)

 
MISSISSIPPI GODDAM by Nina Simone, 1964




つぎの曲のタイトルは「ミシシッピ州くそくらえ」です。 
これは皮肉でもなんでもないんですよ・・・。 

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ
テネシー州にも一言もうしあげます
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ 
テネシー州にも一言もうしあげます 
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

あなたも知ってるでしょう? 
肌で感じるでしょう? 
たちこめる独特の空気 
重苦しくて耐えられない 
ああだれかお祈りを

アラバマ州はお行儀よろしくありませんわ
テネシー州にも一言もうしあげます
ミシシッピ州もご近所に知れております・・・くそくらえ! 

これはミュージカルでつかうために書かれた曲なんですが、 ミュージカルのほうはまだ書かれていないんです。 

路上には警察犬
留置場には学校の児童たち 
黒猫がまえを横切る 
いつ殺されてもおかしくない 

ああ神よ 私たちのこの国 
いつか必ず自分の国に住むはずだけど 
どこにいってもわたしに居場所は無い 
神に祈っても意味がない 

だまって私の話をききなさい 
わたしたち同胞はもう時間切れ 
この目でみたからよく知ってる 
わたしたちは「急ぐな!」ばかり言われるの 

急ぐのか、急がないのか そこが問題なわけ
窓を拭くにしても「早くしろ!」 
綿をつむいでも「早くしろ!」 
「まったくあきれた奴だな、早くしろ!」 
「たいした怠け者だな、早くしろ!」 
「考えなくていいから、早くしろ!」 
どこに行けばいいのか
なにをすればいいのか
ああ分からない 

とにかく最善をつくしましょう 
みんなでたちあがりましょう 
ミシシッピ州の惨状は知れ渡っています ・・・くそくらえ!

ジョークを言っていると思ったでしょう?

デモ行進も学校ボイコットも
共産主義者の陰謀だなんて
わたしたちは平等をもとめるだけ
姉妹のため 兄弟のため 黒人全体のため
そして私自身のため

うそにまみれたこの国
ハエみたいに全員死んじゃえばいい
もうあなたたちのことは信用しない
あなたたちは「急ぐな!」ばかり言う

急ぐのか、急がないのか そこが問題なわけ
人種隔離の廃止にしたって「おそすぎる」 
大衆参加にしたって「おそすぎる」 
市民統合にしたって「おそすぎる」 
社会変革がゆるやかで「おそすぎる」 
これではさらなる惨状をまねくだけ 
気づかないの? 
感じないの? 
ああ分からない 

私のとなりに住めと言ってるんじゃないの 
わたしとあなたは平等だと言ってるだけ 
ミシシッピ州のことは知れ渡ってる 
アラバマ州のことも知れ渡ってる 
誰でも知っている 
あのクソみたいなミシシッピ州

おしまい!




The name of this tune is Mississippi Goddam. And I mean every word of it. 

Alabama's got me so upset
Tennessee made me lose my rest
Everybody knows about Mississippi Goddam

Can't you see it? Can't you feel it?
It's all in the air
I can't stand the pressure much longer
Somebody say a prayer

Alabama's got me so upset
Tennessee made me lose my rest
Everybody knows about Mississippi Goddam

This is a show tune, but the show hasn't been written for it yet.

Hound dogs on my trail 
School children sitting in jail 
Black cat cross my path 
I think every day's gonna be my last 

 Lord have mercy on this land of mine 
We all gonna get it in due time 
I don't belong here I don't belong there 
I've even stopped believing in prayer 

Don't tell me I tell you 
Me and my people just about due 
I've been there so I know 
They keep on saying "Go slow!" 

But that's just the trouble "Too slow" 
Washing the windows "Too slow" 
Picking the cotton "Too slow" 
You're just plain rotten "Too slow" 
You're too damn lazy "Too slow" 
The thinking's crazy "Too slow" 
Where am I going, what am I doing 
I don't know, I don't know 

Just try to do your very best 
Stand up be counted with all the rest 
For everybody knows about Mississippi Goddam 

 I made you thought I was kiddin' 

Picket lines, school boycotts
They try to say it's a communist plot 
All I want is equality 
For my sister my brother my people and me 

 Yes you lied to me all these years 
You told me to wash and clean my ears 
And talk real fine just like a lady 
And you'd stop calling me Sister Sadie 

But this whole country is full of lies 
You're all gonna die and die like flies 
I don't trust you any more 
You keep on saying "Go slow!" 

But that's just the trouble (Too slow) 
Desegregation (Too slow) 
Mass participation (Too slow) 
Reunification (Too slow) 
Do things gradually (Too slow) 
But bring more tragedy (Too slow) 
Why don't you see it, why don't you feel it 
I don't know, I don't know 

You don't have to live next to me 
Just give me my equality 
Everybody knows about Mississippi 
Everybody knows about Alabama 
Everybody knows about Mississippi Goddam 

 That's it!

一(いち)の発見

 

題名に惹かれて、じつに興味ぶかい本をよみました。

吉田洋一という数学者によって書かれた本。

数学の歴史などについて、ふつうの人がたのしめるように書かれたもの。

初版は戦前だが、いまだに人気のある、とても有名な本だとききました。

「零の発見:数学の生い立ち」という読み物です。


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古代のひとびとが数(かず)をあつかうようになり、一やニや三は知っていても、零(れい)すなわちゼロは知らなかったといいます。

ゼロの概念はインドの商人がつくったそうです。

厳密にいうと、それまでゼロをあらわす文字がなかった。


誰もゼロって書くことができない・・・どんなかんじだろう。

「無」というのは意識できたのだろうけど、ゼロというものが数字の一つとして考えられていなかった、ということだろう。

僕なりに解釈してみると、きっと、

 2 ー 2 = ?

と尋ねられると、当時の答えとしては「そんなの、わかりきってるじゃん、なくなっちゃうんだよ、なにをばかな質問してるんだよ」ということになったのであろう。

大真面目な顔をして、

「こたえは、ゼロです」

なんて言わなかったんだろう。

それも分かる気もしなくもないけど。


それが、何世紀のころか知らないけど、インドのひとが、「1や2や3ばかりじゃなくて、〈無〉をあらわす数字もつくったほうが便利だよ」と言い出したと。

それは何年もかけた大革命だったのだろう。

いうまでもなく、そのあとさらにマイナスの概念が発見される。それはもっともっと後の話。マイナスの発見も、大革命だったにちがいない。


そういえば、高校で「虚数」というものを習った。

たしか、「二乗したらマイナスになる」という存在しない数のこと。

存在しないのだが、いちおう存在すると自分自身をだましてみることで、わからなかったことがわかる、新しい世界が見えて来るという。


古代の人はゼロを知らなかった、と聞くとやはり古代のひとびとは数学的に未開だったのだなあ、なんて思うが、人のことを嗤っていられない気もする。

日本人は本当にゼロやマイナスを理解しているのか、心もとない。

というのは、やっぱり、あの、エレベーターの話があるから。


日本で「一階」というのは、諸外国のエレベーターでは「0」というボタンを押します。

日本でいう「二階」というのは、英語では「The first floor」と呼びます。エレベーターのボタンでは「1」になる。


だから、ホテルに宿泊するときには、大きなホテルは困らないのですが、小さなホテルだと頭がこんがらがる。

エレベーターのない小さな宿の場合、レセプションの人から「あなたの部屋は15です。一階にありますから、そこの階段をあがってください」と不気味な指示をもらう。

そのあと、うちのバンドメンバーとの会話で、

「中田さんの部屋はどこですか」

「オレは二階だよ」

「それって、ようするに一階っていう意味ですか」

などという意味のわからない会話をするはめになる。


これは西洋と東洋で、階(かい)がひとつずれている、という単純な話ではありません。

地上階(The ground level)のことを「一階」と呼ぶのか「零階」とかんがえるのか、の違い。

地下一階が、マイナス1なのであれば、日本で云う「一階」は、「零階」とよばなければつじつまが合わないことになる。

もしかしたらどこかの外国からのお客さんが、日本のエレベーターに乗ったら、

「ああ、日本のひとはゼロの概念が希薄なんですね」

などと言われちゃうかもしれない。


僕がその本『零の発見』をなぜ手にとったかというと、ファンクをかんがえる手がかりになるんじゃないかと思ったからです。

ご存知のように、ジェイムズ・ブラウンは「The one」なるものを発明/発見した、と云われています。

ファンクというものに魅せられたひとたちは口をそろえて「The oneだよ! すごいよ! 大発明だよ!」と嬉しそうに言う。


「1、2、3、4、ときて、ふたたびあの1がくるんだ。すごい!」

とあたりまえのことを言う。さらには、

「1、2、3、4、の四つのそれぞれも、やはりおなじ1なんだよね、すごい!」

とか、

「2と4が大事だと思ってたら、じつは音楽は1と3から始まってるんだ、すごい!」

とあたりまえのことをさも大発見のように言う。

つまり、さっきの零(ゼロ)のはなしとおなじで、その概念を知る人は「これがなくちゃやってられない」となるのだけど、まだくっきりと概念がみえていない段階の人は「なにをあたりまえのことを言ってるのだ?」となる。


「The one」をよく知るひとは皆、その話をしだすといきなり「イエーイ! The one!」とか、うれしそうなスイッチがはいって、宇宙と交信するような感覚となる。

ようするに、The oneというのは、神みたいなもん、それにちょっと似た存在なのだろう。


存在。

それが、そこにあるということ。

音楽における音符(ノート)というものは、たらたらと奏でられては時間とともに消え、川の水ように流れてどこかへ去ってゆく、そんな感覚があるけれど、それを打ち破るような概念。

一つ一つの音符が、リズムが、楽器の音が、なにかたしかな存在であるという感覚。がっしりしたもので形成されていて、何かによってしっかりと支えられているという感覚。

その支配的な物体(The one)の存在のなかにもまた、果てしない世界がひろがっているような。

いわば果てしない時間をつくるビッグバンのような。

それがThe oneというもの・・・なのかな。


まあどこまでいっても意味不明なはなしではあるのですが、とにかくジェイムズブラウンは「一(いち)を発見」したとして知られる。

岩波書店から『一の発明』(ジェイムズ・ブラウン著)という本でも発売させないといけない。

一(いち)というのは、そこにある。

もしかしたら無いのかもしれないけど、あると強く思えば、存在をつくることができる。

そうして、それをつくる主体もまた、「The one」だと云う。

NOPE (2022)

 

いまのところ、細部まではっきりとメッセージを受け止めた気分はしていないものの、映画「NOPE」とは一体何の物語なのか、どういう方向で考えたらいいのか、感想を書き留めてみようと思いました。

まず、歴史上初めて撮影された連続写真(=映画)が動く馬であり、そこで「主演」している騎手の曾々々孫にあたるのが主人公二人、すなわち兄の「OJ」と妹の「M」ということですから、彼らは史上初の映画俳優ということになり、その貴い血筋をひく兄妹ということです。(ただし、これはフィクションの設定。)
つまり世が世なら映画業界のロイヤルファミリーということである。プリンスとプリンセス。これは、設定あるあるで、よーするに『ブラック・パンサー』のような、王家が流されているという物語。
高貴な一族が今は身をやつし、食うに困る暮らしをおくっている。映画スタジオからお払い箱にされる始末。
いわゆる貴種流離譚は、主人公が王または女王として返り咲いて物語を終えるのが常だと思われますので、さて一体、ここからどうなるのでしょうか。

その「王家」は「ヘイウッド」という姓を名乗っています。
これは「ハリウッド」をモジっているのでしょう。
すなわちヘイウッド家の人々(父、息子、娘)は映画産業そのものを表しているんだろう。
よーするに、兄妹は映画芸術表現の良心をあらわす、みたいな。そういう話だと思います。

空からやってくる敵は一体なんでしょう。
映画の敵。
現代における映画に対する脅威といえば一つしかありません。
インターネット。
YoutubeとかTiktokとか、そういうやつ。
ネットフリックスやらアマゾンプライムやら、そっちかも知れない。
とにかく、ソーシャルメディアっていうのか、そういうやつ。
Google社でもAmazon社でもいい。
とにかく、この映像業界の新参者たちが映画を殺そうとしています。
映画芸術のことも人間のことも、これっぽっちも気にかけない、ミソもクソも右から左へ流して人々の欲望を煽るだけの、中身のない空虚な広告代理店。
それが映画の敵。
それは人類の敵でもある。

本編中、ずっと映画やお芝居のことばかり話をしています。
監視カメラ、フィルム撮影、レンズ、CG、テレビドラマ・・・。
この映画が、映画についての映画であることは疑いの余地はありません。

さあ、ついに映画界のロイヤルファミリーの反撃が始まった・・・というのがプロットです。
しかし、本人たちは何と戦っているのか、何のために戦っているのか、自覚がなさそうです。
長い間、冷や飯を食わされて来て、自分が誰かさえも分からなくなっています。
(目覚めないといけない。しかし目覚めはまだやってこない。)
当人は、バズり動画を撮影してひと山当てようと考えているだけです。
ロイヤルファミリーのプリンセスともあろうものが、良心をまったく失っています。
それこそ、敵(「Gジャン」)の術中に完全にはまっています。

ラストシーンで、プリンセスは敵を滅ぼします。
しかし、誰を滅ぼすことに成功したのか、彼女に自覚はありません。
そもそもの動機が間違っていたのです。
「オプラ級」のショットを撮影することは出来ました。しかし、それこそ生き馬の目を抜くソーシャルメディアの世界のことです。瞬く間に他人に出し抜かれるにきまっています。「ひと山当てる」など夢のまた夢でしょう。
彼女は勝ってなどいません。

結局、どちらが勝ったのだろう。
映画はその答えをだしていないと思います。
両方ともが死んだ(父や兄は死んだようだし、Gジャンも死んだ。)
ただ、自らの秘めたる力に気付いていないプリンセス(妹)が立ち尽くすところで映画は終わりますから、そこに未来があるような気はします。
答えを出して欲しかった、というのは僕の意見。
映画がインターネットに勝つ、すくなくともGoogleやAmazonやNetflixといった敵くらいは、蹴散らすところまで描いて欲しかった。
僕の要望としては、すくなくとも、何らかの希望は描いて欲しかった。
このままでは希望さえ無い。

さて、元子役スターの「ジュープ」は、Gジャンを利用しようとして失敗します。
これは妹エメラルドとまったく同じ行動パターン。
彼の最期、吸い込まれそうになるときには「飲み込まれて本望」とでもいうような複雑な表情を見せていたのが印象的でした。
彼に限らず、Gジャンの胃袋に入った人たちは、キャーキャーとまるでジェットコースターを楽しむ遊園地の客のような歓声をあげています。
きっとGジャンの胃袋の中は楽しいところなのでしょう。
そのへんを描くためにジュープという第二の主人公は登場している、たぶん。

僕はこの映画には納得がいきません。
一番意味がわからないのは、スピルバーグの「ジョーズ」「E.T.」「ジュラシック・パーク」のような、家族で楽しめる怪獣映画を期待した場合に、あのチンパンジーのシーンは見るに耐えないということです。
(さらに、被害にあった共演者の顔面のキズを「見せ物」として提示しているのは、他でもないジョーダン・ピールです。なぜそんな演出をするの!)
僕はこの映画を自分の子どもに観せたくない。
娯楽大作を批判する娯楽大作が娯楽大作じゃなかった・・・となってしまう。
もしかしたら、アメリカではこれくらいの描写は「家族向け」の範囲内なのかもしれない。
もしそうならあまりにもヒドいと僕は考える。

もう一点。
ジョーダン・ピールはオプラ・ウィンフリーを「見せ物をつくる者」と糾弾している様子である。
チンパンジーに襲われた被害者は、オプラの番組に出演したことで知られる。
でも、ピールがオプラをそこまで厳しく批判するというのも、にわかに信じがたいと思った。
なにかがオカシイ。僕が解釈を間違っているのかもしれない。
または、そもそも映画もテレビドラマもトークショーもソーシャルメディアと同じくらいの汚物だとでも言いたいのだろうか。
わけがわからない。理解力が足らないだけかもしれないけど。

とにかく、無駄な情報量が多すぎる。
もっと家族で楽しめる映画をつくったらええやろ!
映画の話をしたいんやったら、映画の未来に一筋の光を見ることのできるような、よきメッセージを発することをなんでしないのか。
批判すべきは「見たい、見られたい人々の欲望」(=Gジャンおよび飲み込まれてゆく人々)じゃなくて「グーグル社」ではないのか!
・・・というのが僕の感想です。

ものすごく善意に解釈するならば、このあとプリンセスが目覚めて、本来の持てる力を発揮するのかもしれない。
続編を待て、的な。
そのとき「映画の復権」があるのかもしれない。
それくらいしか思いつきません。
今日はこれでおわり。

OUR DAY WILL COME by Ruby & The Romantics, 1964



わたしたちの時代がやってくる
すべてを手に入れる時が来る
愛し合えるよろこびを
分かち合いましょう

「まだ子どもだから分からない」
なんてもう言わせない
私はあなたを愛してる
あたたは私を愛してる

わたしたちの時代がやってくる
そこまで来てる もうすこし
涙はもう要らない
愛を信じて 笑顔でいましょう
この夢は魔法の力を持つ
愛があふれつづけて
わたしたちの時代がやってくる

わたしたちの時代がやってくる
わたしたちの時代がやってくる


Our day will come
And we'll have everything
We'll share the joy
Falling in love can bring
No one can tell me that I'm too young to know
I love you so
And you love me...

Our day will come
It will just wait a while
No tears for us
Think love and wear a smile
Our dreams have magic
Because we will always stay in love this way
Our day will come

Our day will come
Our day will come





下記引用は、平子義雄『翻訳の原理 異文化をどう訳すか』より。
どう訳すのかということが法の解釈を左右するーーつまり「言葉が現実をつくる」ということの例(失敗例)。


英〈right〉、独〈Recht〉は、自然法上の権利の概念を表す言葉である。これの訳語として今日、〈権利〉という日本語が用いられている。たとえば、日本国憲法の第26条に「教育を受ける権利」がうたわれている。しかし〈right〉の訳語としては、〈権利〉は正確でなかったのである。それが〈権利〉になっていったいきさつを、柳父が詳しく伝えている[柳父章(1982):『翻訳語成立事情』岩波書店:149ff]。
〈権利〉という語はその後、日本の社会に大きな影響を与えることになった。たとえば次のようなことがある。「教育を受ける権利」は、国民が国に対して社会的生活を要求できる社会権の一種である。国民には教育を受ける「権利」がある。それに応じて、国には教育を与える義務がある。そこで、国は教育の外的条件を与えるのか、それとも教育内容に立ち入るのか、という問題が出てきて、この点の解釈で学説と判例がいろいろになった。「教育権」をもつのは国である(国家教育権説)か、親である(国民教育権説)か、という家永日本史教科書裁判の論争である。
〈権利〉が〈right〉のことであれば、それは人権のひとつなのであって、国家の権利などではない、ということは明白になるはずである。柳父のいうように、〈権利〉には〈権力〉という日本語の〈権〉の意味(〈power〉に近いもの)が入り込んでいる[同書 158ff]。国がもつ〈権利〉というのなら、それは〈power〉(独 Macht)のことであり、近代の人権思想、自然法による概念である〈right〉をさすことはできない。親がもつ〈権利〉というのなら、〈right〉でよいのだが。〈権〉という文字(言語の言語現実)から、言語にないものが作られていったわけである。明治期の啓蒙思想では、国権と民権の区別が曖昧であった。日本の近代化を急いだという国家的事情が背景にある。自然法による人権思想(啓蒙主義本来の理念)と、国力をつけるというナショナリズムの要請とを、同時に目指したことによる歪みであった。



おつかれさまでございます。
オーサカ=モノレールというヘンな名前のバンドを三十年もやっているのですが、ずいぶん前に大阪から引っ越してしまい、いまは横浜市に住んでおります。
17年くらい神奈川県民です。

毎度恒例の「誰に/どこに 投票するべきか」、今週末の参議院選挙の神奈川選挙区編を考えてみたいと思います。 

291337373_3235313903463773_7401210623971820716_n.jpg
今回の選挙は参議院議員の議席248議席の半数を入れ替える選挙。
日本でかならず三年に一度おこなわれる国政選挙です。

僕の場合でしたら神奈川県です。これは大きな選挙区で、四議席が割り当てられています。

ところが、今年の神奈川選挙区の選挙はちょっと特別です。
といいますのは当選する人は四人ではなく五人なのです。
二年前に行われた横浜市長選挙のときに、松沢(維新)が立候補するので参議院議員を辞職したことにより欠員があるので、今週末の選挙で、五番目に票をあつめた人物がこの席に座ることになっております。(ただし任期は半分しかない)

横浜市長に当選できる可能性なんてどうせ無かったのに、何を思ったかわざわざ参議院を辞職してまで横浜市長選に立候補した。
選挙の裏側は知りませんが、維新の宣伝がしたかったのでしょうか。
または、野党候補(立憲民主党や共産党)の票をいくらか誘導して、自民党の候補を勝たせようとしたのでしょうか。
とにかく、いつもながら自民の覚えめでたい維新。あっちに行ったりこっちに行ったり、いちいちややこしい松沢です。
こういう輩が目立つのが一番悪いと僕は考える。日本の政治腐敗の元凶です。

そういうわけで、主な候補者は次のとおりです。

寺崎雄介(立憲)
水野素子(立憲)
内海洋一(社民)
松沢成文(維新)
三原じゅん子(自民)
浅尾慶一郎(自民)
深作ヘスス(国民)
浅賀由香(共産)
三浦信祐(公明)

まあ、よーするに、
三原(自民)、浅尾(自民)、松沢(維新)、三浦(公明)
の現職四名(松沢は前職だが)は手固く当選すると目されている。
あと残り一議席を下記の三名が奪い合う構図となっている。

水野素子(立憲)
朝賀由香(共産)
寺崎雄介(立憲)

このなかから一名が当選する。一体それは誰か、という話です。
でも、ちょっと待ってください。
僕は頭がこんがらがっています。
なにか手品でも見せられているような気がしています。
定員の四議席は自民二人、公明、維新でもう埋められているわけです。
維新も自民の別働隊みたいなもん(改憲勢力)なわけですから、すべての議席があっち側に抑えられているわけです。これは恐ろしいです。
そんななか、なんだか、おこぼれみたいな議席がひとつ、野党(立憲または共産)に与えられることになっているわけです。
めちゃくちゃラッキー、という話です。

うーん、そんなことってあるでしょうか。
自民側やら維新側もアホではないのです。
みすみす、一議席を立憲やらに譲り渡すなんてことがあるはずがない。
僕はなにか見落としているのだろうか。
狐につままれたような気分です。
いったい何なんだ、この詐欺みたいなおいしい話は。

三日三晩、寝たり起きたりしながら考えましたがわかりません。
この参議院の「三年ごとに半数が改選する」という制度で頭が混乱する。

A4コピー用紙をもってきて、表を書いてみたらわかった。

FXOZUv5acAE76e5.jpg
よーするに、真山勇一(立憲)の持っていた議席が今回の選挙で松沢に取られてしまう見通し、ということである。
五議席目がなんとか野党にまわってくるが、これは任期が半分しかない席なので三年分損していることになる。
なんだ、このマジックは。

それって、よーするに
参議院は選挙で勝てる見込みがあれば、途中でやめちゃって、もう一度選挙やったほうがトク。
という、とんでもない反則技を松沢が使ったということでは!
それで横浜市長選を言い訳に辞職したんじゃないの。
もっと重要なことに、三年後の選挙で野党側が議席を減らすことは間違いない。
選挙制度の悪用。民主主義の破壊。

さすが維新。
さすがみんなの党やら次世代の党やら希望の党やら渡り歩いただけのことはある。
こういうしたたかな悪人が跋扈する現代は、まじめな共産党を応援するにかぎります。

この日曜日も僕は、前回、前々回の参議院選挙と同じです。
あさか由香(共産党)
に投票します。

立憲民主党もイマイチです。
立憲民主党が頑張ってくれなければ困ります!

みなさん、日曜日は投票所へ。


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